第4章 嗤う月(4)
石造りの壁は冷たい。そして閉ざされた部屋は暗く、まとわりつく空気も重たかった。呼吸をするたびに気分が重くなる。やっぱりあたしは、ここの空気にはいつまでたっても慣れる事が出来ない。離宮の木々の優しさがあっという間に懐かしくなる。
あたしはシュルマに説得されて、本当に久しぶりに本宮へと忍んで来ていた。
ルキアを置いていけなかったあたしの為に、彼女は色々と手を尽くしてくれた。ヴェガに連絡を取り、あたし達の為に部屋を貸してもらった。
ルキアは今日は機嫌がよいのか、ヴェガ相手に人見知りする事も無く、その腕の中で「あー、あぅー」と楽しげにおしゃべりをしていた。その様子に安心して、あたしは少しの間、父とヴェガにルキアを任せて、シュルマとともに本宮の応接室の隣へと忍んでいた。
あたしは、シュルマが扉の隙間から見せたかったものを予想できていた。でも……実際は、想像よりも彼はもっと追いつめられていた。
彼がルキアの後見を色々な貴族に頼み込んでいると、シュルマは言った。
それを聞いて帰りたくなった。ルキアの為に彼が頭を下げるのは見たくなかったし、無理をするのも見たくなかった。
そして、重い扉の音と共に、部屋に入って来た人物をみて、彼が迫られた決断が何なのか、あたしにはすぐ分かってしまった。
──シェリア。あたしよりずっと妃と言う立場が似合う少女。誇らしげに微笑む彼女は、以前よりも自信に輝いているようだった。手に入れたかったものが手に届くかに思えたのだろう。
そして彼らは予想通り、シリウスに結婚という契約を申し出た。しかもルキアを養子にと。
どうも、彼らはシリウスがその話を絶対に受け入れない事を予想しているかのようだった。断られる事を前提に話しているような気配があった。
だから、彼らがその後に言った事が、本当の提案だと、あたしはすぐに気がついた。
『他に妃を迎えて、新しく子を作れば──』
その提案は、あたしを雷のように打った。それがあたし達に残された最後のチャンスなんじゃないかって、そう思った。
それで、丸く収まるなら。あたしとルキアが平和にのんびりと暮らせるなら。それが一番いいような気がした。真っ暗だった未来へ続く一筋の希望に見えた。
あたしもシリウスも、もともと望んではいけないものを望んだ。今、そのツケを払う時が来たんだと思う。
あたしの代わりなど、いくらでも居る。あたしは、ルキアという宝物を得ることが出来た。だから……それだけで満足しなければならない。ルキアを選んだあたしは、シリウスまで手に入れる事は出来ない。それは欲張り過ぎだった。
ルキアの髪の色など問題にならないような田舎で、親子二人でひっそりと生きていければ。今のあたしにはそれで十分だ。それ以上は望んじゃいけない。
あたしがシリウスを諦めれば、そして、シリウスがあたしを諦めれば。きっと平和な日々が訪れる。
だから、シリウスに頷いて欲しかった。それなのに──
『すまない。やはりスピカ以外は受け入れられない』
そう呟いたシリウスの顔は苦渋に満ちていた。清流の魚が汚泥に苦しむかの様。彼は間違って飲んでしまった毒を必死で吐き出そうとしていた。
それは、あたしが離縁して欲しいと言ったときと同じような、苦しみ抜いたあとの顔だった。
その様子を見て、あたしは、がっかりした。手段を選んでいる余裕なんか無いのに、彼はあの時から少しも変わろうとしない。汚泥をその身に受け付けられない。
どうして、どうして、シリウスは、ルキアを守ってくれないの。お願い、あたしを選ばないで。あたしとの約束を捨てれば、全部解決するのよ──?
隣に居たシュルマはあたしの顔を見て驚いた表情を浮かべる。
「……スピカ? なんで喜ばないの? 皇子は、それだけ貴女の事──」
「……」
シュルマは、シリウスの必死さを見せてくれると言ったけれど、あたしには、彼の甘さにしか見えなかった。幼い約束にこだわり続ける彼が子供に見えた。そして、そんな彼を見せつけられて、一瞬シュルマを恨めしく思った。
見ない方が良かった。僅かに残された平和な未来が瞬く間に見えなくなってしまう。
「あたし──離宮へ戻るわ」
視線をさまよわせる。暗く重い天井が、湿った空気とともにあたしの上にのしかかる。鬱屈した気分を吐き出そうと深呼吸をすると、逆に体がずん、と重みを増した。
……もう、駄目なのかもしれない。どう考えても、彼を苦しめているのはあたしで、あたしを苦しめてるのは彼だった。共に歩く未来など、どこにも見えなかった。
疲れていた。いつか終わるのなら、彼が終わらせられないのなら、──あたしがこの手で終わらせなければいけないのかもしれない。そう思った。