第10章 過去の隠し場所(7)
朝食後イェッドを探したけれど、彼は僕に黙って出かけたまま姿が見えない。僕は話をはぐらかされたままで、ルキアが居るために外出も出来ず、悶々としていた。
そんな中、オルガが一人慌てた様子で訪ねて来た。
外は雨が降り続いている様で、長い服の裾が雨に色を変えている。少し湿ってしまったのか、白いものがたくさん混じった茶色の髪が、かさを減らして頭に張り付いている。彼女は部屋の入り口で手に持った荷物をシュルマに預けると深々と礼をした。
「お加減はいかがですか」
僕は床に転がっておもちゃを噛んでいるルキアを横目で見ながら言った。
「もう大丈夫そうだよ。それよりイェッドを知らない?」
「ええ、朝一番で実家に帰ってきてすぐに出かけていきました。それで慌てて出て来たのですが……。申し訳ありません、役に立たない息子で。いつもクビになるんではないかとハラハラしているのですが……末の子なもので少々甘やかしてしまって……親でも言う事を聞かせられないのです」
オルガが呆れたような、そしてどこか諦めたような顔をして謝った。僕はイェッドは母よりも強いのかとある意味感心した。確かにそれならば誰も彼を上手く使う事は出来ないのだろう。
オルガはルキアを見ると、冷たい表情を消し、微笑みながら近づいた。そしてきょとんと見上げるルキアを抱き上げ、ふわふわの赤い髪を撫でる。さすがにオルガは子供の扱いには慣れていて、ルキアも大人しく抱かれていた。
ルキアが違う腕に慣れた頃に、オルガは腕の中でルキアを仰向けにすると、そっとお腹を触って注意深く様子を探る。ルキアは別段痛がったり苦しんだりする事もなく、ニコニコとオルガを見つめていた。
オルガはしばしそうやってルキアの様子を見ていたけれど、やがて診察を終え、そして感慨深そうにため息をついた。
「それにしても……お祖母様によく似ていらっしゃる」
「え?」
お祖母さまって、母上? ……っていうか、なんで僕でなくて母上?
不思議に思ってオルガを見つめると、オルガは首を振って僕の言いたい事を否定した。
「いえ、リゲル様の事ではなく、スピカ様のお母様です。確か、お名前は──」
オルガを信じられない気持ちで見つめて、その先を遮る。
「ラナ」
「ああ、そうそう。ラナ──そんな名でしたか。スピカ様を取り上げたのは私ですよ。長くやっておりますから二世代出産に立ち会うというのも珍しくはないのですが、なんというか、お二人は本当によく似てらしたので……時が戻ったかのように感じましたね」
「……」
オルガはずっとツクルトゥルスで産婆をやっていたのだ。当然の事だったのに、なぜか昨日は思いつかなかった。何か問いたかったけれど、声が張り付いて出て来ない。胸が激しく鳴りだして汗が噴き出す。僕はソファに座り込むと置いてあった茶をひからびた喉に流し込んだ。──この話を聞き逃すな──頭の隅で何かが僕に訴えていた。
オルガは固まってしまった僕を慰めるように語り始める。
「お二人とも安産でしたが、さすがにスピカ様の方が大変でした。半日以上かかりましたね。──あの日はとてもいいお天気で。夕焼けがとても綺麗でした」
夜が明けているとは思えない薄暗い部屋。耳を澄ますと窓を小さく打つ雨音が聞こえた。オルガは窓に反射する燭台の光を見やって呟く。
「そうですね、このお部屋でしたか……窓が変わっていらっしゃるので分かりませんでした。陣痛が始まったと知らせを頂きまして駆けつけたのですが、開いた窓から差し込む夕日が、スピカ様の髪の毛を真っ赤に染めて──その時17年前を思い出しました」
そこでオルガは僕を見た。
「──続きをお聞きになりたいですか? 聞きたくないと言われるのであれば、もう私は帰ります。医院での診療時間も迫っていますし」
それを聞いて、この状況を作ったのはイェッドなのでは? という思いが頭の隅を擦った。彼は、僕にオルガの話を聞けと言ってるのではないか──?
「……聞かせてくれ」
聞きたいけれど聞きたくなかった。ずっと聞かずに来ていた、ルキアの誕生にまつわる話。普通の夫婦ならば、その時の事をゆっくりと思い出して幸せに浸るはずだった。でも僕とスピカの間でその話が出る事はなかった。──傷が、広がる気がして、話題に出来なかった。
「…… スピカ様はずっとあなたの名を呼ばれていました。普通は母親が付き添うものですが、いらっしゃらないものですから、ヴェガ様が手を差し出すと強く握られて、──それから縋るようにあなたのお名前を。お顔が似ていらっしゃるから安心されたのかもしれませんね。もしあなたがいらっしゃったら、産屋に入れてあげたいくらいでしたよ……まぁ、皇子のためには待っていただいた方がよろしかったでしょうけれど。妻の様子を見に産屋に入って卒倒して倒れられる男性を何人も見てきましたから」
ふぅとため息をつくとオルガは僕を見る。耳の奥で彼女が名を読んでいる気がして、胸がひどく痛んだ。息を静かに吐き出して痛みをこらえると、僕は次に当然出てくるだろう話を体を固めて待った。
「髪が赤かったことで皆驚きました。でもよくある話ですし、私は何と思わなかったのですよ」
「よくある──?」
「ええ。特に髪の色など大人になるにつれて変わるものですのに。大騒ぎする夫婦が多すぎて……。そういえば、スピカ様が産まれた時もラナさんがひどく驚いていましたね」
「え? なんで?」
スピカの髪と目の色はレグルスそのもののはずなのに。
「まず、自分に全く似ていないと。それから────にも」
え────?
あまりに唐突すぎて一瞬何の事か分からない。聞き間違えかと思った。なんでその言葉が今ここで出てくるのか全くわからなかった。
「……え、それって──本当の話? っていうか──」
信じられなくて声が裏返りそうになった。体の中を這い上がる何か熱いものがあった。そうだ、さっきオルガは気になることを言っていた。あれは──そういうこと?
目を丸くする僕を見てオルガははっとした様子になる。つい口を滑らせた──といった様子で慌てて口に手を当てる。そして彼女の顔には似合わない誤摩化すような笑みを浮かべ言い訳した。
「ああ、これは内緒の話でした。夫にも言っていないから黙っておいてと頼まれたのに。……でも彼女ももう亡くなっているのですし、時効でしょうか?」
「じゃあ────」
僕は予想を裏付けるためにどうしても聞いておかなければいけない事を尋ねる。渋るオルガから思った通りの答を貰うと、話を打ち切って彼女を帰す。シュルマに頼んでイェッドを探す。頼みたい事がたくさんあったのだ。
──もし本当にそうなら──。確かめるためには、アウストラリスに行くしかなかった。
そして彼の人に聞くのだ。当時、何があったのかを。