第5章 火祭り(3)
シュルマの後から部屋に入って来た女性は、柔らかく、暖かい雰囲気をもつ美しい人だった。スピカと同じ母親独特の空気を感じた。
腕にはルキアより少しだけ小さな子供が抱かれて、すやすやと眠っていた。同じ年に産まれても一月違うとこれだけ違うということに驚きつつ、思う。この子がルキアの乳兄弟になるのか。
僕は微笑んで椅子に腰掛けるよう促す。彼女はそれを断り、一礼して挨拶をした。
「お初にお目にかかります、皇子殿下。サディラでございます」
「よろしく」
ちらりとスピカを見ると、彼女もにっこりとサディラに微笑みかけた。
「よろしくお願いします」
「私などが、こんな大役をお務めしてよろしいのかと不安ですが……精一杯務めさせていただきます」
サディラは深々と頭を下げる。どうも、調子が狂うな。シュルマの姉と聞いていて、もっと快活な女性を想像していたのだ。褐色の髪に、褐色の瞳。それはシュルマとは同じなのに。体は多少ふくよかだったが、肌は青白いくらいで、少々不健康な感じがした。顔色が悪いのは緊張してるからかな。
でも腕に抱いている子供は丸々としている。母親に似たのだろう、髪も目も同じ色をしていて、ルキアより淡い色合いだった。
「子供、すごく元気が良さそうだね。名は?」
僕が尋ねると、ようやくサディラは微笑む。
「イザルと申します」
「男の子なんだね」
「はい」
スピカは笑みを浮かべたまま黙っていた。その瞳はまっすぐにサディラに向けられているものの、何も映していないように見えた。
「スピカ?」
「……あ、あぁ……ごめんなさい。ぼうっとしちゃって。……ルキアが慣れてくれるといいのだけれど」
彼女は焦ったようにルキアを抱き直すと、サディラの隣に移動した。ルキアとイザルが彼女達の腕の中で交換される。ルキアがスピカから離れたとたん火が着いたように泣き出した。その小さな手がスピカの服を必死で掴んで、離れまいとしている。
ルキアは人見知りが激しいのだ。未だに、僕が抱いても泣く。特にこの頃は後追いが激しいのだけれど……他人で大丈夫かな。慣れたら平気なのかな。心配してじっと彼女達の様子を眺めていると、後ろから声がかかる。
「皇子」
振り向くと、シュルマが困った顔をしてこちらを見ている。
「あの……今からルキア様にお乳を……その」
「あ! そ、そうか、ごめん」
全く頭に無くて焦った。そうだよな。乳母なんだから、まず乳を飲むかどうか、確かめるのか。さすがに他の女性の胸を見るのは……まずい。スピカのを見るより気まずいに決まっている。
「終わったらお呼びしますから、隣のお部屋でお待ちください」
スピカが僕に向かって丁寧に言う。サディラの前だからよそ行きの態度なんだろうけど、ちょっと面食らう。ただでさえ仲間はずれにされたような気分だったので、余計に。あぁ、父親って、なんか損な生き物。
それでもシュルマに促されて、彼女とともに廊下に出た。
暗い隣室に入ると、ソファに沈みこんで目を閉じる。すぐにシュルマが窓を開ける音がした。瞼の裏に光を感じ、頬に風を感じた。そして茶器の重なり合う音や、湯が注がれる音が響く。茶菓子の甘い香りと茶の香りが混じり始め、部屋の空気が和むのが分かった。
カチャン、と目の前に茶が置かれ、僕はそれを合図に目を開けた。
「──ねぇ。スピカってこの頃変だよね」
思い切って話しかけた。そして、口に出す時に妙に勇気が言った事で、スピカ以外の女性と話す事は滅多に無いことに気がつく。公務以外で自分から話しかけるなんて、よく考えたらほとんど無い。昔はともかく、今は平気だと思っていたから、その胸の重さに驚いた。
「スピカ様が……そうでしょうか?」
シュルマは少し俯いていた。表情は前髪に隠れて見えない。
「君も変な気がする」
「わ、わたくしがですか?」
僕が見つめると、彼女は裏返った声を出す。そしてみるみるうちに顔が赤くなった。
「おしゃべりじゃなくなっただろう? 前はスピカとの楽しそうなおしゃべりがよく聞こえて来たのに……この頃全く聞かない」
僕はシュルマの様子を気にせずに言った。
「たまたま、ですわ。皇子がいらっしゃらないときには、いつも通りに楽しく過ごさせていただいておりますし……。スピカ様もこの頃とても元気でいらっしゃるではないですか」
僕は頷かない。彼女は僕の目を見ない。
「空元気だろう? それに気がつかないとでも思う? 一体彼女は何を企んでる?」
「企むなど……人聞きの悪い事をおっしゃらないで下さいませ。スピカ様は、皇子の事をとても大事に考えていらっしゃるのですから」
「ルキアよりも?」
「──比べられるものではないでしょう? 何をおっしゃるのです!」
シュルマはさすがに呆れた様子で、漸く僕を見た。僕は思わずにやりとした。これは元のシュルマ。彼女だって僕と二人で話す事には慣れていない。少しだけ堅い殻がとれた気がした。
「ごめん、今のは無し」
お茶を飲み干すと、彼女がおかわりを注いだ。
「僕は本当の事を知りたいだけ。スピカは、絶対に変だ。それだけははっきりしてる。僕が言うからには間違いが無いよ。彼女の事を一番見てるのは僕だ」
「……」
僕はそこで切り札を出した。シュルマがスピカから離れて一人で居る時に聞こうと、僕はずっと機会をうかがっていた。チャンスは今しかなかった。
「何か知っているだろう? 彼女が変わったのは、君の家に後見を頼んでから。僕はね、あの日、スピカには誰と会うって言ってなかったんだ。なのに彼女は僕が会った貴族の名──ヴェスタ卿──を知っていた。ルキアの後見が決まった事を、知っていて知らない振りをした。誰が教えたんだろうね? ──僕が知りうる中では君しかいないんだけどさ」