第11章 唯一残されたもの(1)
王都エラセドからムフリッドまでは馬の足で五日の距離だった。でも実際は七日かかった。あたしがいなければ直進するはずの、途中に広がる砂漠を大きく迂回するため、どうしても最低それだけの日数がかかるのだ。砂漠の道は慣れないものが通るには険しすぎた。
ムフリッドからエラセドへ来たときは大半が馬での移動だったけれど、今度は、馬を変えながら馬車で移動した。夜中駆けるためだ。
どちらが楽かと言うと意外かもしれないけれど馬の方が随分楽だった。なぜって、馬を使えば夜は静かな場所で休むから。
長時間馬車に揺られ続けたためか、体中が痛かった。半ば気を失うように眠っては、岩に車輪がぶつかる衝撃を受け、その度に起こされた。もういろいろと限界だったけれど、ルティにだけは頼りたくなかったから、弱音を吐かずに我慢し続けていた。
「あと少しだ。あの山を越えれば、半日でムフリッドへ着く」
ルティが馬車の窓から外の景色を見つめる。その端正な横顔はガラスで出来た珍しいランプ──とは言ってもこの国では珍しくもないみたいだけれど──の光に照らされていた。外は真っ暗で、地面と空を区別するものは夜空に浮かぶ星だけだった。
「……そう」
あたしは呟くとつられるように外を見て、大きく息を吸う。吸込んだ空気は冷たく乾いていて、胸の中を僅かに洗った。
目の前には、食べられなかった夕食がバスケットに詰め込まれたまま置いてある。食欲も王都を出る辺りからめっきり落ちてしまっていた。どんなものを勧められても美味しそうに見えない。体が食べ物を受け付けない。あたしは、どうやら、生きていく気力を失っているようだった。
でも──行き先がシトゥラならば、あたしは一刻も早く辿り着きたかった。父さんの無事を確かめたかった。
父さん──それは今のあたしに唯一残されたもの。父さんを見つけて、なんとしても逃がして。そして、あたしは──
そう考えている途中だった。ちらちらとランプの光が目の端で煌めいたかと思うと、急に目眩がした。
「スピカ? どうかしたか?」
「……」
ルティがランプを手に取るとあたしの顔に光を照らし、覗き込む。
「真っ青だ──おい、馬車を止めろ」
馭者が馬車を止める声が聞こえ、しばらくして振動が止んだ。ルティがあたしの額に手をやって、熱を測る。
「熱……が少しあるか──?」
怪訝そうに顔を歪め、彼はあたしに水袋を差し出した。口を付けてみるけれど、駄目だった。今は水さえも受け付けられない気がして、袋を下ろすと首を振る。
「高熱という訳でもないし、馬車に酔ったのか。ここ数日は強行軍だったからな。……仕方ない。麓で一泊しよう」
あたしは慌てる。ゆっくりしているつもりはなかった。
「さ──先を急ぎましょうよ!」
「未来の妃をそんな風には扱えないね。それに体調は万全で居てもらわないと、いろいろ楽しめないだろう?」
にやりと微笑まれ、背筋が冷える。そう──彼の中では、あれは中止ではなく、中断。ルティは、シトゥラであの続きをするつもりなんだ──
「まだ拒む気?」
「当然よ」
「無駄だ。忘れてないか? ──君は俺の子を産んだんだ」
「──違うわ」
声が震える。顔を上げて睨みつける。泣かないようにするのが精一杯だった。
ルティは茶色の瞳であたしを見つめる。額にかかる髪がランプの光を受けて余計に赤く見える。
「違わないよ。子の髪の色は俺の髪の色と一緒だったろう?」
「──違うもの!」
そう言いながら自分で自分に問う。ルキアの髪は赤で、ルキアの瞳は茶色。そうこの目の前の男と同じ──。
──ねぇ、一体何が違うっていうの──?
ルティは笑みを深めるとあたしの頬を指でなぞる。
「俺は、あのとき、冷えきっていた君の体を俺の肌で温めて、そのあと──」
「言わないで!! それ以上言わないで!!!!」
耳を押さえる。喉から出て来たのはほとんど悲鳴だった。
「スピカ」
「おねがい……」
あたしの中の僅かな希望がくだける。あの部屋で<見る>まで絶対に信じないようにしていた、そのこと。絶対に認めるわけにはいかなかった、そのこと。<それが真実>だと、知ってしまったら、──それ以上、生きていけなくなりそうだったから。
だって、あたし、シリウスに何と言って詫びればいいの。今でさえもう謝る言葉を見つけられないというのに、これ以上どうやって謝ればいいの。ルキアがシリウスの子供だって信じて残して来たのに、それが違ったなら、あたしのやった事は──一体なに? 浮気相手の子供を彼に育てさせているの?
そして──アウストラリス王家の血を引くルキアの将来は一体どうなるの? ジョイア皇家の血を一滴も流さない、そのことが明らかになれば──あの子はジョイアには全く必要のない、それどころか邪魔な存在となる。アウストラリス側が交渉して引き取らなければ──ルキアの命はない。シリウスはその手でルキアの命を絶つことを迫られるかもしれない。そんな風に追いつめられるのが簡単に想像できた。
そしておそらく、この男は、ルキアに情などかけない。たとえ彼が言うように、ルキアが彼の子供であったとしても。ルキアが未だジョイアに居るのがその証に思えた。
瞼の裏にシリウスとその腕に抱かれたルキアが浮かび上がる。シリウスは表情をなくした顔でルキアを見つめている。その顔はシリウスの顔をしていたけれど、彼じゃないみたいだった。
そして。その視線の先のルキアは──首と胴が離れていた。見開いた目で見ると、シリウスの手が真っ赤に染まっている。手のひらから止めどなく流れ落ちるのは──血。彼の足下には血溜まりが出来ていた。
シリウスは光を失ったままの瞳をこちらに向け、氷のような声であたしに訴える。
『僕の子じゃなかったから、仕方なかったんだ。ルキアには罪はなかったけれど。……僕にはこの子を守る理由がもうどこにもないから』
「────ル、キア」
血の臭いが鼻を刺した気がした。これは、どこからどこまでが幻なのか──
ぐらり、視界が歪んだかと思うと、次の瞬間あたしは嘔吐していた。急激に体の力が抜ける。肩を支えられて自分が倒れた事に気が付いた。
「スピカ!?」
いくら吐いても吐き気が止まらない。息が出来ない。世界が回る感覚を耐えられず、あたしは目を瞑った。