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第13章 最後の壁(6)

「いい? くれぐれも無理しないこと。一人の体じゃないんだから。分かってるわね?」

 あたしはしっかりと頷く。でも心の隅っこに何か不安が引っかかっていた。それを振り払いたくてメイサに問う。

「ほんとうに大丈夫かしら」

「ルティの方は大丈夫……のはず。いくら急いでも王都まで往復すれば十日はかかるもの。あと五日は帰らないわ。問題はおばあさまの方。おばあさまが出かけてるなんて、こんなチャンス滅多に無いんだから」

「大叔母さまはどこへ?」

「お客様がいらっしゃるとかで迎えに出られたみたい……『準備が間に合わぬ』って、なんだか慌てていたけれど。こんな辺境の地に誰が来るのかしらね。──とにかく、急ぎましょう」

「うん、そうね」

 あたしはお腹を庇いながら、そっと部屋に入る。中は真っ暗だった。

 母の部屋。最後に入ったのは一昨年の冬だった。いつから閉め切っているのだろう。黴臭く、生温い空気がまとわりつき、一瞬吐き気がした。やっぱり本調子にはほど遠い。

 それでも、お医者様からようやくベッドから降りる許可を得ることができていた。それは昨日の夜の事だった。

 あれからあたしはとにかくお腹の子供のために、気を緩めると胃から逆流しそうな苦い薬も我慢して飲み続けた。毎日入れ替わる『食べられるもの』を探して食べ(昨日は食べられたのに今日は駄目、みたいな事が多々あった)、体力もつけようとした。とにかく必死だった。

 あたしが動けるようになったことを知ったメイサが、こっそりと部屋の鍵を手に入れてくれた。彼女は「個人的興味よ」なんて言いながらも、結局はあたしの力になってくれる。まるで姉のようで、心強かった。

 そして今日。出かけた大叔母カーラの隙をついて、ようやく、ここまで辿り着いた。

 ──自分の目で見て、自分の耳で聞いて判断しろ──

 父がよく言っていたのを思い出す。あたしは、ルティの話を鵜呑みにして、それを怠った。まだ、絶望するのは少しだけ早い。怖いけれど、望みを完全に否定するのは嫌だった。



 メイサは廊下に残って部屋の前を見張ってくれていた。あたしは窓辺に寄ると分厚い緑色のカーテンを開ける。昔あたしの脱走のせいで塞がれていた窓も、覆いが取り払われていた。複雑な模様の入ったガラス窓から差し込む光はオレンジ色。立て付けの悪い窓を僅かに開くと、夕暮れに近い少しひんやりした風が光とともに部屋に入り込んで来た。

 あたしはベッドに座ると目を閉じ、心を落ち着かせる。──大丈夫。もし見えたものがルティの言うような事であっても、真実を知らないよりは良いはず。あたしは、何も知らない事でこうやって枷を付けられているのだから。とにかく──ルキアと、お腹の子供を守るために強くならないと。

 

 大きく息を吐くと、指先に集中する。体中に散らばっている力を血とともに集める。やがてそこにはぼんやりと熱が産まれる。熱を馴染ませるようにそっとベッドの柱にあてがった。



『おい、火を焚け──それから湯を沸かせ』

 慌てた様子のルティが部屋に飛び込んで来た。その腕の中には毛布にくるまれぐったりしたあたし。その顔は真っ青で血の気がほとんど無かった。

 彼はあたしをベッドに置き、上着を脱ぎ捨てると僅かに毛布を剥ぐ。毛布の中のあたしは既に何も身に纏っていないようだった。肌の青白さ、そのあまりに生気のない様子にぎょっとする。まるでもう命が消え去った抜け殻にも見えた。

 ルティの肌が重なる。日に焼けた腕があたしを抱きしめる。

 ──見てられない──

 胸が痛くて息が出来なかった。一瞬指先が浮き、止めどなく流れ込んでいた記憶が淀む。あたしは歯を食いしばって、意地で踏みとどまろうとした。細く息を吸うと、右手でお腹をさすり、左手でしっかりと柱を握り直す。

 周りを見回すと、あたし達を気にしつつも、暖炉に薪を追加したり、毛布を運んだり、侍従が忙しく働いている。ルティはそんな中でも厳しい表情であたしを抱きしめて、青白い腕をさすっている。

『くそっ、ジョイアみたいな風呂があればな』

 ルティは一瞬の躊躇の後、侍従に下がるように命じた。ベッドの上、二人きりになるのを見て、あたしは息を呑んだ。ここまでは、予想できていた。ここからが──問題だった。

 そうして彼はあたしと共に毛布にくるまる。その頬をあたしの頬に押し付け、祈るように呟きながらあたしを抱きしめ続ける。

『スピカ、スピカ、おい、死ぬなよ? 君は俺のものだ。十年かけてやっと手に入れた──絶対死なせないからな』


 ふっと時間が飛ぶ感覚があった。の時間で二呼吸ほどの後だった。実際はどれだけの時間だったのか分からない。あたしとルティは変わらず毛布にくるまっていて、ルティは少しウトウトしていたようだった。

 あたしの顔色は随分良くなっていて、毛布からはみ出る指先は、血の通った赤い色をしていた。

 ふいにあたしの体がぴくりと動き、ルティが目を開ける。そして様子を見ようと顔を近づけた瞬間、あたしの唇が動いた。

『シリウス』

 ルティが一気に、顔を険しくする。そんな彼に気づく事無くあたしは、泣きながら彼に縋る。

『もう二度と離れたくない』

 彼の胸が涙に濡れ、彼の顔が苦痛に酷く歪む。あたしは口にした言葉通り、彼に必死で抱きついてシリウスの名を呼び続けている。ルティは、ひどく不愉快そうにベッドに身を伏せるとあたしの耳元で小さく囁いた。──その直後だった。


 ギイと何かが軋む音に現実に連れ戻される。ルティの言葉の意味が気になったけれど、音の含む嫌な感じに考えを中断せざるを得なかった。柱から手を離し、流れ続ける幻影を一度振り切って目を開く。目の前では、いつの間にか一人の男性が、窓から部屋に入り込んでいた。その姿にぎょっとして立ち上がる。え、あと五日は帰らないって──

「──ルティ?」

 いや、違う。彼じゃない。一瞬赤く見えたその髪は、夕日のせいだったらしい。影に進むとその色があっという間に入れ替わる。この人は────

「こんなところに隠しておくとは。やはりルティリクスは随分とお前に執心してるようだな」

 一歩近づきつつ、笑ったその瞳の色は、あざやかな青。そして夕日が去ったその髪の色は──あたしと同じ、光が溢れるような蜂蜜色。

「う、そ」

「カーラはどうしてもお前を『王妃』にしたいらしいな。お前はここに居ないと言い張った。──あの権力の亡者が」

 吐き捨てるように言うと、ラサラス王はまたあたしに一歩近づく。

「ふん、あやつは『側室』では満足できぬらしい。シャウラを私に嫁がせるだけでは足りず……二代続けて王家を牛耳るつもりなのだろうな。ルティリクスの王位継承が決まってから、どうもきな臭い動きを見せる。昔からカーラとはそりが合わなかった。孫のルティリクスの方が扱いやすいと計算して、もう私を見限ったのかもしれぬな」

 ふふふとルティにそっくりな顔で笑いつつ、さらに一歩詰められる。

 あたしは思わず後ずさろうとして、ベッドが後ろにあった事に気が付く。

「あっ」

 足を取られ、ふらついたかと思うと、そのままベッドに腰掛けてしまう。王がすかさず間合いを詰め、あたしの腰の脇に手をついた。

「甘く見られては困るな。私は、欲しいものは全て手に入れると決めている。そうしたいからこそ、玉座を手に入れたのだから」

「あ、あたしをどうなさるおつもりです」

「決まっているだろう?」

 馬鹿にしたような声と溜息が髪の毛を揺らした。あたしは、少しでも王と離れたくて、後ろに身を引く。──あ、メイサに助けを……、そう思って扉にちらりと目をやるのを見て、王が軽く笑う。

「──あぁ、助けを求めても無駄だ。供に命じてこの部屋には誰も近づけないようにしている」

 あたしは王から目を逸らす事が出来なかった。力負けして、目を逸らしたとたんにきっと食いつかれてしまう。

 ただひたすらに怖かった。──この人は、何か大事なものが欠落している。どこかに置き忘れて来てしまっている。だから、あたしが泣いてもきっと容赦しない。子供の事を訴えても、逆にお腹を殴られそうな、そんな気さえした。

 王はあたしを飢えた獣の目で見つめ続ける。炎のような熱が青い瞳の中で渦巻いていた。

 やがてその口から掠れた声が漏れる。王者の面はいつの間にか剥がれ、代わりに少年のような表情が現れていた。急激に思い出す。この表情は、もしかして──

「そうだ、その目だ。俺はその目が気に入った。その目がどうしても頭の中から離れなかった。お前の内面はその眼差しのように激しいのだろう? ──もっと俺を見ろ。その瞳で」

 王が僅かに身を屈め、肩越しに沈みかけた真っ赤な夕日が現れる。全身が赤く焼かれる。息は既に触れ合い、そのまま唇が落ちてきそうだった。やがて彼はゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。


「お前は、俺のものだ、──『ラナ』」


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