第1章 兆し(2)
「あ、シリウス」
スピカは窓辺のベッドの上で上半身だけ起こして、ぼんやりと窓から覗く外の闇を見ていたけれど、僕が部屋に入るなりすぐにこちらを振り向いた。燭台の光に照らされたその頬がほんのり上気している。輪郭がすこし柔らかく見えたのは多分気のせいじゃない。僕は彼女を見て実感した。ああ、スピカはお母さんになるんだって。
「聞いた、よ。えっと、なんて言えばいいのか」
おめでとう? それも変だし。
「うん。シリウス、ありがとう」
彼女はさらりと、僕が言うべき言葉を言ってしまう。
呆然とする僕の後ろで、医師が扉を閉める。気配が消えたとたん、僕は彼女に駆け寄って、抱きしめる。
「スピカ、……旅は中止だ」
「うん」
「えっと……ありがとう。大事にしよう、その、僕たちの」
「愛の結晶?」
冗談めかしたその言葉に全身が熱くなる。
スピカを抱きしめたまま、髪に顔を埋めたまま「うん」と小さく頷く。
嬉しいはずなのに……すごく恥ずかしい。なんだろう、このくすぐったさは。
「そっかぁ……シリウスがお父さんになるんだ」
彼女はさらにそんな事を口に出す。そして赤い顔の僕を見てクスクス笑う。
「なんだかくすぐったいね」
笑顔が眩しくて、見てられなくて、誤摩化すように彼女をベッドに押し付けると、その唇を塞ぐ。当たり前のようにスピカがそれに応えてくれる。
キスが深まり、気持ちが盛り上がるにつれ、ある事にふと気がつく。え……ってことは……もしかして。
愕然とした。
それに合わせるように扉が叩かれる。そのタイミングからして、様子をうかがっていたのかもしれない。ベッドから飛び起きたところに入室して来た医師が鋭い目で僕を見つめた。
「皇子、しばらくはダメですよ。安定期まではとりあえず禁止です。流産してしまったら大変ですから」
「…………」
もちろん何が、などとは聞かない。
でも、僕たち……まだ、数えるほどしか……してないんだけど!! 指を折ってみるけれど片手で……足りる。足りてしまう。
思わず目で訴える。──新婚なんだ! これから色々と──
「避妊されないのが悪いのです」
これだから男は、そんな毒の入った女性独特の冷ややかなまなざしに撃沈した。
そういう訳で、急遽僕だけで残りの視察を行う事に。理由はとりあえずスピカの状態が安定するまでは伏せておくことになった。
「じゃあ、気をつけるんだよ」
スピカは体調が戻り次第、ゆっくりと宮へと帰ることになった。
僕は予定を変更して、オリオーヌの逗留を伸ばした。スピカの護衛が到着するのを見届けて出発する事にしたのだ。その間、一人でツクルトゥルスの視察を終えた後、ある事を思い出して急遽国境のハリスまで足を伸ばした。
念のため、宮からは叔母とレグルスを呼び寄せた。レグルスは、今回は僕の護衛から外れていたのだ。──外れてもらっていた、が正しいけれど。父親がついて来たら、さすがに……いろいろやりにくかったから。悪い事してる訳じゃないけど、遠慮してしまうというか。
部屋の窓から手を振って見送る彼女は、顔色の悪さも手伝って儚げに見えた。なんだかとても心配で、僕は後ろ髪を引かれる想いでオリオーヌを離れた。
その後、国内を半月ほどかけて回った後宮に戻ったのだが、スピカはまだ帰って来ていなかった。
不思議に思ってセフォネに尋ねると、「安定期まで滞在する事に」とすげなく言われてしまい、愕然とさせられた。「傍に居れば皇子が我慢しないから」と警戒されての事だとは(あんまりだ)、結構後になって知った。
そして本日に至る。
もうすでに、五の月。窓から忍び込む空気はからりと乾いて緑の萌える匂いがする。宮で一番のさわやかで気持ちのよい季節だ。医師が言うにはすでに安定期。指折り数えていたその日が来ても、彼女は帰って来ない。
馬車の振動が良くないらしく、一度帰ろうとして途中で腹痛を起こしてしまったため、様子を見ているのだ。
もう、あちらで出産した方がいい、僕はそう思っていた。
宮は彼女の敵だらけだ。変に戻らない方がいい。そう考えだした。今はまだ彼女の妊娠については宮では伏せてある。以前の怪我の療養中と誤摩化している。しかし戻れば必ず知れ渡るだろう。彼女に子供を産んでもらうと困る人間はたくさん居るのだ。味方の居ない今のままの宮は危険だった。
いろいろ考えたけれど、アルフォンスス家は宮に比べると狭い分、警備を固めやすいし、外にしか敵は居ない。
僕が我慢すればいいだけだ。分かっている。しかし、……体の方はそうも行かなかった。僕の意志に反して熱を持てあます。彼女を抱きしめたいと悲鳴を上げる。
妃を一人しか持たないと言う事は、こういう事かと、身に染みて実感する。成人の儀の前、その想いは同様に味わったはずだけれど、彼女を知らなかった頃よりも焦燥感はひどかった。……多分僕はこの新婚生活をすごく楽しみにしていたんだと思う。
どうしようもなくて彼女を思い浮かべながら自分を慰めてみるものの、後に来るのはひどい罪悪感だけ。
頭の中で彼女を貪り尽くす自分に、何をしているのか、と嫌悪感でいっぱいになるだけだった。
貴族どもはそんな僕につけ込み、隙あらば娘を送りつけようとする。セフォネにきつく言って取り合わないようにはしているけれど──なかなかに辛い日々の連続だった。