第11章 唯一残されたもの(3)
「戦友?」
「まあ、共通の敵を持ってたってところ」
「共通の敵って……ルティ?」
毛布から少し顔を出して尋ねる。メイサは静かに首を振ると呆れたようにため息をつく。
「──とにかくあなたは今は眠る事。聞きたい事は元気になったら話してあげるわ。万が一何かあれば──皇子様が泣くわよ?」
黙らせたいのなら余計なことを言わなければいいのに……。この人多分シュルマと同じでおしゃべりが好きなんだわ、きっと。そう思いながら反論する。
「何度も言うけれど……泣かないわ。シリウスは」
「頑固ねぇ。私、あのときあなた達の会話も聞いたんだけど、あの皇子様があなたの事そんなに簡単に諦めるなんて思えないんだけど──『僕は、君以外と、こんなこと、したくない』でしょ? 今でも覚えてるんだけど、あれ。強烈すぎて。若いっていいわねぇって思っちゃった。あ、言っておくけれど、私、そんなに歳じゃないわよ?」
元気づけようとしてくれたのか、メイサは軽い調子で言ったけれど、その言葉は鋭い刃となってあたしの心を斬りつけた。あたしは──彼のその気持ちに応えられなかったの。彼が守ってくれていた約束、──あたしはいつの間にか破っちゃったんだもの。
「簡単じゃないわ……あたし、彼を裏切ったんだもの」
「裏切る? あなたが?」
「……」
言うのは辛すぎた。──彼以外の男と寝て、身ごもって、その子を彼の子供と偽って育てさせて……あげくの果てに子と一緒に彼を捨てて逃げ出して──その男の元に居るなんて。普通に考えて許される訳がない。いくら優しいシリウスでも、こんなひどい女には用はないと思う。現に国境は閉じられて、あたしは戻って来るなと言われている。
「まぁいいわ。とにかく──水だけでもいいから飲みなさい。唇がカサカサ。脱水起こしかけてる。死なせるわけにはいかないのよ」
毛布がはぎ取られて、水の入ったカップが差し出されるけれど、あたしは目を瞑って首を振る。「だめ──」
「ルティに飲ませてもらう?」
「!」
あたしがぎょっとして目を開けると、いたずらっぽい目でメイサが覗き込んでいた。
それだけはもう嫌だった。胸を押さえて息を吸うと、カップを受けとり一気にあおった。
「────」
直後上がって来た吐き気にあたしは咳き込む。苦い胃液が口の中に広がる。メイサが慌てた様子で布と紙袋をあたしの口にあてがった。
「ごめんなさい。意地張ってる訳じゃなかったのね。────もう一度医師を呼びましょう」
メイサが医師を呼びにいっている間、あたしは吐き気と戦いながらも起き上がる。それにしても、なんでこんなに──と考えて、ふと思い当たる事がある。でも──そんなわけ、ないわよね? だって、あたし、まだ……。うん、そんなわけ、絶対ない。
ぼんやりする頭を叩くと、扉から顔を出す。廊下を流れる空気は部屋の淀んだ空気に比べ随分ましだった。きれいな空気を吸って、部屋で使ってる灯りの臭いが駄目なんだと気が付く。獣の油を固めて使っているから、結構臭うのだ。大きく息を吸うと幾分吐き気が治まった。
幸い部屋の前には誰もいなかった。逃げ出す事はさすがに警戒してるみたいだけれど、あたしの体調もあって出入り口だけしか固めていないみたい。廊下を見回っている侍従自体がこの間来た時よりもまばらな感じがした。
あたしは侍従の目をかいくぐり、そろりと部屋を抜け出すと、階段を下りる。そして向かう。──地下の部屋へ。
ここの屋敷で人を監禁するにはあの部屋が最適だった。あの閉じられた場所しか考えられなかった。
階段は一階で一度途切れていた。暗く長い廊下の左右を確認すると、玄関がある方向──北側に数人の侍従に混じる赤い髪の背の高い男。
「また吐いたって?」
ルティの声がして、あたしは一度階段脇の壁に身を隠す。よく聞くとメイサの声も聞き取れた。あたしの容態を一緒に居る医師に説明しているようだった。
「水も飲めないとなると……深刻です。なんとか飲んでいただかないと」
「あいつはワガママを言ってるだけなんだ。死にたがってるんだからな──そうはさせない。死のうとしたら、くくりつけてでも」
ひやりとした声が響いて来て、その言葉の通りあたしを縛りはじめた気がした。体を震わせる。あたしは思い切って廊下に飛び出すと南側の廊下へと走る。記憶をたどりながら足を進め、途中奥に伸びる狭い廊下を見つけて、角を曲がる。たしか──この突き当たりに……
──あった!
闇に包まれた、地下へと続く階段を見つけた時だった。
後ろから力強い腕に抱き上げられ驚いて顔を上げる。
「え──ルティ?」
いつの間に? 足音なんか聞こえなかったのに。
「油断も隙もないな。大人しくしてろ。本当に──死ぬぞ?」
あたしは彼の腕の中でもがきながら必死で訴える。ここまできてそれを知らずに戻りたくなかった。
「ねぇ……父さんは? おねがい、父さんの事教えて。──父さんに一目会わせて!」
「駄目だ」
「父さんだけがあたしの生きる望みなの。お願い!」
「──逃げたわ。だから会えないのよ」
しっとりとした声に振り向くと、いつの間にか追いついて来たメイサが答えていた。
「おい、メイサ!」
「だって、可哀想過ぎるでしょう、この子。あなた情けってものが少しもないの? ──好きなの? 本当に?」
「──馬鹿野郎! 俺には俺の考えがある。スピカのことは俺がよく知ってる。こいつはな、守るものがあれば生きようとするんだ。レグルスを守らなくていいと知れば──」
「だから、変な意地は捨てて教えてあげればいいのよ。──悔しいのはよぉく分かるけれどね。そうすれば絶対に死のうなんて考えないんだから」
二人のやり取りを聞きながらあたしは大きく深呼吸をした。逃げた──父さん──よかった──。あたしは、安心して目を閉じ、俯いて舌を歯の上に乗せる。
「──スピカ!?」
一気に噛み切ろうとしたのを、一瞬早くルティのその指が阻んだ。
「ぐぅっ!」
──死なせて。あたし、もうこれ以上シリウスを裏切りたくない──
怯んだルティの腕を引き抜き、再び舌を噛もうとしたけれど、口の中に広がるルティの血の味がそれをさせなかった。強烈な吐き気。そして鈍い痛みが全身を麻痺させていく。手足が痺れたかと思うと、それは一気に全身に広がり、あたしの意識を闇へと引きずり込もうとする。
それでもあたしは最後の力を振り絞って舌を噛もうとした。ルティが頬を押さえて遮ると怒ったような声で叫ぶ。
「スピカ! ──馬鹿! 死ぬな! お前は今────」
え? 何て言ったの、今──
あたしは急に遠くなった耳を澄ませる。隣でメイサが泣きそうな顔で必死で口を動かしているのが見える。狭まる視界の中、その口の動きだけがはっきりと見えた。
『あかちゃん?』
うそ。
あたしは動かない手でお腹をさすろうとする。温かい手がそれを手伝ってくれる。
それは──まぎれもなく──『シリウスの子』。
体温が上がって冷たく強ばった体が溶けていく。全身から力が抜ける。噛み締めようとしていた顎の力も自然、抜けた。
──だって、あたし、もう絶対に死ねないじゃない。
体に血が通いだしたとたん、お腹の痛みが酷くなった。以前ルキアがお腹に居る時に味わった腹痛より酷くて背筋が冷える。ここひと月、随分無茶をしてしまってる事を思い出したのだ。特に馬車や馬での移動が子に影響しないとは思えなかった。
怖くて思わずお腹を抱えこむと、メイサが慌てて医師を呼ぶ。ルティがあたしを横抱きにすると、壊れ物を運ぶように部屋まで抱えて行った。あたしはただ大人しくしているしかなかった。
補足:出産後一度も月経がないまま妊娠する例は結構あります。油断(?)大敵。