第8章 この勝負だけは(2)
裏庭の木々では蝉が忙しく鳴いていた。廊下の窓を開けると、鳴き声がとたん大きくなり、耳から入り込んで頭をワシワシと揺らす。
ほのかに緑の薫る乾いた熱い風が入り込み、背にたらした髪が舞い上がる。首筋にかいた汗がすっと乾き、気持ちがよかった。
「髪、切ろうかな」
ぼんやりと呟く。
別に伸ばしてるわけじゃ無かった。長くて重い髪は手入れも大変だし、暑くて気が滅入った。
ただ、スピカと同じ長さのこの髪を僕は気に入っていたんだと思う。同じ頃に短くなった髪。同じ時期から伸ばし始めて、もう腰まで伸びていた。
「私がお切りしましょうか」
掛けられた声が自分が呟いた言葉に対するものだと気がついたのは、シュルマがじっと僕の髪を見つめていたからだった。
僕はしばし悩んで結局首を横に振る。
「うん……でもいいや。暑いから後で結ってくれるかな」
そう言うとシュルマは少し寂しそうに微笑む。
僕にとってそれが限界だった。他の人間が髪を切る。そうすればスピカが髪を切ってくれたあの思い出が消えてしまう気がした。
でも、自分が随分と進歩しているのが分かって不思議だった。僕はいつの間にか女性とごく普通の距離で話ができるようになっていて、そして髪まで触らせようとしている。スピカと会う前には考えられなかったことだった。
今までスピカだけだった。彼女さえ居れば良かった。それがこんな風に、他との繋がりをどこかで求めている僕を、彼女はどう思うだろう。でも、僕は一人じゃ何もできない。僕には支えが必要だった。前向きになるためには何だって利用しようと思っていた。
スピカとレグルスの行方は未だ知れない。
彼らは国境の封鎖の直前に国内から姿を消したままだった。彼女たちを運んだと思われる行商人の行方を追ったけれど、彼らの売っていたと思われる商品の品目を調べて納得した。それは硝子細工だった。つまり、彼らはスピカとレグルスを連れて国に帰ったのだ。
スピカは実家に里帰りをしているとごまかし続けている。彼女の実家が知られていないことは僕に有利に働いた。
一方彼女が連れ去られた痕跡は、予想通りどこにも見つからなかった。彼女は自分の足で僕のもとを離れたのだから当然だった。──つまり誘拐ではないから事を荒立てられない。
でも、彼女が選んで僕から離れていったことは、絶対に言わないつもりだった。それを言えば、国内で彼女を守るものは何もなくなってしまう。僕の名を知りながら、僕を裏切った娘、それはジョイアでは罪人でしかないのだ。
僕がスピカを選択したことに、ヴェスタ卿は本気で驚いていたようだ。彼はおそらく僕がスピカの裏切りを許さないと思っていたのだろう。
それ以上に娘たちが僕についたことが意外だったようだ。自ら人質として宮に残った二人の娘に彼は手を焼いていた。僕がスピカのためなら本気で娘を殺しかねないと思ったのかもしれない、彼の口からスピカのことが出てくることはなかった。
当然、ヴェスタ卿が簡単にあきらめるわけはないとは思っていたから、僕はとりあえず手を打った。彼を一時でも迷わせることが出きればそれで良かった。
僕は言ってやった。──スピカがシトゥラの娘だと
ヴェスタ卿はシトゥラの名を聞いて顔色を変えた。彼がルキアの髪の理由を知らないことを不思議に思っていた僕は、それを見て確信した。──彼はスピカの母がシトゥラのものだと知らない
ルティは彼に肝心なことは話さなかった。スピカがアウストラリスの大貴族シトゥラの娘で、次期当主候補であるということを。ルキアの髪が赤い理由はそのせいなのかもしれないということを。
彼はルキアが僕の子供じゃないと信じていたのだ。それを弱みにしようとしていた彼の作戦には、小さいが確かに穴があいた。
──もともと対等に取引をするつもりもなかったんだろうな
彼は利用したつもりでルティに利用されていたことに腹を立てていた。余裕のなさがそれを顕著に表していた。ルティとオルバースのその溝は僕にとって重要なものだった。いつまでも結託されていては困るのだ。神様はほんの少し僕に味方をしてくれているのかもしれなかった。
それでも僕に残された時間がないことに代わりはない。
僕は僕の持てるもの全部を彼女のために費やしていた。そうすることで彼女と繋がっている気になっていた。
でも──
僕は想像する。毎夜夢に見る。
スピカがアウストラリスへ消えて半月。彼女は、もう、アイツのものになっているだろう。その想像は僕の精神を蝕んだ。あの夜初めて見せてくれたあの顔、初めて聞かせてくれたあの声は、今はアイツの腕の中にある。あの夜の記憶が幸せであればあるほど、僕は狂いそうになる。
ルキアが居なければ僕はとっくに狂っていたのかもしれない。狂って、すべてを投げ出して、彼女の元に駆けだしていたに決まってる。
──ひどいよ、スピカ
僕はスピカのこの仕打ちを恨んだ。彼女は僕に守らなければいけないものを残していった。それらのために僕はいくら辛くて狂いそうになっても、踏み止まらなければならない。強くならざるを得ないのだ。
──彼女を捕まえたらお仕置きだ
今度こそ僕がどれだけ怒っているのか、ちゃんと分かってもらわないと。
そんな思いだけが氷のように冷えかけた心の隅で燃えていた。
「皇子!」
イェッドが血相を変えて部屋に飛び込んできたのは、シュルマがちょうど僕の髪を結い終えたときだった。
ルキアはサディラにたくさんお乳をもらってゆりかごで昼寝中だったが、イェッドの声で目を覚ましたらしく、小さくぐずると寝返りをして頭を起こした。
「──どうした?」
彼の表情を見るに、ただ事じゃないと思った。
「──シャヒーニ様が……」
その言葉に、僕は来るべき時がきた、そう思っていた。