第13章 最後の壁(3)
「ああ、皇子、その耳飾りは」
「いいんだ。それより……面倒だな。ミアー湖を行けば三日と聞くのに」
僕は不満げなイェッドの視線を振り切って話題を変えようとする。
イェッドは僕の耳をじっと見つめてため息をつく。そして一言だけ文句を言った。「着けて下さいとお渡しした訳ではありませんが。──まるで似合っていませんよ」
「髪で隠れるから別に良いだろう」
それ以上の苦情は受け付けない。空になったままの耳に何か着けるとしたら、これが一番落ち着いただけ。僕は見ないのだから、いいんだ。見せたい人は一人だけだし。耳を髪で隠すと、馬車の椅子に沈み込む。
これは、スピカの残した数少ない荷物の中にあった。僕があげた他のものは、残っていなかったのに、これだけはなぜか残っていた。シュルマが日記を探したときに見つけてイェッドに託していたらしい。すぐに僕の贈り物だと分かった彼女は、僕には言い出せなかったそうで。
二つ並ぶ赤と緑の耳飾りの一つだけを僕は受け取り、残りはルキアへと残した。
あのとき、僕は彼女に僕の印を付けた。時が経っても消えない印を。僕は次に会ったときに……彼女の耳を見ればいい。僕が彼女の心に残っていれば、彼女はきっと外さない。残してくれているだろうか。もしかしたら、別のものが収まっているかもしれない。たとえば──そうだ、僕がルキアにあげたのと同じような、赤い石の耳飾り。僕がスピカに僕の色を付けたのと同じように、アイツの色が。アイツの印が。スピカの上に。
そのことは考えないようにとしていた。けれど、レグルスの話を聞いた後から、不安は僕の中で徐々に大きくなっていった。そしてアウストラリスの乾いた空気はその不安を一気に膨らませた。
もうスピカがアイツの手の中に捕われて、ふた月近く経っている。彼女はレグルスの命と引き換えに城に留まり、その命を救うために彼に身を委ねている。以前僕の記憶を消す、そのためだけに僕と寝ようとしたのと全く同じ理由で、彼女は彼の腕の中に居る。おそらく少しの躊躇もせずに。彼女は、僕が彼女を捨てたと思っている。つまり、僕という束縛は、彼女の中にはもう無いのだから。
国境を閉じさせた理由は三つだった。僕が追えないようにするためだけでなく、ジョイアの国力を削ぐためだけでなく──スピカに僕を諦めさせるため。彼女の心に僕が住み着いているのは、邪魔だったんだろう。普通に待っていては、いつまでも彼女の心は手に入らない。彼の目にもそのくらいに僕たちが愛し合っているのは分かったはずだった。だからこそ、ここまで念入りに手を回した。
レグルスは、スピカが僕以外を受け入れないと、そう言ったけれど、アイツはそれを分かっているからこそ、こういう手を打ったのだと思う。
──僕を追い出して出来た心の隙間に忍び込む。そしてアイツは僕に捨てられたという彼女の大きな傷口を、甘い言葉と抱擁で埋めたのだ。それは随分卑怯で──しかし、効果的な方法だと思った。スピカが落ちていたとしても仕方が無いくらいに。
──ふたつき──か。
それは短いようで、長い時間。男と女が近しく過ごせば、情が湧くほどには。現に、僕だってシュルマとの距離が随分近くなった気がしている。
そして、もともとスピカは、ルティにそこまでの悪感情を持っていなかった。彼女は人を嫌えない。それに、アイツは、──認めたくないけれど、男の僕の目から見ても、相当に魅力的だ。
彼女はもう、泣いていないかもしれない。彼の腕の中で何度も愛を囁かれて、僕を忘れさせられているかもしれなかった。
目を瞑ると瞼の裏ではスピカが目に涙を溜めたまま微笑んでいる。この顔は、あの夜の彼女の顔。一緒に花火を見た、あの時の顔。──ずっと彼女はこの泣き笑いの顔まま僕の瞳の中に住み着いていた。
スピカ。僕は君を捨てたりしてないんだ。遅くなったけれど、今から迎えにいくよ。だからお願いだ。それまで──待っていて。頼むから──アイツの腕の中では、あんな風に微笑んだりしないでくれ──
「──じ、皇子? 大丈夫ですか?」
イェッドの声ではっとする。馬車の揺れにうとうととしていた。「あぁ……」
思わず大きく息を吐く。まなうらにはスピカとルティの笑みの残像が残っていた。見たくもない最悪の結末。僕は彼女に別れを告げられ、そして僕のやって来た事は全て無駄となる。悪夢から引きずり上げられた事をただ感謝した。
──どうしたんだ、僕は。知っているはずだろう? この結末は、絶対に有り得ない。
会談を前に、神経が昂っているのかもしれない。そう思ってもう一度深呼吸をした。
「真っ青ですが、馬車に酔いましたか?」
イェッドが濡らした布を僕に手渡す。僕は受け取ると、こめかみの汗を拭いながら、首を振る。そして気持ちを入れ替えようと窓を開けた。
「ああ、ここって」
からりとした熱い風が汗を一瞬で乾かした。ジョイアとは違う、湿度の低い、埃っぽい風だった。窓から外を見ると、馬車の行く先で道が左右に大きく分かれている。
「西の道を行けば、ムフリッドですね」
その言葉に頷く。ジョイア国境とエラセドを結ぶ大きな街道の途中で、シトゥラのあるムフリッドへと続く道が西方に分かれている。この道は以前一度だけレグルスと通った事があった。あの時も、やっぱりスピカを連れ戻しに来ていた。
以前スピカとルティを追いかけたエラセドへの道は、ムフリッドからエラセドまで、砂漠を突き抜けた最短の道。今度は、別の道を行く。あの道は通らない。あの嫌な思い出の詰まった石造りの廃墟は砂漠の道の途中にあった。アウストラリス側がつけてくれた護衛が言うには、厳しい夏期の今、砂漠は土地の者でも無事に抜けられない事があると言う。不慣れな僕たちは迂回せざるを得なかった。
馬車の行く先は背の低い木々がまばらに生えるだけの灰色に痩せた土地だった。乾燥に強い根の太い草が微かに夏の原色を覗かせる。地平線には建物の姿は無い。水の無い土地には住処を構える事は出来ないのだ。
その寂しい光景に、北部が寂れているのはジョイアと同じだなと思う。どちらも北は険しい山脈とその先の海に閉ざされている。ジョイアにはまだ川と農地があるから良いけれど、アウストラリスにはそれが無い。北部でとれた鉱物は南に全て運ばれて、オルバースを通り、ミアー湖を超えて他国へ流れていく。その際の関税も、この国にとっては痛い問題なのだ。アウストラリスがオルバースが欲しい理由はよく分かった。
──オルバース。あの土地もあのままにはしておかない。父と話して、すぐに会議に移されたその案は、僕がジョイアに帰る頃には正式に通っている事だろう。貧しい北部を救い、オルバースの肥えた腹を削ぐ。それには僕がこれから頑張ることが前提となっているけれど。
失敗は許されない。背水の陣で挑む覚悟だった。