第4章 嗤う月(5)
「──……?」
イェッドがふと後ろを振り向き、僕はつられてそちらを見る。
「どうかした?」
「いえ……何か猫の鳴き声のような」
「猫?」
首を傾げ、耳を澄ます。でも何も聞こえなかった。当たり前か。まず宮に鳥以外の動物が入り込む事は難しい。
「……まあ、空耳でしょう。それより、相談があるのでしょう?」
僕はすぐに頷く。そして部屋に急いだ。
重い音を立てて部屋の扉が閉まるのを見て、僕は切り出した。
「前言ってただろう? ……出産後の女性が繊細だとか」
「ああ……やっぱり、とうとうスピカ様に拒まれたんですね?」
イェッドは納得するように頷く。顔には笑みさえ見えた。──その、妙に力強い『やっぱり』ってなんだ。
「おそらく、貴方の居場所にお子様が居座られてしまって、皇子は居場所がなくなったのでしょう?」
「…………」
あまりに的確に表現されて、落ち込むどころか感心してしまった。
「……なんでわかる?」
「以前からスピカ様はその傾向が強いと、ご自分でも懸念されていらしたではないですか」
まぁ、そうなんだけど。でも、実際ここまでとは思いもしなかった。あれだけの事を乗り越えて来て、彼女に全く男と思われていないなど、どうして考えられるだろう。
イェッドはほう、と息をつく。
「──良かったですね」
「はぁ?」
思わず変な声が出た。──な、なにが!?
「このままだと、あなたはいつまでもスピカ様の子供の位置に甘んじなければならなかったのでしょう? 脱出できて良かったではないですか。一歩前進です」
あまりに前向きな意見に僕は唖然とした。何か聞き違えたんじゃないかと、疑うように尋ねる。
「いい方向に進んでいると?」
「まぁ……それは今後のあなた次第でしょうけれど。スピカ様があなたを守る対象としてではなく、本来のあなたとして見られて、どう思われるか、でしょう。……私はさっきのは割と感心いたしましたが」
「え?」
扉の前で石像のようにじっとしていたイェッドが脳裏に浮かぶ。
さっきの聞いてたのか? まるで興味なさそうな顔をしてたくせに。
「お受けになるかと思いました。少し聞けばそんなに悪い話ではなかったので。あちらも色々策を練ってる様でしたが……よく頭が回られましたね」
僕は頷く。一瞬その手があったかと思った。でも──それでは駄目だ。彼らが言う平和などまやかしだ。彼らは、牙を隠していた。スピカが妃でなくなれば、ルキアが皇子でなくなれば。僕から離れて宮を出た瞬間に、彼女達の命は無くなるだろう。僕の全てを握る女性と、僕の血を引く子供を、彼らが黙って置いておくはずが無かった。
僕はルキアに名を与えた。あのとき、もう他の道はほとんど途絶えてしまっているのだ。惑わされてはいけない。もう逃げ道はないのだから。
「明日……オルバースの対面がまだ残っている」
自分に言い聞かせるように呟くと、イェッドが小さく息をつく。
「期待は出来ませんよ。彼らにとってルキア様の後見など何の利益も無いのですから、どんな条件を出されるか分かりません。パイオン卿のように分かりやすい条件を出して来るとまだいいのですけれどね。
それにしても……あなたがそこまでこだわるのは──どうしてです。シェリア様ではなくとも、まだ正式に妃を娶れば間に合うかもしれない。こんな事になった今、貴方が新しく妃を娶っても、誰もあなたを責めませんよ? スピカ様も、レグルスでさえ」
僕はじっとテーブルの上の冊子を見つめた。そして呟く。
「僕は……僕は許されたいんじゃない。これ以上誰も傷つけたくないだけなんだ。妃を娶っても皆僕を許すかもしれない。でも、スピカもルキアもレグルスも傷つく。……それだけじゃない。新しく娶った妃の事をきっと僕は愛せない。──僕は義母上のことを忘れてはいない」
父上に愛されず、妄執に取り付かれたあの女。未だ目覚めない彼女は、今どんな夢を見ているのだろう。
「シェリア達はあんな事言ってたけれど、──愛が欲しくないなんて、嘘だと思うよ。誰だって、愛されたいはずだ」
それを忘れたら、悲劇は、また起こる。
*
……結局相談にならなかったな。その割に、わりと励まされたような気もするけど。
僕はそんな事を思いながら、机の上の書類と向き合っていた。昼間渡してもらった、ハリスとオルバースの調査書。じっと眺めていると、何かが引っかかる。──一体なんだ?
記憶の引き出しを開けて、情報をとり出すけれど、なかなか欲しいものが出て来ず、焦れる。
どちらも相変わらず不法入国が絶えない。アウストラリス側はそれに対応するだけの余裕が無い。彼の国の、特に首都周辺の水不足は一年でかなり深刻化しているようだった。──水不足? 何かが引っかかる。水の他に何か不足しているものがなかったか……?
そう思って資料を取り出そうとした時だった。
引き出しから同時にメモがひらひらと舞い落ちた。
「うわ」
床のあちこちに舞い散る紙を慌てて拾い集める。
──結構溜っちゃったな……。あれ? 僕、今何かしようとしてたんだけど……。だめだ、どうも集中力がなくなってる。
ため息をつくと紙を束にして机の端に置いた。そして引き出しの奥に隠しておいた綺麗な表紙の冊子を取り出す。それは──こっそりつけていた日記だった。自分の事ではなく、ルキアの成長記録。もうかれこれ三冊目だ。
スピカが話してくれた変化や、自分で見つけた変化。気づくたびにメモをして、溜めておいた。離宮で誰かに見つかるのが恥ずかしくて、清書は本宮の自室でこっそりやっていた。
先週の分まできっちりつけてある。今日は機嫌が良かったとか悪かったとか、夜泣きをしたとかそう言う些細な事が大半だったけれど、熱が出て心配した事とか、はじめて寝返りをしたときのこととか、その時の誇らしげな顔とか、歯が生えたこととか、スピカがおっぱいを噛まれて痛がっていた事とか……本当にいろんな事がごちゃ混ぜで綴ってあった。
ルキアの世話はスピカがほとんどしていて、僕は何も出来なかった。父親の役割など、今のところ無に等しい。だからせめて僕はこうして記録をつける事で、ルキアの父親になろうとしていたのかもしれない。
今週の分……清書しないとな。そう思って、いつものように冊子を開いたけれど、筆が途中で止まる。耳にスピカの声が張り付いて、それ以上進められなかった。気がつくと文字の上に水滴が落ちていた。文字がじわじわと溶けて、黒いだけの染みになっていく。まるで僕の心のようだ、そう思った。