第12章 綻びと繕い(1)
それらの知らせが入ったのは、僕が都に戻ってすぐの事だった。手元の書簡と報告書に目を通して僕は深々とため息をついた。
──さて、どれから片付けるべきか。
僕は一つ目の書簡を引き出しに入れる。これは──待ちに待った良い知らせ。ようやく僕の足かせは一つはずれ、足はゆっくりと歩みを始める。
そしてあと二つの書簡を机の上に並べると、シュルマとサディラを呼ぶ。
二人はそれまで部屋の中央に敷いた敷物の上でルキアとイザルをあやしていたけれど、僕の声に立ち上がる。そしてイェッドが代わりに敷物に座って、慣れない手つきで二人をあやしだす。
僕は椅子に座ったまま、静かに立ち尽くす二人の女性を見上げた。一方はいつも通りに微笑み、もう一方は真っ青な顔で震えていた。
「君たちの父上から久々に手紙が届いたよ。──これはどういう事なのかな」
その内容は『シュルマを妃に迎えよ』というもの。条件は、『塩』だった。『塩』については予想していたけれど、この時期だとは思わなかった。それは少々早すぎた。彼にしては珍しい。──焦ったか。
「父は……まだそんな事を言っているのですか!」
憤慨するシュルマに頷き、もう一通の書簡を開いて二人に一部を見せる。
「こっちのメサルチムの書簡にはね、『皇嗣をミルザに譲れ』って書いてあるんだ。──おかしいだろう?」
「なにがでしょうか?」
シュルマがきょとんとした顔で尋ねる。
「何がおかしいかって? ──どうして、君たちの父上が、この時期に僕に妃をと推すのか分からないんだ。だって、僕は今、義母上の日記のせいで、後継者としての資質を問われている最中だ。それは国中の貴族の中で問題となっていることだよ。それなのにオルバースは、なぜ僕を皇太子だと信じているのかな? しかもあの切れ者のヴェスタ卿だよ?」
シュルマがそこでようやくはっとした顔をする。
「まだ、僕の母の日記のことは誰にも知られていないのにね。父上にさえ、今から報告に行こうかと思っていたくらいだ。知っているのは──ごく僅かな人間なんだ。──サディラ」
僕が名を呼ぶと、それまで静かに話を聞いていた彼女の体が跳ねた。
「君の夫のことを調べさせてもらったんだけど──君の夫はオルバース騎士団の一員らしいね。そして、ここしばらく──半月ほどかな、休暇を取っていると」
青い顔がますます青くなる。
「君は定期的に夫宛に手紙を出しているね。それ自体は普通の事だけれど、その宛先は、休暇中にも関わらず──夫の職場宛。そしてそれは宛先を変えて再送される──休暇中の滞在先──君の実家に」
「どうして、それを……」
「……ごめん。君達を完全に信用していた訳じゃなかったんだ」
「そんな人間に大事なお子様を預けていらしたのですか?」
サディラが苦しそうに呟く。
「観察していて君がルキアを大事にしてくれるのはすぐに分かったから。君はイザルとルキアを同じように扱ってくれていた。それに、母親である君にはルキアを酷くは扱えない。そう思ったんだ」
サディラは力なく項垂れている。
「君みたいな女性がこういう事をするのには訳があるんだろうって思ったよ──彼は?」
「父に人質として取られました」
やっぱりな。酷く疲れた顔のサディラを見て僕は納得する。あの狸ならそのくらいやりそうだった。
「辛かったね。──欲しかったのは僕の身の回りの情報か」
「はい」
「すぐに秘密裏に手を回す」
「ありがとうございます」
サディラの目の端に涙が浮かぶ。気まずくて目を逸らした。
「礼を言う必要はないよ。僕も君を利用していたんだから」
礼をして下がるサディラの背中を見送ると、シュルマがひっそりと呟く。
「これから……どうされるのですか」
彼女は父と姉のした事に放心しているようだった。
その視線の先にはヴェスタ卿からの手紙があった。もう一つこの辺ではっきりさせておかなければいけない事があった。思い切って口を開く。
「シュルマ、ごめん。君の想いには応えられないよ」
シュルマの体が強ばるのが分かる。
「何をおっしゃるのです。そんなこと──分かっております」
『冗談でしょう、自惚れないで下さい』と軽い調子の言葉が返ってくるのを期待していた。けれど、彼女の声は少し震えていた。それで確信してしまう。彼女が見せた所々不自然な行動、そして彼女が時折見せる寂しげな表情はきっと──
「ごめん」
シュルマは僕をきっと睨むと震える声で、でも力強く言う。
「私は────ずっとスピカ様の友人でありたいのです」
「分かってる」
「スピカ様に一日も早く戻って来ていただきたいのです」
「そうだね」
シュルマの充血した目が痛々しかった。
野心など持たないように見えた彼女。でも侍女として一番近くに居て、野心を持たない無いわけが無いのだ。彼女達はそういう風に育てられて、送り込まれて来たのだから。シェリアや、ミネラウバと一緒。シュルマだって例外じゃない。
スピカがいない今、彼女の立場は限りなく妃に近い。僕の気まぐれ一つでその座は手に入る。
強引に誘われれば、僕は抗えなかったかもしれない。スピカを想って眠れない夜などいくらでもあったのだから。そのくらいには気を許していたことに彼女も気が付いていたはずだった。でも──彼女は、機会はいくらでもあったのにその線を越えようとはしなかった。だからこそ、僕はシュルマを信用していた。
おそらく……彼女だって揺れたのだと思う。スピカを試したり、僕を試したり、彼女に似合わないような気がして不思議だったのだ。でも結局彼女は悩んだ末に選んだ。僕の妃としてではなく、スピカの友人として宮に残る事を。
それ以上追求する気にはなれず、僕は何も言えずに黙り込む。シュルマはやがてふんと鼻を鳴らして笑う。それは、いつもの彼女の笑みだった。
「私は────スピカ様の代わりなどまっぴらなのです!」
そのきっぱりとした宣言と、明るい笑顔に言うつもりも無かった本音が漏れる。
「……僕は君のそういうところが好きだよ」
シュルマは目を見開いてあっけにとられた。でもすぐに気を取り直してにやりと笑う。
「あら? スピカ様に言いつけますわよ?」
そう言われても、今の僕はスピカが怒るところを想像できない。僕の目に浮かぶのは彼女が出て行く少し前に見せた、──仮面のような笑顔だけ。
「怒るかな?」
「怒ります。彼女、結構嫉妬深いのですもの。私、彼女だけは敵に回したくないのですよ。彼女って、皇子の事となると普段が嘘みたいに強かでしょう。……今のこの状況だって……こう言ってしまっては皇子には申し訳ないですが、あえて言わせてもらいますと、──本当は相当に失礼なんです」
「そういえば、そうだ」
初めて思い当たっておかしくなる。確かにシュルマの立場を思うと失礼な話だ。彼女は子持ちの男を子供ごと問答無用で押し付けられていた。気持ちも確認されずに。
「スピカは──知っていたのかな」
「さあ。彼女、鈍いですから。でも、知らなくても同じ事をされたと思いますわ。皇子をお守りする事が出来れば、手段は何でも良いのでしょうね……悪気が無いところがたちが悪いのです」
ぼやくシュルマに僕は笑う。
手段を選ばない────そう考えれば、スピカはこれ以上無いほどにシトゥラの人間なのかもしれない。方向性は随分違うけれど、やはりその血はしっかりと彼女の中に流れている。
笑いを納めると、一つ咳払いをして視線を部屋の中央に移す。
とにかく、これで一つ片付いた。あとは────
書簡と報告書を手に立ち上がり、声を掛ける。
「──イェッド。父に話がある。取り次ぎを頼む」