第10章 過去の隠し場所(2)
最後の書類を整え、机の引き出しに仕舞うと僕はほっと息をついた。他の荷物はシュルマ達に任せておいたものの、仕事に関するものだけはそうはいかなかった。
窓を開けても部屋は少々蒸し暑く、いつしか髪が汗で湿る。不快さに耐えられず髪を後ろで縛り、頭を振って首筋に空気を通す。机の上に置いてあった冷めた茶でのどを潤しながらソファに沈み込んだ。
テーブルの上に置いてある一輪の花に夕日が当たり、その色を赤く染めている。床にはステンドグラスから差し込む光の花々。黄色いはずのその花は、今は赤く染められていた。見ていると胸が焼かれるのを感じて、目を逸らす。
ひと月ぶりにやって来たこの部屋は、当たり前のように何も変わっていなかった。ただ温度と色が違うだけで。部屋を変えてもらった方が良いかもしれない。そんなことを考える。
扉が開き、イェッドが顔をのぞかせる。彼も荷物の整理を終えたようだった。
「──それでは、何から始めますか」
彼は僕の傍に寄って口を開くなり、すぐに本題に入る。僕に時間がないことは彼にもよく分かっているようだ。もう日は暮れかけているけれど、今日のうちに出来ることはして置きたい。
「そうだな……とりあえず、昔のアルフォンススのことを知っている人間を探さないと」
母方の祖父母は随分昔に他界したとだけ聞いていた。だから昔のことを一番良く知る人間は叔母だけなのだけれど、その叔母にとって義母の日記の内容は寝耳に水だったようだ。母に対してもレグルスに対してもひどい侮辱だと怒り狂っていた。そして今は父とともに宮で時間を稼いで、僕が母とレグルスの潔白を証明するのを待ってくれている。
「……陛下は、あなたに何も語られなかったのですね」
ぽつりとイェッドは言う。僕は父との対面を思い出す。
「ああ。憶測では語りたくないようだった」
「そうですか。まあ……どこかで予想はしていましたが」
「予想?」
イェッドからそんなことを言われると妙に混乱した。この男は良くも悪くも僕や父に全く興味がないと、いつも一歩離れた場所に立ち、決して寄り添うことはないと、そう思っていたから。たまに助けてくれるのもほとんど気まぐれだし。こうして僕に付き合ってくれることも……単に仕事だからだと。
不思議に思う僕の前でイェッドは少し悲しげに続けた。
「あの方は、堂々とされていらっしゃる様で、その裏では色々なことに引け目を感じていらっしゃるのです……リゲル様のこと、レグルスのこと。それから──」
イェッドはそこで言葉を飲み込み、僕の視線を僅かに外す。それとともに話の筋も逸らした。
「あなたがスピカ様に出会う前に妃を娶っていなくて良かったと、それだけは心から思います。万が一そうであれば──スピカ様はリゲル様と同じ目に遭われたでしょうから」
「……どういう意味だ?」
イェッドの言いたいことが見えなくて僕は戸惑う。なぜか今日、彼は妙に回りくどい言い方をしている気がした。
「シャヒーニ妃を見ていれば分かるでしょう。あの方のされたことは許されないことです。しかし──気持ちがわからないわけではない。愛する人間が手に入ったかと思うと他の人間に奪われる──今のあなたになら理解できるのでは?」
僕は答えられない。確かに奪われ方は違ったとしても……愛する人間が自分の元を去り、別の人間のものになったということに変わりなかった。まさに今自分が置かれている立場。痛いほどに気持ちはわかった。僕は────ルティが憎い。その腕の中の少女を思うと、殺したくなるほどに。
ふと……スピカを母、僕を父、ルティをレグルス、そしてルキアを──。置き換えると、別のものが見えて来た。イェッドが言いたいのはひょっとして──その可能性なのだろうか。
「似すぎています。あなたと陛下の愛され方は。彼女さえいれば良いと、周りが見えなくなってしまわれる。このままあなたがスピカ様を失えば──また国が傾くのではないかと、同じことが繰り返されるのではと……そんな不安さえ湧きます」
国が傾く? イェッドは一体何を知っている? 僕が問おうとした時だった。
「キャーーー、ルキア様!!!! だ、誰か!!!!」
シュルマの声だった。
僕ははっとして顔を上げ、イェッドとしっかりと目が合った。
「ルキア!? どうした!!??」
慌てて立ち上がると扉にぶつかるようにして廊下に出る。
──ルキアが、何を? よく眠っていたから、荷物を片付ける間だけと思って、隣の部屋でそのまま寝かせて来たのだ。物音で起こすのが可哀想だったし……でも、一体何が? ベッドから落ちないようにとわざわざ床に籠を置いて寝かせて来たというのに……。周りにも危険なものは何もなかったはず。
隣の部屋に飛び込むと、シュルマが真っ青な顔でルキアの背中をさすっている。腕の中できょとんとするルキアとシュルマの悲愴な顔の差異がひどくて混乱した。
「──どうしたんだ!?」
遅れて飛び込んで来たイェッドが、蒼白になる僕を押しのけると医師の顔でシュルマに問う。
「どうしたというのです、落ち着いて説明しなさい!」
「こ、これを……ルキア様が!」
シュルマの手を覗き込むと、そこには丸い、まるで団子のような──
「何、これ? 食べ物?」
イェッドが奪うようにそれを手にするとにおいを嗅ぎ確かめる。
「──害虫の駆除薬です! シュルマ! 水を!」
火が着いたように慌てて飛び出していくシュルマの背中を呆然と見つめながら、僕は尋ねた。
「駆除薬だって!? ──どうしてそんなもの!」
「部屋の端に置いてあったようです……カーテンの影になっていて……気が付かなくて」
サディラが真っ青な顔で床に崩れ落ちている。イザルがその腕の中でただならぬ雰囲気を恐れてむずがりだした。
「水です!」
イェッドがシュルマからコップに入った水を受け取ると、ルキアに強引に飲ませる。ルキアの口から大量に水が溢れる。ルキアは水が気管に入った様でむせて泣き出した。
イェッドは構わずにルキアの口に人差し指を突っ込む。ルキアが大きく嘔吐き、飲ませた水と小さな固まりがドロドロに溶けた食べ物とともに床の上に落ちる。
イェッドがその固まりと薬を見比べ、ようやく表情を少し和らげて、額の汗を拭う。
「…………おそらく………これで大丈夫だと思いますが…………」
僕はその言葉にようやく息をすることを思い出した。
力が抜けて床に座り込み、瞑目する。
もし……イェッドがいなかったら──僕は──
「──皇子、申し訳ありませんでした。申し訳──」
声に目を開けると、シュルマとサディラが床にひれ伏していた。耳にイザルの喚き声が飛び込んで来る。音さえ消えていたことにようやく気が付いた。どうやらしばらくずっと彼女達は謝り続けていたようだった。やめてくれ。謝られたら勘違いしてしまう。悪いのは誰かなんて──分かり切ってるじゃないか……!
「やめてくれ──それより、イェッド……医師を」
イェッドは頷く。彼も医師だけれど──確か乳児は専門外のはず。それに、ここには薬などは常備薬しか置いていない。彼は言われずとも心得ていて、すでに侍従を呼んでいたようだ。駆け込んで来た侍従に例の薬を握らせながら彼は言付ける。
「この家に行って──を呼んで来てくれ。あと、これも一緒に届けてくれ。至急だ」
そしてイェッドはひれ伏す二人の女性に向かって静かに命令する。
「顔を上げて。──皇子に何か気付けを」
「は、はい」
腰が抜けて立てなかった。腕だけでルキアを求めると、イェッドがそっと腕の中にルキアを滑りこませる。ルキアは泣き続けていたけれど、僕に抱かれてようやく泣き声を納めた。小さな手が僕の指を力強く握る。
「ごめん、ごめんよ……ルキア」
柔らかい赤い髪に顔を埋めて呻く。出てくる声に涙が混じるけれど、もう気にしていられなかった。