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第8章 この勝負だけは(4)

 義母上の葬儀から二日後のことだった。

 僕はいつものように仕事を終え、ルキアを寝かしつけようと、彼を抱いたまま寝台に横になる。

 夏の嵐が近付いているようで、窓を閉め切っていたから、部屋は少し蒸していた。湯に入れた後だというのに、ルキアの腕はもう汗で少しべたついている。赤い髪は少し湿って、額に張り付いていた。

「ばーぱーぱー」

 お腹の上に乗せたルキアは、楽しげに唇を震わせながら何か言っている。──パパ? 僕の事を言ってるのかな? レグルスがスピカに昔そう呼ばれていたと言っていたのを思い出し、頬がゆるんだ。

 ぺちぺちと顔を叩かれる。小さく引っかかれて、爪が伸びていることに気がついた。

 僕は一度起き上がり、机に向かう。椅子に腰かけ引き出しから小さなハサミを取り出すと、ルキアの小さな手を握り、薄い爪を慎重に切っていく。小さく半透明の爪が机の上に並んでいく。


「皇子、少しよろしいでしょうか」

 扉がたたかれ、イェッドの声がした。

「どうした?」

 僕がハサミを置き、声をかけると、イェッドは遠慮せずに扉を大きく開けて入室してくる。ルキアが少しおびえたように僕に身を寄せた。人見知りとは少し違う反応。ルキアは未だにイェッドには慣れてくれない。彼には全くと言っていいほど愛想がないからかもしれない。

「嫌な噂を聞きまして。お耳に入れて置いた方がよろしいかと」

「何?」

「シャヒーニ様の遺品が整理されているのですが、……昔の日記が発見されました」

「それは──」

 事件の後、部屋を捜索したけれどどうしても見つからなかったものだった。最近ものは見つかったけれど、大した事はかかれていなくて、過去のものはどうしても見つからなかった。

「どうも、彼女の実家が圧力をかけて、その存在を伏せて置いたようなのです。近衛隊が暇を出された侍女に金を握らせたら漏らしたそうで。あなたの母君の事件のことも触れられていて、12年前の殺人事件については一気に解決に向かっています。そちらについていは、後ほど正式な報告があがってくると思います。……しかし──リゲル様について、引いてはあなたの立場が揺らぐような事が書かれていたようで……」

「母上の? ……僕の立場?」

 嫌な予感が急に浮かぶ。それは、以前感じた禁忌の味をしていた。

 ──まさか

 イェッドはひどく畏まっていた。彼は何かそれを信じる根拠を持っているように感じられた。

『──いつの時代も……同じ事が繰り返される』

 ──僕がルキアの髪の色を報告したときに父が呟いたのは、その名ではなかったか。

「あなたが、帝の子供ではないのではないか。──レグルスの子供ではないか、日記にはそう書かれていました」

 僕は生唾を飲み込むのがやっとだった。口の中が一気に干上がる。

「もちろん、それが彼女の嫉妬から生まれたものだとは否定できません」

 イェッドは僕の目を見ないままに続ける。

「ただ、そういう噂が広がることは、いろんな意味でまずい」

「単なる憶測だ。父上は認めない」

「帝は……そうですね。リゲル様を疑うようなことは決してなさらないでしょう。しかし、公になれば確実に調査は入ります。そして、疑わしきものは、最初から認めない方が楽なのですよ」

 僕はルキアを抱いたままに手を組んで、その上に頭を乗せる。ルキアはきょとんと僕を見上げた。ひどい頭痛が始まるような気がしていた。

「そして、ジョイアにはミルザ様がいます」

 イェッドがそう言うのが膜の掛かったような耳にやっと届く。

 ──皇子の身分が危うい。そのことよりも重大なことがあった。

「──スピカ」

「……そうです。『姉弟』での婚姻は認められない。この辺りのどんな国でも」

 レグルス、違うんだろう? だって、君は──

 彼がルキアを抱くときの顔に浮かんでいたのは、心からの祝福の笑みだった。

 そう思いこもうとする僕の頭には、笑顔の裏の厳しい彼の言葉があった。彼はいつだって僕にあきらめさせようとしていなかったか?

「レグルスは、認めませんでしたよね、最後まであなた達のことを」

 心に冷たいものを押しつけられた。でも、それは──

「ちがうに決まっている。だって最初からそう分かっているのに言わないなんて事があるわけがない」

「確証がなかっただけかもしれません。それに彼がその想いを口に出すことはないのですよ。一生。言えば命がないのですから。黙っていれば分からないのであれば、自分の身可愛さに黙っているかもしれません」

「あり得ない。レグルスはそんな奴じゃない」

 彼がスピカが不幸になるようなことを見逃すわけがなかった。

「まあ……私もそう思います。彼の表面だけ見ていれば」

「表面?」

「私は彼がどこで生まれたのかも知りません。誰に聞いてもそれは分からない。髪の色から北方の出身か、と想像するくらいしかできないのです。親がいるかも知らない、兄弟も。──彼は絶対に過去を語らない。……そういう人間が腹の中で何を考えているか……いくらつきあいが長くても、想像などできませんよ」

 イェッドは珍しく悲しげに眉を寄せていた。

「とにかく、レグルスは、リゲル様が嫁がれてひどく荒れていました。そして、それはラナによって抑えられたかに思えました。……でも、リゲル様が亡くなった時、彼は妻子があるにも関わらず、『無茶』をした。──私が知っているのはそれだけです。だから、まったくあり得ない話ではない、そう判断しました」

「無茶?」

「それは、帝に直接お聞きになるとよいでしょう」

「……父上に……?」

 一瞬にして曇った僕の顔を見てイェッドは不思議そうにする。当然かもしれない。今僕と父は表面上は仲良くできているはずだから。──あのことは、ごく一部の人間しか知らないのだから。

 扉から出ていくイェッドの背中をじっと見つめた。沈黙が広がり部屋の空気が重みを増す。

 それまでおとなしくしていたルキアが僕の服をぎゅっとつかんで不安そうに顔を歪ませる。そのスピカによく似た唇の形を見てふと思った。


 ──万が一このままスピカが戻らなくて、この子がスピカそっくりに育ったら、僕は──父と同じ事をしないでいられるのか?


 心の中をじっとのぞき込む。ルキアがゆっくりと姿を変え、やがてスピカのように微笑んだ。そしてその笑顔が歪んだかと思うと、昔の僕の顔で彼は泣き叫ぶ。

 気をゆるませれば今にもどこか別の世界に転がり落ちそうになる。ルキアの柔らかい小さな手が闇の中白く光り、僕を辛うじてこちら側につなぎ止めていた。

 大きく息をついた。こわばっていた身体が緩み、椅子に沈み込む。

 目線を下ろすと、ルキアは安心したような顔で眠りについていた。


 いくら考えても、答えなど出せるわけがなかった。

 想像の中の僕は、僕であって僕ではない。ルキアが可愛い。大事にしたい。今なら父と同じ過ちを犯さない自信はあるけれど、一年後、二年後、──十年後、自分がどうなっているかなんて、予想もつかないのだ。

 だからと言ってもう目を逸らすことはできなかった。

 見たくないことを見ずに済ますこともできる。実際僕はずっとそうしてきた。だからこそのこの事態なんだと思う。いろんなことから逃げていたつけが回ってきたのだ。

 僕は、もうどんなに怖くても、逃げるわけにいかなかった。

 ──本当に欲しいものをこの手に掴むためには。

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