第13章 最後の壁(1)
「どう? 調子は」
声をかけられて目を開けると、メイサが顔を覗き込んでいた。
「割といいけれど……やっぱり食べられない」
浅い眠りを振り切って、起き上がると、メイサが背に枕を当ててくれる。
「何か食べられそうなものは無い? 用意させるわ」
「……臭いのしないものがいいの。冷やしたものなら牛の乳も大丈夫だったわ。あと……酸っぱいもの」
「分かった。すぐに持ってくるわ」
メイサの後ろ姿を横目で見送ると、あたしは目を閉じる。そしてお腹を撫でた。まだ膨らみは全くない。ただつわりがしっかりとあるので、安心した。──ここに、いる。シリウスの赤ちゃんが。
これからどうなるのかなんて分からない。今、二人で死んでしまった方が幸せなのかもしれない。だけど、そう思っても、この子を産みたかった。あたしに残された、最後の希望。シリウスの傍にいることはもう出来ないけれど、そんな人生なんかもう意味が無いって思ったけれど。この子のためになら、あたしは生きていけると思った。
扉が音を立て、メイサが再び現れる。
彼女の手の上の氷の入った器を見ると、中にはいくつかの果物と、牛の乳の入った硝子で出来たカップが埋め込まれている。
「今冷やし始めたから、少し待ってね」
メイサはそう言うと、あたしの額にかかった髪を払う。そしてある一点をじっと見つめた。「それ、似合ってないわよね。……あの皇子さまの?」
あたしははっとして耳たぶを隠す。
「──ルティには言わないで!」
「さすがにもう気づいてるんじゃない? それ、すごく目立つし、彼、目ざといし。──ふぅん」
「何?」
「いや、知ってて取り上げない辺り、ルティらしいわねって」
くすくす笑うメイサに、あたしは目で問う。──ルティらしい?
「彼は優しいでしょう? 特に女の子なら誰にでも」
私以外にはね。メイサはそう付け加えると溜息をついた。
「ジョイアでもすごかったでしょう? 帰って来てからも来るもの拒まずで、しかも優しいからみんな勘違いしちゃって……。だから周りが勝手に揉めて大変なのよ。殺生沙汰まであったくらいで」
あぁ……なんだか……想像できる。ルティが本当は優しいのは知っていた。出会いが違っていたら。普通にアウストラリスで育って、最初に彼に出会っていれば。あたしも他の女の子みたいに、彼に恋をしていたかもしれない。
メイサは少し寂しそうに言う。
「皆、最初は気が付かないのよ。彼が想うのは自分だけだと信じてるのね。そのくらいに情熱的じゃない? ──だけどある時ふと気が付く。彼にとって自分が特別では無い事に。だから、一番になりたくて必死になる。
去年もね、あなたを手に入れようってルティが画策してるのを知って、どれだけたくさんの人間がジョイアに潜り込もうとした事か。あなたを手に入れれば、目をかけてもらえるとみんな張り切っちゃって。結局はまだジョイアにも彼が昔作った味方がいたから、一人だけしか潜り込ませなかったけれど……」
「一人だけって──エリダヌスのこと?」
シトゥラがあたしを手に入れるためにシリウスのもとに送った娘。死んでしまった、哀れな、本当の名も知らない娘。そうか、あたし、彼女の事があるから、いくらルティの良い話を聞いても、いまいち信用できないのかもしれない。だって、彼が彼女を殺すようにミネラウバに指示した。あたし一人を手に入れるために、その命で人を──殺した。
「名は……何だったかしら。もうシトゥラに来たときには『エリダヌス』で通してたし。ルティの取り巻きの一人だったわ。上手くやれば王妃の座を得られるかもって張り切っていたわね。良くも悪くも野心が過ぎたのよ、きっと。──死んじゃうなんてね」
メイサのさらりと言った言葉に驚く。
「え? そういう風にミネラウバに指示をしたんじゃないの?」
「まさか。こちらが指示したのは『皇子とあなたの間に亀裂を入れること』。ただそれだけ。皇子はあなたを手放さないように見えたし、あなたが皇子を見限ればそれでよかった。『スピカは、口では殊勝な事言ってても、浮気は絶対許さない。確実に根に持つ』ってルティが言うもんだから。皇子さまの趣味はよく分からないから、スピカが妬きそうな女を送ろうって。だからああいう娘がピッタリだった」
「……」
呆れたような視線に項垂れる。……そうかも、しれない。実際、シリウスが浮気をしたと信じ込んで、頭に血が上っていたことを思い出した。自分で『一番じゃなくてもいい、傍に居られればいい』なんて言っておいて、結局は我慢できなかったのだ。恥ずかしい。ルティの浮き名の前にも揺らがないメイサの前では、余計に。
そして、──『妬きそうな女』。確かに、あの体は羨ましかったし……実のところ……未だにあのキスを根に持っていたりも、する。ルティにそこまで読まれてしまっていた自分が悔しい。そんなにあたしって、分かりやすいのかしら?
「その娘──ミネラウバって言うのね──彼女がやった事を聞いて、まただわって思ったわ。その子にとって、エリダヌスは邪魔だったのよ、きっと。恋敵だもの。功を競ったのかもしれない。彼女を殺してあなたを手に入れれば、ルティが手に入ると夢を見たのかもしれない。うん、なんだか想像できるのも悲しいんだけどね。──ルティには女の子を駒にするのは止めなさいって散々忠告はしてるんだけど、……恋が絡むと女は過激だからって。彼にはその辺理解できないみたい」
そう言うとメイサは寂しそうに微笑む。あたしは彼女の気持ちを考えると何も言えず、ただ頷いた。そして遥か南に流されたミネラウバに思いを馳せる。彼女は、結局ルティの事を一言も口に出さずにジョイアを去った。本当に、好きだったんだと思う。エリダヌスと何があったかはもう分からないけれど、多分彼女は、ルティのために必死だっただけなのだ。──あたしが彼の妃にと、望まれている事は知っていただろうに。報われない事など、知っていただろうに。
シリウスもあたしに何も望まなかった。あたしが全部勝手にやったこと。そしてあたしは失敗して、彼を喜ばせる事は出来なかった。何一つ報われずに、あたしは彼から切り離された──そう思いかけたけれど、首を振った。
いや、違う。あたしは──あたしには、まだこの子がいるのだから。あたしは、たった一つだけ、報われた。あれ……? あぁ、あたしったら……
ふと、自分が結局見返りを求めている事に気が付いて、呆れる。なんて傲慢。ミネラウバの気持ちがわかるなどと言えば、彼女もきっと呆れるだろう。あの時みたいに『あなたは……幸せ者だわ』と言って。
そんな事を考えていると、メイサがあたしの右手をそっととり、撫でた。
「あなたが手に入れば、もうそんな争いも無くなる。あなたは誰がどう見ても『特別』なんだもの」
「……そうかしら」
あたしにはそう思えなかった。だって彼はあたしにも優しい。特別? 確かに特別なのかもしれない。だけど、それは力の事があるからで。本当に特別と言うならば、よっぽど相応しい女性がいる気がした。
メイサはあたしの視線を避けるようにして、氷の器から林檎を一切れ取り出す。あたしは受け取ると一口齧る。その甘い香りに少し吐き気が上がるけれど、口に広がる微かな酸味に助けられて、辛うじてそれを飲み込む事が出来た。
──それにしても、あたしは、これからどうするつもりなんだろう。身重の身では、逃げることも出来ない。この子を守るには、──もう、何もかも諦めてルティに身を任せるしか無い。お腹を庇うように両手で覆う。
「ルティは……この子をどうする気なのかしら」
今度はシリウスに似るかもしれない。黒髪の子供、それはジョイアのルキアと同じように扱いに困る存在だろう。でも、また人質として利用されるのかもしれない。あたしが逃げないように。ただそれだけのために、この子も『飼われる』。
そう思って絶望しかけるあたしに、メイサは意外なことを言う。
「もし男の子だったら、そのまま息子として公表するでしょうね。でも──女の子で皇子さまに似ちゃったら、可哀想ね。王女としては公表できないわ。もし力を持っていたら、お祖母さま辺りが欲しがるだろうし」
言われた事の意味が良く分からなかった。
「──男の子なら?」
「だって髪が赤いでしょう?」
「?」
髪が赤い? 当たり前のように言われたけれど、やっぱり意味が分からない。首を傾げたところで、扉が音を立てた。開く扉の向こうには赤い髪。メイサとのおしゃべりで気が緩んだ顔を慌てて引き締める。
「今から王都へ戻る。スピカを頼む」
そう言って冷たい視線でメイサを一瞥すると、ルティはあたしに甘く微笑んだ。
「随分顔色も良くなって来たな。なるべく食えよ。何でも用意してやるから」
「……」
あたしは彼に答える事も無く、表情も無いまま俯いた。
ルティはあたしのそんな態度に、仕方なさそうに息をつくと部屋を出て行く。
「なんで戻るのかしら……」
呟くとメイサが「意地張らずに、本人に聞けば良いのに」とぶつぶつ言いながらも教えてくれる。
「──あなたたちの結婚の、最後の壁を取り除きに行くのよ」