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第8章 この勝負だけは(1)

「皇子、……ルキア様が何か食べられてますけれど」

 イェッドの冷静な声に僕は張り付いていた机から顔を上げた。見ると、ルキアがどこから手に入れたのか紙の束をぐしゃぐしゃにして遊んでいる。小さな歯の形の穴が所々開いていて、紙の端は溶けかけている。あれ、あの紙って……たしか──

「うわわ! 駄目だよ、ルキア!」

「あぅー……きゃきゃっ」

 ビリリ、耳に痛い音が部屋に響く。

「誰だよ! 駄目だろう、ルキアの手の届くところに置いたら! あー……って、置いたのは僕か……」

 僕は慌ててルキアの手から書類を奪う。さっき休憩した時にテーブルに起きっぱなしにしておいたのがまずかった。

「…………」

 紙が手を離れたとたん、ルキアの目が丸くなり、直後、「きゃあぁああぁ!」悲鳴が上がった。

「あぁ。ごめんよ、ごめん」

 なぜかルキアはどんなおもちゃよりも紙がお気に入りだった。僕は机の上から要らない紙を持って来ると丸めてルキアに握らせた。ぴたっと泣き声が止んだかと思うと、ルキアはその目尻から涙を落としながらもう笑っている。

 床の上に敷いた濃い茶色の絨毯の上、仰向けになってニコニコする幼子。両足が床から浮いて、手と足両方で紙を握っている。

 ほっと息を落とすと、ルキアのよだれがついた上に破れて駄目になった書類を机の上に放り投げた。



 スピカが居なくなったあの日から、半月が経っていた。

 あれから僕は激しさを増す暴動に押されるようにシープシャンクスへ戻った。辿り着いてみると、城の中で僕は一気に苦境に立たされていた。

 まず国内の問題。

 会議ではアウストラリスとの国境を閉ざす事がもう決定していて、その通知がアウストラリスはもちろん、オルバース、ハリスの各国境へと送られていた。城に辿り着いた僕に、父がただその事実のみを伝え、僕の行動を縛った。──国境の封鎖、それは、スピカをすぐに助けに行けないということを表していた。

 そしてあの国は沈黙した。慌てて謝罪を申し出て来るものだと構えていたジョイアは、その態度に拍子抜けした。僕はある仮定を立てていたけれど、かの国の出方を見て、確信した。


 ──水不足という情報自体が、虚偽のものだったのだ


 その情報は、風土を考えると信憑性があった上に、難民が皆、そう信じ込んでいた。だから疑わなかったけれど、民が皆騙されていたとすれば……? 国全体の情報をまとめるのはその中枢部である王宮だ。そこから『水が足りない』と発せられたなら、全体を見渡せない民は、そうなのか、と思うしか無いのかもしれない。その上、物資が少しでも滞れば、そのせいなのかと疑心暗鬼になる。

 僕だって、城を出るまで、何も知らなかった。会議に参加して、持って来られた書類を見て、自分の目で見る事無く、机の上だけで重大な判断をして来たのだ。そこをつけ込まれた。

 あいつは、違う。ジョイアに10年潜入し、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で考え続けて来た。そんなヤツに閉じこもっていた僕が敵うわけが無いのだ。それでも──

 この勝負だけは負けるわけにはいかなかった。


「ねぇ、イェッド。この報告なんだけど」

 僕は床で転がって遊ぶルキアを横目で見ながら、机の上の報告書を取り上げる。

「ああ、塩ですか」

「値上がりは避けられないのか、やはり」

「そうですね。情勢の不安定さがいつまで続くか分かりませんから……どうしても民の先物買いが止められないでしょう。こちらから国境を閉じてしまいましたから……今さら和解は言い出しにくい」

「あいつめ──」

 僕はくやしくて歯噛みする。予想してたんだ、あの狸は。それで関税を下げさせ、その間に安く塩を手に入れ、この状況を利用して高く売る。財産の拡大は必至だろう。

「ああ、むかつく」

「塩は必需品です。国庫から補助を出す必要があります」

「……あいつの懐に入ると思うと嫌だけど、仕方が無いか……。手配するように会議で言っておく」

 そう言いつつ、今となっては嫌らしく感じられるヴェスタ卿の笑みを思い浮かべ、一気に憂鬱になった。

「──ふ、ふぇ」

 小さな声に見ると、ルキアがいつの間にかテーブルの足とソファの間に挟まっている。行き止まりに阻まれてじたばたとちいさな足が動く。

「あぁ」

 もう這ってどこまでも行ってしまうので、目が離せない。寝返りが上手になったなと思ってみていたら、今度ははいはいがあっという間に上達して行く。僕は泣きそうになっているルキアを抱き上げるとその背をそっと撫でる。

 呆れたようにイェッドが呟いた。

「それではお仕事にならないでしょう。意地を張らずにもう全部乳母サディラに任せてはどうです?」

「……」

 イェッドの言葉に僕は沈黙したまま、ルキアの背を撫で続けた。ルキアはお腹が空いたのかぐずり出してしまっていた。

「──サディラを呼んでくれ」

 僕はそれだけ言うと、ソファにルキアを抱いたまま座り込む。


 僕の悩みは尽きない。国の問題に加え、ルキアに関することでも奔走していた。

 ルキアの後見は断った。しかし──僕は結局シュルマとサディラは引き続き傍に置く事に決めた。

 当然最初彼女達には出仕を控えるように言い渡した。彼女達に非は無いようだったけれど、つながりを持ちたくなかったのだ。

 でも、そうなるとすぐに問題が発生した。まず第一に、ようやく八ヶ月になるルキアはまだ乳離れをしていない。乳母無しで育つとは思えなかった。

 すぐに乳母を捜したけれど、そんなに簡単に皇子を任せられるような娘が見つかるわけが無い。

 その上ルキアのこの髪のせいで、もともと世話をする侍女が足りなかった。それなのに、シュルマが消えるとなると、離宮自体が回らなくなる可能性があった。

 途方に暮れていたところ、腹を空かせて泣き続けるルキアを見かねたように、サディラが申し出た。

『乳母を務めさせて下さいませ。実家とは縁を切ります。信用ならないのであればイザルを人質にされても構いません』

 隣でシュルマがサディラと同じ目をして出仕の継続を申し出た。迷った。しかし、自分の息子イザルを人質に差し出すサディラの覚悟に胸を打たれてしまった。彼女の母親の目に負けてしまった。こういうところが僕の甘さなんだろうと思うけれど──

 それに、空腹でぐずるルキアが哀れでならなかった。その小さな身体は、一度の食事を抜くだけでみるみる弱って行くような気がした。今はルキアだけが、僕とスピカを繋いでいるのだ。ルキアに何かあれば、スピカを永遠に失うような気がした。


 僕はサディラを利用しながらも、出来る限りルキアを自分で見るようにした。離宮に仕事を持ち込んで、一日中ずっと一緒に居る。さすがに本宮に行く時は預けるしか無かったけれど、侍女達に悲鳴を上げられながらも、おむつも替えるし、食事だって与える。夜は自分のベッドで寝かしつけるし、夜泣きにも眠い目を擦りながら付き合った。でも、これだけはどうしても僕には出来ないから──

「僕にも乳が出ればいいのにな……」

 ルキアをあやしながら思わず呟いたら、部屋の隅でぶはっと咳き込む声がいくつか聞こえた。見ると扉の前でサディラとシュルマとイェッドがそろって笑いを堪えている。──うわ、今の聞かれた?

 ルキアはサディラの顔を見て顔を輝かせている。ぴたりと泣き止むその現金さに思わず苦笑いした。もうお乳をくれる人だと認識しているらしい。赤ちゃんというのは本当に賢くて、生きる事に必死だと思う。

「じゃあ、頼むよ」

 僕は自分の言葉で少し赤くなった顔を隠すようにして俯くと、シュルマと、その腕の中のイザルと共に部屋の外へ出た。

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