第11章 唯一残されたもの(2)
(居たか?)
(どこにも)
(何やってるんだ! 目を離すなと言っておいただろう!)
(入り口はしっかりと固めていました。しかし──)
(言い訳はいい、早く探せ!)
なに? 何を騒いでいるの? あぁ、うるさい。寝かしておいて。頭が割れそうに痛い。体がだるい。お腹が痛い。──気持ちが悪い──
次に目を開けたとき、あたしの視界には白い天井があった。──ああ、ここは……
忘れもしない、あの屋敷。杯の文様の壁紙が敷き詰められた天井。シトゥラだった。少しだけ身を起こして見回す。見覚えのない家具……母さんの部屋ではないみたい。
体を見下ろすと、寝間着に着替えさせられていた。おかげで少し気分がましだった。アウストラリスの服は体にぴったりとあった窮屈なものが多いから、余計に堪える。
あたしは軽い頭痛を感じてこめかみを押さえると再びベッドに倒れ込む。
どうも随分長い間意識を失っていたようだった。あの時点でシトゥラに着くまで、あと半日って言っていたし、もう窓の向こうの外は闇色に染まっている。
闇の中に落ちる前に現れたシリウスとルキアの姿が現実にしか思えなかった。ずっと恐れていたことが本当になってしまったと思った。彼らの姿、シリウスの冷たい声、そして血の臭い。全部現実味に溢れていた。あれが現実だったら──あたし、もう生きていけない。
「まったく。君は俺の前で吐いてばかりだ」
声に目を開けるといつの間にかルティが居て、疲れた顔であたしを見つめていた。なぜか声にいつもの力がない。
「あたし……」
「君は死ぬつもりなんだろう? そうはさせないからな? レグルスの命は俺が握っているんだ、忘れるなよ?」
「……」
忘れてなんかない。忘れてたらもうあたしはとっくに死んでると思う。
唇を寄せられ、思わず反対側に顔を背けた。再び吐き気が上がって来て、咽せる。
「ルティ、止めときなさい、今は」
部屋の扉が開く音がして、顔をそちらに向けると一人の女性が入ってくるところだった。顔は──暗くて見えない。
ルティが不愉快そうにため息をつきながら身を起こすと、言う。
「──君の世話を任せる事になった」
「よろしくね」
あたしは起き上がろうとしたけれど、目の前が一瞬真っ暗になって、ベッドに沈み込む。
「貧血もあるようだから、無理しないで寝てた方がいいわ」
労るような優しい声にあたしはそっと目を閉じる。
「じゃあ、くれぐれも逃がすなよ。あと──間違っても死なせるな」
物騒な言葉を残してルティの気配が扉の向こうに消え、あたしはこっそりと息をつく。
呆れたような溜息が頭の上で響いたかと思うと、冷たい布が額にのせられた。熱を持った頭が冷やされて気持ちがいい。
「はぁ……あなたまた捕まっちゃったのねぇ。駄目じゃない、ちゃんとあの皇子様のところに居ないと。迷惑よ、はっきり言って」
軽い調子でひどいことを言われ薄く目を開ける。──迷惑だって。分かってるわよ、そんなこと。あたしがいると本当にろくな事がないの。……あれ? 「また?」 この人、あたしの事知ってる?
ぼんやりとした視界には赤い髪と茶色の目が映った。派手な顔立ちをしたシトゥラの女性。見た事のない人だった。この人は……誰? そういえば皇子って……シリウスの事?
「きっと今頃泣いてるわよ、あの子」
あの子? クスクスと笑われて驚いた。本当に彼を知っているような口ぶり。思わず観察してしまう。大きな瞳と肉厚な唇が印象的な美人。それに、随分と魅惑的な体をしている。シリウスにシトゥラの、しかもこんな……きれいな女性に知り合いが居るなんて……聞いたことない。
「シリウスは……泣かないわよ……」
戻って来るなって言われてるんだもの。もうあたしの事なんか忘れてるに決まってる。それにしても……口を開く度に吐き気が上がる。胸を押さえて俯く。一体どうしちゃったんだろう、あたし。
「ふうん、そう言えばシリウスっていう名だったわね、あの皇子様は。そして、あなたは彼の妃で、真名も知ってる、それから──……。シトゥラの娘であるだけでなくって、いろいろ付加価値が多いのね。それじゃあ狙われて当然かしら」
真名という響きに身が縮まった。思わず起き上がって抵抗しようとしたけれど、直後、押さえつけられる。
「死んでも、言わない、わ、──うっ」
「あぁもう。聞かないわよ。私には必要ないもの。無理はしないで。あなたに何かあれば、ルティに怒られちゃう」
「死ぬの? あたし……」
気分は最低だったけれど、そこまでひどいとは思っていなくて、驚く。なにか、ひどい病気? こんなに突然?
「今、無理すればね。──お水飲める? 薬も」
あたしは首を振る。口の中は乾いていたけれど、何かを口に入れる事を考えると、それだけで口の中が苦くなった。
「あたし死んだ方がいいのよ、きっと」
生きている意味を少しも見いだせなかった。
「まぁ、止めはしないけど。でも今は止めといた方があなたのためかも」
「どうして」
「きっと後悔するわよ」
「後悔なんて、死んだあとにどうやってするの」
「ま、それもそうね」
女はカラカラと笑う。なんだか──それを見ていると、徐々に死ぬ気が失せて来た。
「父さんは? あなた何か知ってる?」
「ん──……ごめんね、教えられない」
「ルティに口止めされてるから?」
「それもあるけれど、……別の意味でもね」
「別の意味って?」
「さぁ、どういう意味でしょう?」
にやりと笑うその顔と口ぶりはルティによく似ていて、あたしは一気に気分が悪くなる。さっき一瞬、優しそうだと思ったのは気のせいかも。それはそうね。ここはシトゥラ。味方なんか居ないんだった。エラセドに居た時と同じ。籠がシトゥラに変わっただけで、あたしは結局またここで飼われるのだ。
少し浮上しかけた気分がまた落ちて行く。そんなあたしを見て彼女は少し困ったような顔をする。
「ああ、あまり深く考えないで。こっちも事態を把握できてないだけなのよ。あなたすぐ無茶するタイプみたいだから、みんな慎重になってるの。私もあなたの事よく知らないから……どう扱っていいか分からないのよね。ルティがあなたを大人しくさせるには『何も知らせないこと』だって言うから。納得いかなかったけれど……よくよく思い出すとそうかもって」
「思い出すって?」
「昔、ここから逃げ出したでしょう。冬だったのに無謀よね。あの皇子様がどれだけ心配したか」
この人は、あの事を知ってるというの? それにしても──
「皇子? 心配?」
「いやぁね、なにも聞いていないの? あのとき、私、隣の部屋にいたんだけど。それまで二人っきりで居たのに追い出されたも同然っていうか……あ、実際は出て行ったのはあの子だったけど」
「二人っきり?」
それって──どういうこと?
ぴくりと眉が吊り上がるのが自分で分かった。からかうような表情が気に障る。それに、いちいちシリウスの事「あの子」って……
「そうよ、あれ? 言っちゃまずかった? 何? 言わなかったって事は、あの子、何かヤマシイ事でもあったのかしら?」
胸のムカムカが何のせいなのか分からなくなって来たけれど、先に気になる事は全部聞いてしまうことにした。
「『あのとき』って?」
「あなたと皇子様が地下の部屋で仲良くしてたとき」
「え、────えぇっ!?」
何の事か一瞬分からなかったけれど、ここの地下で──って思い当たるのは、彼が記憶を取り戻した夜しか、無い。
「さすがに覗きはしなかったけれど、ぜーんぶ聞いちゃったわよ。若いのに、いや、若いからかしら? 結構彼、情熱的だったわよねぇ。あ、あの状況がよかったのかしら? 敵陣でっていう……」
茶色の瞳が面白そうに輝いて、あたしは直後くるりと彼女に背を向けると毛布を頭からかぶる。ぜ、全部聞かれてたって事? なんで? どうしてあの場所に居たの? シリウスはこの人が居るって知ってたのよね? じゃあ、なんで言ってくれないの! あぁ、もう、駄目────恥 ず か し 過 ぎ る !
「そうそう、そうやって寝てなさい。……そっか、この子はこうやって大人しくさせればいいのね。元気も出るみたいだし一石二鳥」
頭の上に降り掛かるその優しげな呟きにどうしても聞いておきたくなった。この人──あたしを元気づけてくれてる……? 残る気力を振り絞って尋ねる。
「……あなた……誰? シリウスとはどういう……」
あなたは──敵? 味方?
あたしの問いに、小さな笑いと囁きが返って来た。
「私は、メイサ。ルティの従姉で、あなたの再従姉。あなたの皇子様とは、そうね、────戦友よ」