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第8章 この勝負だけは(3)

 僕は目の前の白い寝台をじっと見つめていた。

 そこにはやせ衰えた、しかし美しい月の女神が横たわっている。隣で生き写しの少女がただただ涙を流していた。


 いつかこんな日が来ると思っていた。


 シャヒーニ前后妃──僕の暗殺を手がけ、その地位を追われたはずの女は、国力を注ぎ込んだ治療の甲斐なく、ついにその口で罪を認めることをせずに別の世界へと旅立っていった。眠りにつくことで最期まで妃という立場を手放さなかったのは、妃でありたいと言うよりはただ単純に父の伴侶でありたいという執着だったのかもしれない。

 その想いの強さは僕のスピカへの執着によく似ていた。


 ミルザの隣に立っていた父はまた老いているように見えた。髪に白いものが増え、額の皺も深さを増していた。

 どこか力を失ったその顔を見ていると、父がそのまま後を追うような気がして、僕は引き留めずにはいられない。

 皆が僕を置いて旅立ってしまう。そんな焦燥が胸を焼いていた。


「ずっと寵を与えず放って置いた。──このひとはどれだけ寂しかっただろう」

 父はただそれだけを悔いた。彼はミルザを見つめか細いため息をつく。「私が唯一与えられたものはミルザだけだった」

 ふと浮かべた複雑そうな顔を見て、僕は初めて父の立場を思いやる。僕がスピカと出会う前にほかの妃を娶っていたら。

 うまく想像は出来なかった。ただ、漠然と思った。ミルザの存在は、なんだか不自然だと。

 母は望まれて宮に入り、その後僕を産んだ。その3年後、ミルザが生まれて。

 母はミルザが生まれたことを、一体どんな風に考えていたのだろう。もし母の立場にスピカがいたとしたら、たとえそれが皇太子としての務めだと言ったとしても彼女はどれだけ傷つくだろうか。

「おにいさま」

 その声にはっとすると目の前に目を腫らしたミルザがいた。

「ミルザ……」

 僕はこの小さな少女にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。

「わたくし、ひとりぼっちになってしまった」

「一人じゃない。何を言ってるんだ……僕も父上もいるだろう」

 僕はミルザの肩を抱こうとして、いつの間にか丸みを帯びたその肩の柔らかさにひるむ。

「でも、お父様の一番は未だにリゲル様。おにいさまの一番はいつでもスピカなんだもの」

 僕は否定できずに黙り込んだ。肩を抱こうとした手は結局持ち上げて彼女の頭をなでていた。

「そしておにいさまの昔の二番はわたくしだったけれど、今はルキアだわ」

「……」

「いいの。当たり前のことだもの。わたくしももう子供ではないですわ。お父様とお母様を見ていればわかるもの」

 ミルザは強がっているように見えた。その言葉は自分に言い聞かせているようにしか見えなかった。

「ただ、わたくし、覚悟していたけれど、いざとなったら寂しくて」

 力なく笑うミルザはひどく痛々しい。

「わたくしにも恋人がいればよかったわ。どれだけ救われたかわからない」

 おまえにはまだ早いよ、そう心の中で呟こうとしたけれど、目に焼き付く柔らかさが彼女の歳を思い出させた。14歳。もう恋の一つもする年齢になっていた。14歳────か。

「……だったらどれだけいいかしら」

「え?」

 地の底をのぞき込みそうになっていた僕は、慌てて現実を思い出す。

 ──なんて言った?

「なんでもないですわ」

 目を上げると、ミルザはいつの間にか小さく微笑んでいた。



 葬儀は密やかに行われた。父とミルザと僕に加えて、義母上の親戚を代表して、メサルチムが出席した。僕は初めて知ったのだけれど、義母とメサルチムは再従兄妹はとこなのだそうだ。義母の母がメサルチムの父の従兄妹。その家の名はアトリア家──この家は古くは臣下に下った皇族から派生していて、その血筋は限りなく皇室の直系と近い。血筋を重んじる貴族の中で、ミルザが後継者として後押しされる理由はそこにあった。

 去年起こった事件でその身を南の島に流されたミネラウバが、ミルザとまるで姉妹のようによく似ているのはその血筋のせいだった。

 あんなことになっていなければ、血筋という点で妃に一番近いのは、間違いなくミネラウバだった。



「疲れたでしょう」

 離宮に戻ると暖かい声が僕を迎える。僕は葬儀の間、ルキアを叔母に預けていた。

「いいえ。おばさま。それよりルキアはおとなしくしていた?」

「ええ。この子、びっくりするくらいいい子よね」

 僕はゆりかごを見やる。風が窓辺のカーテンを揺らし、ゆりかごもかすかに揺れた。

 のぞき込むと、スヤスヤと眠る幼子がいた。

「スピカの子だからね。我慢強さは折り紙付きだよ」

「あなたの子だからでしょ」

 叔母は呆れたように言う。「あなたの小さいときにそっくり。我慢強いっていうより、ちょっとぼんやりしてるのよね」

 僕は意外な気分で叔母を見つめる。

「おばさまは、そう思う?」

「ええ。どんどん似てくるから」

 叔母はそこまで言うとその漆黒の目を伏せた。

「信じてあげれば良かった──」

 叔母とスピカの間に出来た溝は、僕が思っていたより大きかった。叔母はスピカを傷つけるのを恐れてすぎていた。──スピカのせいじゃない、叔母はそう思っていたけれど、それはつまりスピカを信じていないことの裏返しだと彼女は気づいていた。そしてそれを隠しきれなかった。

「あのときは、その可能性ばかり頭に浮かんじゃったのよね……でも可能性ならあなたの方が大きいのに。疑心暗鬼になってしまって。私が信じてあげてたら、スピカもこんな風に無茶をしなかったでしょうね。誰にも相談できずに……どれだけ苦しんだのかしら」

「おばさま。もういいんだ。今更後悔してもしょうがない」

 自分を責める姿は叔母に全然似合わなかった。

「でも」

 叔母は明らかに弱気になっていた。僕は彼女にとって大事なものはスピカの他にあったことに薄々気がついていた。

「スピカも、レグルスも、僕がきっと取り戻すから」

 叔母は少し驚いたように目を見開く。

「あなた──」

 僕はそれ以上何も言わず、頷いた。



 叔母がずっと独身だった理由は、少し考えれば見当はついた。ただ、きっと彼女は認めないだろうし、一生その想いを告げることもないだろうと思えた。

 母の想い人。母と彼を引き裂いたのは自分だと、叔母はずっと思い続けている。だからいくら惹かれても、その想いは誤魔化すしかなかったのだろう。彼にしてもそうだ。母にそっくりの女性だけは、絶対に選ばない。それは叔母もよく知っていた。

 彼は全く別のところから新しく伴侶を見つけ、子までもうけた。

 辛すぎる恋だった。それでも彼女は傍にいるだけで満足していたのだろうと思う。どれだけ強い人だろう、僕はその強さを分けてほしいといつも思っていた。

 だからこそ、今の叔母は見ていられない。

 ──あの男は、なんて罪作りなんだろう

 それだけの魅力があることは僕もよくわかっていたから、なんだか羨ましかった。そして、いつまでも追いつけない自分がどこか悔しかった。


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