第9章 籠の鳥(5)
何かに急き立てられるように、あたし達は塔へと戻った。途中あたしは何度も後ろを振り返った。王が追って来ているような気がして仕方が無かったのだ。
あたしを塔に戻すと、ルティは内側から固く鍵をかける。そしてそのまま扉に凭れ掛かってその目を手で覆う。珍しく息が上がっていた。彼に似合わないその動揺した様子に、あたしの怯えはひどくなる。
「ねぇ……どういうことなの? さっきのあれ、一体何?」
「――親父は……昔よくああなっていて。何かの拍子に、心が過去を彷徨うんだ。原因を探るとラナに関することが多かった。だから父の前ではラナの名を禁じた。もう10年ほどになる」
「……母さんの名を?」
「君を見て――何か思い出したのかもしれない。今さらだと思っていたが……誤算だった」
ルティはひどく焦躁した様子だった。
「こうなったら――」
そういいながら近づくと、急にあたしを抱き上げる。
「ちょ、ちょっと!!!!」
「――早く子を作るしかない」
「な に い っ て る の よ っ !!!!」
――なんでそうなるの!! こいつの思考回路ってどうしてこう、そっちに傾いてるのよっ!!
窓際のベッドに放り投げられる。ルティは上着を脱ぎ捨て、あたしの上に覆い被さった。茶色の目が輝きを失ったままあたしをシーツの上に縫い止める。
うわ! だめ、こいつ目が死んでる!
本気で身の危険を感じて、必死で頭を働かせる。
「だめだって! ねえ、ちょっと! 頭使ってよ!」
一枚一枚身に付けていた衣がはぎ取られ、終いには窓から差し込む日の光のが直に肌を焼きだす。かと思うと、固く滑らかな肌が直接あたしの肌の上に重なり、その体の重みでベッドに押さえつけられる。もうあたしは混乱で頭がおかしくなりそうだった。
いつかこんなことになるとはどこかで覚悟してたものの、いざそうなるとまったく対応できない。どうしたら逃げられるか分からない!
大体、こんな、真っ昼間から!? シリウスは夜しか――いや、そういう問題じゃないのかも! どうしよう、どうしよう、――どうしよう!
「──無駄だって! 子供なんてそんなに簡単に出来ないんだから!」
「その口でそう言うか? びっくりするくらい簡単に出来ただろ。今度もやってみなきゃ分からない。親父には渡さない。――お前は、俺のものだ」
その言葉で頭の中にひらめくものがあった。
『お前は、俺のものだ! ――ラナ』
そうだ、あの時の、王のあの顔は──
「やだってば! ねえっ! 思い出して。あたしは――『ラナ』じゃないのよっ」
口から飛び出た言葉に、肌の上を滑っていたルティの手が止まる。
「何を言っている? 当たり前だろう?」
怪訝そうに顔を上げるルティにあたしは必死で言い聞かせる。とにかく、今はこの状況を変えたかった。こんなのは絶っ対に嫌。
「あたしは、ラナじゃないの。──母さんじゃないの。王は、多分未だに心の底でラナを求めてる。だから間違ってあたしを欲しがってるのよ!」
「それくらい分かる」
ルティは捕らえた獲物を前にひどく焦れているみたいだった。その茶色の瞳の中で赤い炎がぐるぐる渦巻いている。今にも牙をむきそうなその赤い獣にあたしは一生懸命訴える。
「思い出させてあげて。王に、母さんのこと――そうすれば、間違いだって分かるから! そしたらあたしなんて必要ないに決まってるんだから。――こんな可能性の低い方法より、確実な方法を選びなさいよ!」
ルティは少し心を動かされたようだった。
「確かに、もうラナのことを隠す大きな理由は無いな。既にラナは死んでいるし、親父が不安定にれば、それは俺にとって好都合だ。ただ──」
ルティはそこで何か言葉を飲み込んだ。苦しげな表情にあたしが少し首を傾げると、彼は首を振って話を続ける。
「――でも、どうやって思い出させる? そう簡単じゃないはずだ」
あたしは少し考える。確かに今まで思い出さなかったことを簡単に思い出せるとは思えない。昔、シリウスがあたしのことを忘れたときだって、あの後再会できたからこそ思い出せたのであって、もし彼が追いかけて来てくれなかったら……きっと彼はあたしのことを思い出すことは無かったのだと思う。
あのシトゥラでの夜を思い出すと胸が軋んだけれど、痛みをこらえながら記憶を探る。
……あの時のきっかけは一体なんだったんだろう。――父さんやヴェガ様が言わなかったとは思えないから、名前じゃないだろうし。
「きっかけがあればって、カーラは言っていたわ」
「きっかけ、か」
「あたし、王に話して来る。母さんのこと教えてくるわ。あたしは、娘なんだって」
「だめだ。次会う時は、君は親父のモノになるに決まっている。あのひとは、そういう人だ」
「…………」
手が早いところも父親似なのね……あたしは呆れつつ別の案を放り出す。
「じゃあ、あんたが説得してよ。あたしだって王の妃なんてごめんよ!」
「俺の妃がいいんだろ?」
「それも違うわ」
「ふん……まあいい。でも……とりあえず、やっといた方が安心だな。策は多い方がいいに決まってる」
それとこれは別の話だ――と、あたしの必死のごまかしはさらりとかわされ、再び彼はあたしの肌に顔を埋めようとする。
「い、いまそんなことしてる場合じゃないと思うけど! ほ、ほら! 王が追って来るかもしれないでしょう!」
その言葉にようやくルティは気分を変えたようだった。やはり彼もそんな風に感じていたらしい。空気が変わるのを感じてあたしは心底ほっとした。
「……まあね。確かにここは危険だな──とりあえず君を親父が手を出せない場所に移そう。それにしても……勿体ないな」
ルティの目が名残惜しそうにあたしの体の上をなぞり、あたしは慌てて体を隠す。――シ、シリウスにさえこんな明るいところで見られたこと無いのに!!!! ごめんなさい――思わず謝りかけて、その必要が全くないことを思い出す。
もう彼はあたしが何をしようと、たとえルティに抱かれていようと、王に抱かれていようと、他のどんな男に何をされようとも……何とも思わないに決まっていた。帰って来るなというのはそういうこと。
あたしは今、体は捕われていても、心はどこまでも自由だった。
心に生えた翼で羽ばたけば、どこへでも飛んでいけるはずだった。一番飛んでいきたい場所には行けないだけで。
そんな翼、要らないのに。
そんな自由なんか要らないのに。
他の女性を抱いていいなんて――
あたし――なんて残酷なことを言っていたんだろう。
あのときは精一杯の優しさだと思っていたけれど――なんて勘違い。あたし、最低だ。
シュルマにそう言われた理由、殴られた理由が身に染みて分かって、心の底から思った。
――あたしはやっぱり彼にはふさわしくなかったのだと。
「泣くな」
気が付くと少年の顔をしたルティが、おろおろとした様子であたしの頬の涙を拭っていた。
「やめただろ? ……もうしないから、泣くなよ」
さっきのしかかられていたときには全然出なかった涙が、シリウスのことを考えただけで出てくるのがおかしかった。あたしはこの先もずっと、彼のことでしか心を動かされないのかもしれない。そう考えると余計に泣けて来た。
ルティは泣き止めないあたしにお手上げと言った調子で服を放り投げると、背を向けて扉へ向かう。そして侍従を呼びつけた。
ため息をついて、背を向けたまま彼は宣言する。
「すぐにここを出る。服を着ろ。行き先は――シトゥラだ」