第7章 雨の音(2)
あたしは口を開けたまま、固まっていた。
「──どうして」
からかうような口調が降り注ぐ。
「君、そんなにお馬鹿さんだったかな。もうちょっと賢いと思っていたのに。ま、余裕が無い事は知ってたし、追い込んだのも作戦のうちだったけれど。でも──」
男は大きくため息をつく。
「知ってて来たのかと思っていたんだけどね。俺は君には分かるようにヒントを出していたから。だから俺を選んだんだって喜んでたのにな。だって少し考えれば分かるだろう? ジョイアの塩はどこからどこを通ってやって来ているのか」
その言葉が理解できない。言われている事はとても簡単なことみたいなのに。
「ルティ」
「なんだ?」
「──どこまでがあんたの仕業?」
あたしは冷静を装うのがやっとだった。
「全部」
「ぜんぶ?」
「水不足でアウストラリスから難民が流れ込んだのも、塩が値上がりしたのも」
あたしの聞きたい事とは違う答えが返って来て、あたしは戸惑う。それが今あたしがこうしてここに居る事とどう繋がっているっていうの?
雨の音が部屋に充満する。──雨? そう言えば、アウストラリスが乾いていると言ったのは一体、誰?
訳も分からぬまま、ルティの冷たい笑みに身体がどんどん冷えて行く。彼はひと際魅力的に笑うと、とどめを刺すかのように言う。
「それから──君が赤毛の子を産んだのも」
「────うそよ」
動揺した心に言葉が突き刺さり、視界が揺れる。目が回る。
「ルキアはシリウスの子供よ!」
「それはどっちでもいいよ。俺にとってはね。ああ、置いて来たのは──唯一賢い選択だったかもしれないね」
「どういう意味」
「連れて来たら連れて来たで、俺の子供として発表するけれど──俺は子供が嫌いだしね。可愛がられた覚えが無いから、きっと可愛がれない」
そう言うと、彼はあたしの拘束を解き抱き上げる。隣の部屋に連れ込むとベッドにあたしを投げるように置く。のしかかりながら耳元で甘く囁く。
「──子供を作る行為は好きだが」
首筋に唇が落ちる。服の中にあっという間にその大きな手が忍び込んだ。
「────やめて!」
燭台の火が天井の模様を揺らす。二つの影が妖しく揺れる。
彼の手は止まらず、あたしは胸元を開けられ、目を瞑った。
「…………」
片胸を掴んだまま突然止まった手にあたしは目を開ける。
視線を下ろして、ルティが見ているものに気が付く。
「──何、これ? 別れる直前までよろしくやってたわけ?」
「…………」
あたしは唇を噛むと胸を隠す。そこには昨晩の名残が派手に残っていた。
「──つく」
「え?」
今、なんて言った?
「むかつくって言ってる」
その瞳の熱にあたしは思わず後ずさる。ベッドの端まで下がって、壁にぶつかった。
前攫われて来た時と──違う。同じ状況でも前はこいつ、全然平気そうだったのに。なにか嫌な予感がして、問う。
「あんた、あたしの事、単なる道具としか見てないのでしょう?」
そうよね? そうだったわよね?
「──本気になった」
彼は苛ついたようにあたしの右手を取ると、傷跡に口づける。その熱い舌がてのひらを這い、鳥肌が立つ。
「だから、この使えない『手』でも執着しているんだろう?」
「──やだ!」
あたしは手を振り払って上着で手のひらを拭う。でも、彼はめげる事無くもう一度あたしの手を取った。
「君は言った。『力を使って、腹の探り合いをしなくても、俺自身の魅力を使えば、なんでも出来るんじゃないか』って」
「……」
確かに、あたしはあのとき彼に伝えたかった。そのやり方を変えて欲しかった。
「俺は、その言葉通りやり遂げた。あの言葉が無ければ、俺は王位を手に入れられなかっただろう。そう気が付いたら何が何でも君が欲しくなってた」
うそ。こいつ──まさか、ほんとうに真剣なの?
「もともと、あいつになんか勿体ないと思ってたよ。あのどうしようもない甘ったれの坊やなんかには、君は勿体ない。君がどうしてあんなのが好きなのか、俺には分からない」
ルティは以前とは別人なんじゃないかと思えるような態度であたしに接する。いや、別人じゃない。以前の彼には無かったものが、そこにあるだけで。
「俺のものになれ、スピカ」
「──いやよ」
即答する。あたしにはもう、誰かと幸せになる権利なんか無い。特にこの男と一緒になることは死んでも嫌だった。
「シリウスは、もう、他の妃を迎えるのだろう? 君が仕組んだ策によって」
「──あたしが、仕組んだ……」
なんでルティがそんな風に言うの──? 仕組んだって言われれば、確かにそう。あたし、シュルマのお母さんの髪の色を見て……そしてシュルマがシリウスを好きだって聞いて、それならシュルマがルキアのお母さんになれば全部うまく行くって……そうよ、ヴェスタ卿もそう勧めてくれて。
あれ? でも……そういえばどうしてシュルマのお母さんはあたしが白紙の手紙を読めるって知っていたの────
「まさか」
あたしは目を見開いた。
「ようやく分かったのか」
少々呆れ気味にルティは息をつく。
「ヒントを出したって言っただろう。君が気づいて、俺のところに来るように仕向けたのに」
すごく、すごく嫌な予感。あたし、あのシュルマのご両親だからって全く疑わなかった。彼らの好意を前提にしてたのに、もし違ったら──
「オルバースが君に近づいたのは、偶然じゃないよ。あの狸には俺も何度騙されかけたか。餌の出し方が巧妙なんだ。あの頭は取り込めなかったのが惜しいくらいだ」
あっさりとルティがあたしの僅かな希望を打ち砕いた。さっき言われたルティの言葉はなんだったか。──塩? 塩はアウストラリスから……オルバースを通ってやって来る──
うそ。あたし──騙されたの?
あたしはどうしてもそれを事実として飲み込めず、あがく。
「え、でも……シュルマは……シリウスの事が好きって、だからルキアのお母さんになって、妃になりたいって……。あたし、シリウスのこと好きな子が沢山居てもおかしくないって……」
呆然と言うあたしを、ルティが心底呆れた顔で諭す。
「一体君ってどんな感覚してるんだ……。まずそこを疑えばいいのに。っていうか、普通疑うだろ。妃になりたい女はそりゃ沢山居るだろうけど、君がいなければめそめそ泣くような男だ。あの皇子の子守りなんて、大抵の女は嫌がるに決まってる。身分と外見取っ払ったら誰も寄って来ないって。考えただけで面倒くさい。それ以外のものに惚れてる君は、はっきり言って特殊」
「な────」
なんでシリウスってこんなに男の人からの評価が低いんだろう……。確か、父とイェッドの評価もそんな感じで……
辛辣な評価にすぐには反論が思い浮かばず、口が固まってしまった。というか反論をしている場合じゃないような気がする。嫌な予感がどんどんと沸き上がり、あたしの心を真っ黒に染めて行く。ルティは甘い瞳をしてさらに言う。
「ジョイアにいる時から、あいつの母親みたいだって思ってたけど、相変わらずだな。……俺の元なら、妻の顔をしていればそれだけでいいんだ」
再び伸びる手を振り払うとベッドを降りた。
「やめて。あたし、──戻らなきゃ」
あたしが騙されたのだったら──シリウスは? そしてルキアは? 誰があの二人を守ってくれるの?
「ハ。どこに? 自分で居場所を潰しておいて。もう君の居場所はあの国には無い。ジョイアは、君がこちらに来ると同時に国境を閉じたよ」
「国境を閉じた?」
考えたくもない現実が胸に迫る。あたしは縋るようにルティを見上げた。あたしは──
そんなあたしをルティは冷たい言葉で切り捨てる。
「言っておくが、『俺』は直接手を下してないからな。これは誘拐でも何でも無い。『君』が勝手にジョイアを飛び出した。君はシリウスを捨てたんだ──そうだろう?」