第8章 この勝負だけは(5)
スピカが、僕の姉かもしれない。
その夜僕は眠れなかった。
僕は夜中必死で否定の材料を探し続けた。
昔、ジョイアでは腹違いの兄妹での婚姻は認められていた。しかし、皇室内で血の濃さを重んじて血族での婚姻が繰り返し行われたことで奇形が増え、寿命が縮まり、それは禁忌となった。幼い頃歴史の本から学んだその史実は──もう100年以上前の事だ。
浅い眠りの中、夢を見た。
緩い朝の光の中、僕はゆりかごの中で遊ぶルキアをじっと見つめる。ルキアはその茶色の瞳で僕を見ているのになぜか僕の呼びかけに反応しない。おかしいと思って観察すると、その瞳には光が宿っていなかった。
驚いて抱き上げると、身体が妙に軽い。足の長さと手の長さが右と左で大きく違う。細く、ぐったりと伸び切ったそれはまるで壊れた人形のよう。どうして──寝る前までは、元気に床を這い回っていたのに……!
息苦しさから飛び起きて、ゆりかごにしがみつく。毛布を剥いでルキアを見る。
彼は寝かしつけた時と同じ顔で、柔らかい寝息を立てて眠っていた。僕は床に這いつくばる。いくら抑えても嗚咽が止まらなかった。
──怖い。怖いよ、スピカ、……レグルス、──母上!
* * *
「これはあの男の復讐なのかもしれない」
翌日、僕が父に対面したとき、父は憔悴した様子で椅子に腰掛けていた。人払いした部屋には僕と父の二人。こんな状況、もう何回も繰り返したはずなのに、未だに少し手が震えた。
僕が何を聞きに来たのか、父は予め知っているようだった。僕がレグルスの名を出すその前に、父は、彼の事を自ら語り出した。
「復讐……ですか?」
余りにレグルスにそぐわないその言葉に僕は一瞬呆然とした。昨夜見た夢のせいで、僕もかなり消耗しているようで、父の言葉にすぐに反応できない。
「あの男から私は……リゲルを取り上げた。私は彼女に夢中だった。取り上げた──そのことさえ長い間私は気がつかなかった。しかし……私はあるときリゲルの心は手に入れられなかったことに気がついた。彼女の心には最期まであの男の影が潜んでいた」
大きなため息が部屋に響きわたる。
「私は確かに、お前が私の子ではないのではと心のどこかで疑っていた。しかしそう認めることはリゲルを愛していない証拠のように感じた。あの男に何か負けているような気がしてな」
僕は何も言わなかった。言えなかった。
まさか自分の子でないと思っていたから? だからあんな事を? それはもしかして──自分を裏切った母とレグルスへの腹いせ?
父は僕の責めるような視線にも言い訳をしなかった。褐色の瞳は、詰ってくれと言っているような気がした。
真っ黒な疑惑に飲み込まれそうになっていたけれど、父のその真っ直ぐな目を見てはっとする。
『すまなかった』
父は、既に謝っている。僕が責めれば、何度でも謝るだろう。あの時の目を思い出す。そして母がまだいたときの穏やかな父の笑顔を思い出し、ルキアの笑顔を思い浮かべた。そうだ。僕なら──ルキアを腹いせに使おうなどとは思わない。
父は懺悔を続けた。ずっと誰かに、──おそらくは僕に、伝えたかったのだろう。
「今だから言う。おまえがあの娘を所望したときに、私の心には影が生まれた。私はリゲルの心を独り占めしていたあの男の大事なものを奪いたかったのだ。しかし今考えると、お前の伴侶としてあのスピカという娘を皇室に入れることは……逆に彼の皇室への復讐だったのかもしれない。愛した女を権力で奪われた、彼の復讐だ」
父は三たび『復讐』と繰り返す。その響きには恐れが混じっていた。
母を奪われたことの復讐? そのために自分の息子かもしれない僕に可愛がっていた娘を嫁がせた?
レグルスがそんな事、するわけが無い。父は何か勘違いをしているようにしか思えない。
「僕には、そうは思えません。そのためにスピカを犠牲にするなんて」
「……しかし今、お前の血を引かないかもしれない皇子だけを残して彼女はお前の元を去ったではないか。あの男と一緒にな」
頬を張られたような衝撃に息が止まる。
「なぜそれを……」
僕は父にルキアの血筋についてはっきりと言った事は無かったし、スピカの失踪についても告げていなかったのに。知っているのはあのときにアルフォンスス家にいた人間と叔母だけだった。
「見くびるな。私が誰だか忘れたわけではあるまい。お前がいくら隠そうと、私には私の情報網があるのだ」
イェッドのことがちらりと頭をよぎる。
「イェッドではないぞ」
僕の心を読んだかのように父は否定した。
「あれは人の言うことなどまるで聞かないからな。使うなど考えようとも思わない」
ああ、確かに。……イェッドの普段の様子を思い浮かべて、すぐに納得した。
「情報源はどうでもいいだろう。問題は、真相を知るものがもうあの男しかいないという事だ。今はとにかく、あの娘とあの男の行方を追うのだ。お前の身の証しをたてるためにはあの男が、ルキアの身の証しをたてるためにはあの娘が。どちらが欠けてもまずい。手は打っているのか」
「はい。すでに側近の二人に使いを頼んでいます」
ミアーとループス、すでに頼める人間はあの二人しかいなかった。
「──シトゥラか」
「はい」
ともかく情報が欲しかった。僕の無茶な願いを、レグルスの部下である二人は聞き入れ、危険を冒して国境を越えてくれた。
「返事は」
「未だ」
「あてはあるのか」
「一人だけ協力を頼めそうな人物に心当たりがあります」
僕があの国との間に持つ線は一つ。ルティの従姉──メイサ。唯一利害の一致するあの女性ならば、もしかしたら協力してくれるかもしれない。
「ともかく、あの男を早く見つけるのだ。……お前の聞きたい事は、私も聞きたいからな」
父はレグルスと母の間の事を自らの口で語る事をしないようだった。ここまで来て憶測でものを語りたくないのだろう。
僕はその気持ちが何となく分かったからただ静かに頷いた。──僕だって、真実しか聞きたくない。
父は厳しい表情のままだった。
「それまで時間を稼ぐ必要もあるな。シャヒーニの日記はほぼ確実に表に出る。メサルチムを始めアトリア家はミルザを立てて巻き返しを狙うだろうからな。そして、調べが入る場所は──おそらくアルフォンスス家だ」
「アルフォンスス?」
あの家にまだ何かあるというのだろうか。僕は今は僕のものとなった古い屋敷に想いを馳せた。
──母上が育った、あの家に?
「……リゲルはお前の母親だ。それだけは間違いない」
いつの間にか父はその顔に穏やかな、少し寂しげな笑みを浮かべていた。それは随分昔に見た、妙に懐かしい顔だった。
「シャヒーニが残したものがお前を滅ぼそうとするならば──リゲルがきっとお前を守ってくれるはずだ」