第13章 最後の壁(5)
部屋は北側なのだろうか。硝子で出来た窓にも夏の日差しが届いていなかった。微かに湿った冷たい空気が体にまとわりつく。
イェッドが荷物の中からごそごそと道具を取り出したかと思うと、酒瓶を傾け、中身を僕の手に振りかける。
「ぐ────っ!?」
容赦ない熱が傷口を焼く。い、痛い!
イェッドは苦痛を訴える僕に構わず、念入りに消毒を続けた。
「気持ちは分かりますが……もうちょっと御身を大切にして下さい。──しかし、まぁ、悪い事ばかりではないようですね」
僕は痛みに顔をしかめたまま、頷く。そして、手だけをイェッドに残して、女性に向き合った。
「まさかそちらから接触していただけるとは思いもしませんでした。──シャウラ王妃」
この人は──アウストラリスの現王妃。そしてルティの母。
「初めてお目にかかりますわね。シリウス様。お会いできて光栄です」
彼女は顔を覆うベールをそのままに、にっこりと笑う。形の良い茶色の目が緩むのを見て僕は思わず息を呑んだ。
──あぁ、似てる。色は違うけれど、すごく似てる。耳にはしていたけれど、ここまでとは思わなかった。な、なんていうか、スピカの優しくて柔らかい部分をまとめたような、そんな感じ。
呆然と彼女に見入っていると、彼女は困ったように顔を伏せる。そんなところまでそっくりで──
「そんな目でご覧にならないで下さいな。穴があいてしまいます」
「皇子、失礼ですよ」
「あ、あぁ……」
イェッドが傷口を縛って、僕はようやく我に返る。そ、そうだ、見とれている場合じゃない。この人と話が出来るのは、おそらくごく僅かな時間だけ。
彼女は、僕が立ち直るのを見て、その顔から笑みを消す。
「息子がやったこと──許してもらえるような事ではございません。あなたの何よりも大事なものを──本当に申し訳ないと思っております」
「……あなたは、どういうおつもりなのです」
僕は謝罪を受け取らずに問う。彼女はその目に力を込めて僕を見つめた。
「私には力がありません。しかし、私はルティリクスとスピカ──あえてスピカと呼ばせていただきますわね──彼らの結婚は許せない。もう母が何と言おうと、これだけは。ゆがみを元に戻さねば、国が破滅に追い込まれてしまいます。あなたが使者としていらっしゃる事を耳にして──もう、あなたにお縋りするしかないと。どうして手放してしまわれたのですか。本当に、どうして。スピカがジョイアに居ることで安心していたというのに……」
彼女は早口でまくしたてた。なぜか酷く焦っている。言葉の勢いが削がれるのを待ち、僕は逆に尋ねる。
「どうして、あなたが許せないのですか」
「──それは……」
王妃はとたん黙り込む。言えない理由。僕はおそらくそれを知っていた。
「その理由はラサラス王に言えないのですね? だからこそ、僕に頼るしかない。──あなたは、いえ、シトゥラは、長い間、王を裏切り続けて来た」
王妃の体に震えが走る。彼女は怯えるように周りを見回し、イェッドを気にする。僕が「彼は信用できます」と言うと、彼女は固まった唇を再び開いた。
「あなたは──知っていらっしゃるのですか?」
僕は彼女の目を見たまま、頷いた。そして切り札をちらりと覗かせる。
「『ラナ』のお産に立ち会った産婆に会いました。そしてラナの過去を聞きました。僕には彼女が産んだのが『誰』の子なのか、見当がついています」
「……ああ」
王妃は項垂れる。長い間隠し通して来たその秘密。それは相当に彼女を苦しめたはずだった。彼女が王を愛していたのならば、なおさらに。
「あなたは先ほどゆがみを元に戻すとおっしゃった。それには──すべてを明らかにするしか無いのではないでしょうか。こうしてあなたに話を聞く事が出来たのは幸運です。僕は、この事はあなたの母上──カーラ殿に聞くしかないと思っていました。そして彼女はきっとそう簡単には口を割らない」
メイサの出生のことを考えると、きっとカーラは今回の事にもまったく抵抗が無いはず。だからこそ積極的ともいえる態度なのだ。そして、僕は、このシャウラ王妃はさらに殻が固いとそう思っていた。今の今まで無関心と沈黙を保っていたのだから、今回も流れに身を任せ、保身に走ると。
──それは誤解だった。多分、この人はとても弱いだけなのだ。そして、結婚を止めたいと言う今の彼女は、僕や父と同じ。それならば──
「しかし、あなたは違う。──『子』が可愛いのでしょう? 愛しているのですね?」
僕の言葉に、彼女は瞠目した。おそらく僕みたいな『子供』に理解してもらえるとは思えなかったのだろう。
「どうしてあなたはそこまで……。──その通りです。私は、弱かった。大きな流れに逆らえず、あの子の前で泣いてばかり居た。愛しているからこそ、あの子を見ているのが辛かった。あの子の向けてくる愛情を受け止めるのが辛かったのです。今さらなんだと思われるかもしれません。でも私は、──あの子が壊れてしまうのは、嫌なのです。私は、今まであの子に何一つしてやれなかった。あの子は誰にも頼らずに何でも自分で手に入れようとしてしまうから。頑張りすぎて、壊れそうになっても、それでもまだ歯を食いしばって堪えている。そうして必死で手にしたものが何かを知ったら──きっとあの子は壊れてしまう。私は──それだけは嫌なのです」
王妃はいつしかその大きな茶色の瞳から、はらはらと涙を零していた。
「分かります」
僕はルキアを思い浮かべながら、頷く。
この人は──今、必死で母親になろうとしている。痛いほどに、その気持ちがわかった。
「どうか──スピカをジョイアへお連れ下さい。力の無い私にはこれ以上あの子を止める事が出来ません。どうか──」
僕は頷く。願っても無い事だった。突破口を見つけて少しだけほっとしていると、「急がなければなりません」と彼女がもう一度真剣な顔で口を開く。
「ええ」
僕は、頷きつつも不思議に思う。とりあえずはスピカとルティの結婚が止められれば良いと、それだけしか考えていなかったから。そして、それは、王妃の言葉を借りればすぐにでもうまく行きそうな気がしていた。
ちょうどその時、僕たちの様子を伺うように扉が叩かれて、部屋の空気が変わる。時間切れか。
それまで黙って聞いていたイェッドが不意に鋭い声で尋ねる。
「そういえば────なぜ国王陛下は会談にご出席なさらなかったのですか?」
確かに疑問だった。だけど今、それを問うのか? そう思った直後、何かが頭の中ではじける感覚があった。
まさか。
裏付けるように王妃が恐ろしい言葉を紡ぎだす。
「スピカは、ラナに似すぎています。特にあの目が。内に秘める苛烈さが」
そうか、王妃には、あの激しさが無いのだ。確かに、スピカと王妃は似ていたけれど、色だけでなく、歳だけでなく、何かもっと強烈に違うものがあると感じていた。言われて気が付く。そしてある可能性にようやく辿り着いて、戦慄した。
──過去にとらわれたままの王が、最愛の女性の娘を前に、何を望むか──
僕が気をつけなければいけないのは、ルティだけではなかった。
扉が遠慮がちに開かれる。侍従が心配そうな顔をのぞかせる。隙間から午後を示す目を焼くほどの鋭い光が差し込み、僕と王妃の間に白い線を引いた。広間の喧騒が部屋に舞い込み、静寂は破られる。
王妃の囁き声が、残された僅かな時間を埋める。
「王は──スピカをお求めになられています。あなたのご訪問を餌にルティリクスを呼び寄せられて、ご自分は今朝、シトゥラへ向かわれました」