第12章 綻びと繕い(4)
「皇子殿下、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
騎士の言葉に僕は頷くと、用意された奥の部屋にまっすぐに向かった。ハリスの要塞。ハリス自体には街の様子を伺うため、去年から何度も足を運んだけれど、砦内部には、スピカが怪我をしたとき以来久しぶりに足を踏み入れた。
──懐かしい。
ここは空気の臭いが独特だ。乾いた土の臭いと微かな鉄──血の臭い。それを嗅ぐといろんな思い出が次から次へと蘇ってくる。
初めて来たとき、僕は15になったばっかりだった。命を狙われ、身分を隠して、レグルスとスピカに守られていた弱々しい子供の僕。
スピカも性別を偽っていたというのに、自分の身ばかり心配していた気がする。女の身でどれだけ過ごしにくかっただろう。僕を守るために何も言わずに我慢していたはず。スピカの気持ちを考えると自分が情けない。
部屋に着くと、僕は隅に据えられたベッドに腰掛ける。簡素な石造りの部屋を見渡してため息をつく。
あの頃は今がずっと続けばと──皇子である事を忘れて、スピカやレグルスと一緒にずっとここで働いていければいいなんて思っていた。そのくらい穏やかで楽しい日々だった。でも、今はもうあんな風には戻れない。僕はやっぱり皇子だし、スピカがもしあのままただの友人だったらなんて……考えるのも嫌だ。──あの時はこんなに好きになるなんて予想もしなかった。
今の僕が昔のようにスピカの隣に眠ったとしても、もう、きっとあれほどドキドキしないんだろうな。……というか、絶対我慢なんか無理だし、胸を高鳴らせる暇もなく腕の中に囲うんだろうけれど。そう想像して僅かに笑みがこぼれる。
僕たちの間にはもう衝立もレグルスの牽制も無い。駄目だと思えばこその昂りだったのかもしれない。それか、僕がそれだけ未熟だったか。あれから二年ほどしか経っていないというのに……。今の僕と比べると、不思議だった。
僕はエラセドに向かう途中だった。今度はルキアは置いて来た。さすがに子連れで行く訳にも行かず、サディラとシュルマごと叔母と父に任せた。
父には結局思ったよりもたくさんの事を託してしまった。ルキアの事、それから母の潔白の証明と、僕の身の証。それに伴う貴族達の混乱を治める事。特にミルザの周辺で一部の貴族がこっそりと盛り上がっているのは、頭の痛い問題だったのだ。
僕はその関係で、ハリスに着くなり、まず、牢に預けていた例の<証拠品>を引き取り、宮に届けることにした。本来ならば、ジョイア南端のガレから船に乗り、オルバースを介してアウストラリスに入国するのがエラセドへの近道だ。入国をハリス経由にしたのはいくつか理由があったのだけれど、その証拠品関係の処理も一つだった。
それらを渡せば、僕が尋問するよりもきっと父が尋問する方がうまく行く。愛する妻の墓を荒らされたのだ。甘い僕には出来ない事も、今の父ならばとことんやる。おそらく効率が違うだろうし、そもそも──この問題は、僕ではなく、父が解決すべき問題だった。僕には、僕のするべき事が別にある。
それから、ハリス経由の行程にした一番大きな理由は、オルバースを抜けたくなかったから。ヴェスタ卿の支配下であるあの街を通るのはいろんな意味で危険を感じていた。足止めを食らう可能性──足止めだけですめばまだいい──を捨てられず、僕は遠回りをしてハリス経由で入国する手はずを整えていた。
そして最後の理由は──
扉が開く。衣擦れの音とともに近づいて来た影に向かって僕は尋ねる。
「レグルスは? ミアー」
「……地下の牢に軟禁させていただいています。ループスが見張っております」
僕はため息をつくと立ち上がる。
レグルスは絶対にジョイアに戻らないと言い張って聞かなかったが、ミアーとループスになんとかレグルスをハリスに連れて来てもらえないかと頼んだ。彼を動かすのが無理ならば、アウストラリスに入国後に僕が彼の元に向かうつもりだったのだけれど……
僕はミアーを伴って地下に足を進める。かつん、かつん、と足下の石が音を立てた。道すがら再びミアーに尋ねた。
「どうやって連れて来たんだ? ジョイアに戻るだけでも面倒なのに」
「さすがに二対一でも真っ向勝負では無理なので……薬を盛りました」
僕は目を見開く。そしてくすりと静かに笑うミアーに聞く。
「──例のお茶か」
「はい。隊長もさすがに精神的に限界だった様で、薬の効きがとても良かったのですよ」
ミアーは否定せずに、しかも悪びれずに『薬』と認める。その様子に小さくため息をつきながら思い出す。僕も前に一度やられたんだった。あれは、確かに参っているときにはてきめんに効いた。……今更だから怒る気にもならないけれど。
いくつもの階段を下り、辿り着いた地下の牢の前で、ループスがにこりと人の良い笑顔を見せる。
「ご苦労だった」
声をかけると、「隊長を捜しに行かせていただき、本当にありがとうございました」と逆に感謝される。こんな事になっても、変わらず部下に愛されているレグルスが本当に羨ましい。
牢の扉を開く。黴臭い臭いに一瞬息を止め、吐き出しながら燭台を目の高さに掲げる。──痩せたな。そう思った。
「……レグルス」
「…………」
彼は石の床に這いつくばるように膝をついていた。肉の落ちた背中が、僕の声に僅かに震えた。
「無事で良かった」
「──── 申、し訳ありません。私は、あなたからスピカを奪っておいて、結局守れなかった。……でも、お願いです。これ以上アイツを追わないで下さい。前とは違います。今度あなたが追えば戦になる。私たちが消えれば、この『力』を巡った諍いは終わる。ジョイアもアウストラリスもそれで平和を取り戻します。──分かって下さい。スピカはあなたの重荷になる事だけは絶対に望まない。そして、多くの人の不幸の上にある幸せも望まない」
僕の言葉を拒絶したまま、レグルスは床に頭をつけている。僕の赦しなど必要ないというような、頑な態度。彼は、娘の罪を、全て負ってしまおうとしていた。最初から彼は、いざとなったらそうするつもりだったのだろう。彼の娘への甘さは、その覚悟があるからこそのもの。
──親として。親だからこそ持つ身勝手さで。彼はその手で二つの命を断つつもりなのだ。
『ああ、幸せが何かなど聞かないで下さいよ。生きていなければそんなもの、存在しない──』
彼の口にした言葉が耳に蘇る。そう言った彼が何よりも大事な命を絶とうとするのは……それだけ彼の絶望が深いということだ。彼はスピカが幸せになることを既に諦めていた。彼の目には闇しか映っていなかった。スピカのために国を巻き込んでの争乱が起こる。そしてルキアの将来も未だ暗いまま。その状態で彼女がこれから僕の隣で生きていくのは、死よりも辛いと判断した。──それが今の彼の僕に対する評価。
僕がスピカを苦しめた事は事実だ。だからそれもしょうがない事。分かっていても悔しくて、唇を噛み締めて俯いた。
遠くで水の流れる音がする。その隙間を縫って、騎士達のかけ声が微かに響く。
彼は答を待っていた。僕が『覇道』と『王道』のどちらを選ぶのかを。
選ぶのは、『王道』。だけど、それはスピカを諦める事ではない。彼女を手に入れてこその王道を、僕は進む。
首を小さく横に振ると前髪で遮ぎられていた視界が開けた。大きく息を吸うと、言葉が届くように祈りながら、語りかける。
「──レグルス。僕は戦はしない」
金色の髪が微かに揺れ、レグルスがようやく僕を見上げる。緑灰色のうつろな瞳が僕を見つめた。
「スピカを捨てて下さるのですね」
「いや、スピカは諦めない」
「でも──」
何を子供のような事を言っているのだと言いたげに、その顔が歪む。
「大丈夫。僕に任せて。──戦はしない、スピカは取り戻す」
その目をしっかり見つめ、言い聞かせるようにもう一度言う。レグルスの瞳の中で燭台の光が静かに揺らめいた。
「皇子──?」
彼はまるで初めて見るような目で僕を見た。
「でも、僕一人ではそれは無理だ。頼む。スピカを取り戻すために──僕を助けてくれないか」