第7章 雨の音(3)
「あたしが……シリウスを捨てた?」
「そうだろう?」
ルティはもう一度念を押すように言った。
「子供も一緒に捨てて来たってわけ。あいつもそう思ったから、連れ戻しにも来ずに、国交を閉じたんだろう。つまり『もう帰って来るな』ってこと」
アハハと軽く笑い、ルティはあたしの腰に手を回す。
「君は俺のところ以外、もう行くところはどこにも無いんだ」
「……うそよ」
だめ、信じちゃ駄目。だって──
「あんたは嘘つきよ」
「じゃあ、確認してみるか?」
彼はそう言うと、有無を言わせずあたしを抱き上げて部屋から運び出す。そして彼は廊下の窓を開けた。腰から上が突然光に照らされる。
──ここは
あたしは目の前に広がった景色を見て目を見張った。思わず窓の桟にしがみつく。
深い山の中。夏の色をした森の中に、細い道だけが白く延びて行く。その先に忘れもしない国境の関所が見えた。そこはあたしが以前シトゥラから逃げ出して遭難した、ハリスとムフリッドに挟まれた山の麓だった。
「ほら、あの警戒態勢を見れば分かるだろう」
指の先を見る。ジョイアの軍服を着た兵士もアウストラリスの軍服を着た兵士も、以前見たより随分数が多かった。そしてジョイア側で関所の前には板で柵が築かれ、山の中にもちらほらと兵の姿が見える。彼らが持つ槍や剣が時折煌めく。それは、まるで、こちらを威嚇しているよう。
──嘘じゃないんだ
ぽつり、窓から雨が降り込み、あたしの手の甲を濡らす。呆然と呟く。
「雨……」
降らないと聞いていたのに。あの報告は一体なんだったの。何かが心に引っかかるけれど、それの正体がつかめない。
「ああ。ジョイアの調査団にうちのものを混ぜていたからな。疑わないのも、なあ。……あの国は相変わらず情報を軽く見すぎている。君を軽く見てるのもそのせいだろ。本当に馬鹿な国だ。……まあ、だから国境を閉じられても、別にアウストラリスは、困らない。大きく出て困るのは──ジョイアだろうな」
「困るって、どうして? ──どうしてそんな嘘を」
聞きたい事がありすぎて、もどかしい。
「さあて、どうしてでしょう」
ニヤリと茶化されても怒りも湧いて来ない。分からない自分の馬鹿さが恨めしくて、泣きたかった。
「君は何も心配しなくていい。俺に全部任せていれば、幸せにしてあげるよ」
後ろから優しく抱きしめられる。振り払う気力がどんどん消えて行くのが分かる。こいつはいつだって飴と鞭の使い分けがひどく上手いのだ。ひたすらに鞭を振るい続け、あたしを絶望の縁に追いやり、落ちる寸前に甘い蜜を餌に拾い上げる……──だめよ、このままじゃ、またこいつの思うつぼじゃない!
「君は、今までが頑張りすぎてたんだ。あいつは君に甘えるばかりで、甘えさせてもくれなかったんだろう? だからこそこうして、君は何もかも捨てて国を出た」
──甘えさせてくれなかった? ちがう。あたしが甘えなかっただけ。いつまでも彼を大人だって認めなかったのはあたしだった。
彼はあたしの腕の中から必死で這い出ようとしていたのに、あたしは気が付かない振りをしていた。だって、彼を守る事が小さい頃からのあたしの役目。それを手放せば、あたしの居場所なんかあっという間になくなってしまいそうで、──怖かった。
彼はいつの間にかあんなに強く大きくなっていたというのに。あたしはいつまでも子供扱いしてた。あの夜、初めてそれに気が付いた。
愛想を尽かされるのも、当たり前。──あたしは最低の妻で、最低の母親だ。
閉じた国境があたしに向かって叫ぶ。『二度と帰って来るな』と。
涙をこらえて歯を食いしばる。あたしには泣く資格なんか無い。
ふ、と暖かな気配を感じて見上げると、口を塞がれた。目を見開き、目の前に赤い髪から覗くルティの耳を見て、口を塞いだのが唇だと気が付いた。
「────」
あっという間に舌を絡められる。後ろから抱きしめられていたから、重心が狂って上手く抵抗できない。爪を立てるけれど、腰に巻かれた腕はびくともしなかった。
そして空いている方の手が、身体をなぞる。──いや!
「ん、──んっ!」
あたしは、この男のこういうところが大嫌い! 同じ強引でもシリウスはもっと優しい。少なくとも嫌がってるって分かったらすぐに止めてくれるのに!
「──お前は、俺のものだ」
ようやく解放されたかと思うと、すぐに言葉で拘束される。
「──……っ」
あたしは息が上がってしまって、すぐに反撃できない。改めて、どれだけこいつが女に慣れてるのかが分かった。分かってしまった自分と分からせたルティ両方に嫌悪感が湧く。
「今度はきちんと王都に連れて行く。父も俺が伴侶を持つのをずっと待っている。王位を継ぐには妻が必要だからな。──逃げたら……レグルスを殺す。もちろん、君が自ら死のうとしても、だ」
「────!」
茶色の瞳が真剣な色であたしを睨んでいた。こいつはこういう事では嘘を言わない。本気だった。
「不本意だろうけどね、本人は。君の足かせになるなんて。まあ、そんな事を知ったら、自ら命を絶ちそうだから、内緒にしておいた方がいいと思うよ」
唇の前に人差し指をあて、くつくつと笑うと、ルティは続ける。
「悪い話じゃないはずだ。俺は君を愛す。一生君一人をね。──その言葉は、君が心の底から望んでるものだろう?」
*
あたしは大人しくせざるを得なかった。
父は荷物のように丸められ、馬車の床に転がされている。あたしは父のことを念入りに頼み込み、馬車が出発するのを見届ける。
──父はムフリッドのシトゥラへ。あたしはエラセドの王宮へ。父だけが頼りだったというのに、あっけなく道は別れてしまった。
あたしは目の前の男を静かに見つめる。
ルティは馬の上から甘い瞳であたしを見下ろしていた。満足そうな顔。こんな方法で、あたしを捕まえた気になってるみたいだった。
この男は、やはり愛を知らない。あたしの事が欲しいというのも……幼子がおもちゃを欲しがるのと何の変わりもない。単なる執着だ。あたしに関わる全てのものを包もうとする、シリウスとは全く違う。
それが怖くてたまらなかった。
──だって子供は手段を選ばない。おもちゃが欲しければ、きっと壊してでも手に入れようとするのだから。
「さあ、出発だ」
声とともに馬上に引っ張り上げられる。腰に手を回され、あっという間に唇を奪われる。抵抗する気力なんか、どこにも無かった。
心に重い枷を付けられ、父という人質も取られた。ルティの肩越しにエラセドへ続く道が細く長く横たわる。あたしは──さらなる裏切りの道へ、足を踏み入れようとしているようだった。