第7章 雨の音(1)
微かに雨の音がした。それから雨の匂いも。
夏の雨の匂いって、独特。……焼けた大地の匂いが混じって、なんだか苦い匂いがするの。
祭りは無事に終わったものね──花火も綺麗にあがったし。無事に雨が降って良かった──。これで今年も豊作で、ジョイアはますます豊かになる。シリウスの国。ジョイアが──
シリウスの顔とともに、ふと今朝の事を思い出して泣きたくなる。
あたし、結局記憶を消せなかった。彼はあたしの心も身体も離してくれなかった。
シリウスが眠った後、起こさないように腕の中から這い出たのはいいけれど、髪をしっかりと掴まれている事に気が付いた。それは彼の指にしっかりと絡み付いてしまっていて、どうしても全部を引き抜く事が出来なかった。手がかりを残すわけにはいかなかったのに。ああなってしまったら、彼に会えなかった時のために書いておいた手紙を使うしか、なかった。誘拐と誤解されたら、騒ぎになるに決まってたから。
あたしは、一束の髪と手紙を残して、彼の元を去った。あたしが望んだ通り、彼は幸せそうな顔で眠っていた。起きてその顔がどれだけ変わるのかを考えると、身を切られるようだった。
ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。あなたを傷付けたくなかったのに。こんな事なら、黙って出て来た方がどれだけ良かっただろう。
あたしは大きく息を吸込んで、涙を飲み込む。薄く目を開けると霞んだ天井が見える。模様に見覚えは、無い。宿かもしれない。馬車の中でない事だけは、確か。だって、背中に当たるものは木の板ではないもの。
あたしと父さんは祭りの行商人に付いて、とりあえず南へ向かっていた。南西のオルバースから船に乗って国外に出ようと思っていた。ハリスを抜け、その後山沿いに南に下るルート。見つからないように遠回りして都を避けて行くつもりだった。
父は何も聞かずにあたしについて来てくれた。労るような目で優しく見つめるだけだった。長い旅になるから休んでおけって言われて、安心してすぐに眠ってしまった。久々に力使いすぎちゃって、しかも徹夜だったから……馬車に乗るときは既にちょっと意識が怪しかった。どのくらい眠ってたんだろう。どこまで進んだのかしら? もう都は抜けた? ねえ、父さん?
あたしは父を捜して重い身体を叱咤する。身じろぎしてまどろみを振り払う。
──ん?
手首と足首が布で固定されてる。起き上がれない!
うそ──これ……って、どういうこと?
「と、うさん」
自分の声でようやく本当に目が覚める。
「ああ、起きたかい」
声のした方向を見上げると、見た事の無い男が数人。そして彼らの視線を追う。視線の先、彼らの足下には──
「父さん!!!!」
父が傷だらけで転がされていた。ぴくりとも動かないその姿にどんどん血の気が引いて行く。
男たちの中から一人、ひときわ大きな男が前に進み出た。茶色の目。茶色の髪。濁って大きな声。
「殺すなと命令されてたからこっちも必死だった。なかなか難しかったよ、強いねえ、このひと。お前さんがいなければ、逃げ仰せたんだろうけれどな」
「う、そ……──父さん」
「生きてるって。お前さんに手を出すって言ったら、すぐに大人しくなった。だから動けない程度に痛めつけただけだ。あとで手当てしてやるよ」
青ざめるあたしの前で男は父をゴミのように足蹴にする。父が小さく呻き、父が生きている事にほっとすると不安は急激に怒りに変わった。男を睨み上げる。
「……どういうつもり。──あの行商人の人たちは?」
あたしは思い出す。早朝ヴェスタ卿の伝で迎えに来てくれた、あの人の良さそうな、おじさんやおばさんたち。あたしが疲れてるのを見て、荷物の隙間に寝る場所を作ってくれて……労るように声をかけてくれた。彼らは──
「逃げたよ」
男がニヤニヤしながら答える。
その目が残忍そうな光を宿すのを見て、あたしはそれが嘘だと分かる。父の命を取らなかったのは──命令されていた、と。
命令って、一体誰に? あたしは、一体──
ふと、彼らの着ているものに見覚えがある事に気が付く。これは、明らかに軍服。この、襟の詰まった濃紺の服──どこかで……
突如一年前の記憶が蘇った。
──まさか
扉が開く音がした。頭上からその声が響いたのは、あたしが口を開いたのと同時だった。「ここは」
「──アウストラリスへ、ようこそ。スピカちゃん」