第4章 嗤う月(3)
外をぼんやりと眺めると、小さな花の蕾が綻んでいた。良い香りが開いた窓から時折流れ込む。本宮の裏庭にも本格的に春が訪れていた。僕の心には未だ春は来ないままなのに。
今朝、僕は誰も起きていない時間にそっと離宮を発った。いつもなら皆で朝食をとってから出かける。でも今日は誰の顔も見たくなかった。
『あたし……彼に抱かれたくないの』
悪い夢を見てるのだと思った。酒を飲んだりしたから、悪夢を見ているのだろうと。
でも、開いた窓から聞こえる彼女の声は──確かに言った。そして、僕が他の女性を抱いても構わないとも、言った。
僕は、なんのためにルキアを守ったのか分からなくなった。ルキアが産まれなければ──そんな事さえ考えてしまっていた。
暖めていたルキアへの愛情が急にしぼむのを感じた。──彼は僕のスピカを奪ってしまった。彼女は守るべきものを新しく得て、僕から離れていこうとしていた。彼女は本物の母となり、母としての愛情を本来向けられるべき対象に注ぐようになった。彼女の中で、僕の役目が終わった。恐れていた事は、現実に起ころうとしていた。
ルキアを取らなければ彼女は僕を認めない。僕がとれるものは一つしか無いかもしれないのに、彼女を取れば、彼女は僕を許さない。じゃあ、僕は一体どうすればいいのだろう。
僕が彼女を捨てて、初めて彼女は僕のものになる。そんなバカな話があるのだろうか。僕は出口の見えない迷路のまっただ中に一人放り込まれていた。
見えていた細い道は消えかけていた。
──僕は疲れていた。この、先の見えない恋にしがみつく事に。
「この間の件、こちらの書簡に纏めてあります。目を通しておいて下さい。──ああ、そうだ、皇子、お約束の時間になりましたが」
イェッドが部屋に入って来るなり僕に声を掛ける。僕は慌てて居住まいをただして、机の上のメモ書きを引き出しに隠す。僅かな気力を振り絞り顔を上げる。──そうだ、しっかりしないと。僕が頑張らないと、何もかも駄目になる。
見上げると、彼の手元には分厚い書類の束。彼はそれを僕の机に丁寧にそろえて置く。表紙に小さな文字が並ぶ。見るたびに分厚くなるそれは──ハリスとオルバースに関する調査書。半年前くらいからイェッドに頼んで調査を始めていた。情勢が不安定な今、武装の強化が必要なのかどうか、調べておこうと色々進めていた。
「そんな時間か──、分かった。今行く」
僕は上着を取ると、立ち上がる。
きっと今回も駄目だろう。今までいい返事など貰えた事は無い。会ってもらえる事さえあまり無かった。少し考えれば当たり前だ。僕の立場は不安定だ。彼らが賭けに出るのは危険すぎる。それに ──。僕は今から会う人物を思い浮かべる。今日の相手ならば──こちらから断る可能性が高かった。
「イェッド、後で少し相談があるんだけど」
石造りの暗い廊下を歩きながら、イェッドの背中に向かって声を掛ける。彼が以前言っていた事を思い出したのだ。
『女としての本能より母としての本能が勝つ。つまり、そういう欲求が薄くなるってことです。』
スピカの今の状態は、そういう事なんじゃないか、そう思ったのだ。つまり、一時的なもの。ルキアが育てば、元のスピカに戻ってくれる。──そうであって欲しい、縋るような気分だった。
「スピカ様の事ですか」
分かっていたような口調だった。僕は悩んだけれど、結局付け加える。
「それもあるけど……レグルスの事でも聞きたい事がある」
その背中が強ばったような気がした。一度誰かに話を聞かないと、と思っていた。叔母かイェッド。叔母はなぜだか渋って話したがらなかった。イェッドも無理かもしれない。この間も誤摩化されたし。
「……分かりました」
意外な答えに僕は驚く。
「スピカ様の事だけ、相談に乗りましょう」
「え?」
すっぱりと切り離されて軽く瞠目する。──レグルスの事は?
「本人が言わないのに、私の口から言える事ではありません。聞かれるのであれば……レグルス本人か、帝にお願いします」
やっぱりか。叔母もそんな感じだった。
それにしても、皆、レグルスの過去の事となると口を閉ざす。不思議で、少し怖かった。
イェッドはあっさりと話を切り替える。
「それより、今日はうまく行くといいですね。……会ってもらえるのも珍しい、ですが……」
「ああ」
僕の中の憂鬱が大きくなる。
重い扉を開くと、目に陽光が差し込んだ。南側の部屋には硝子の窓が入っているため、この並びの部屋は一様に明るい。眩しくて目を細めながらも部屋の奥を見ると、一人の初老の男と、見知った少女の姿がある。居るかもしれないと思っていたから、驚かなかった。
「お久しぶりですわ、皇子殿下」
「……ああ」
「こら、シェリア。私がまだ挨拶していないというのに。出しゃばるのではない。申し訳ありません──皇子殿下、本日はご機嫌麗しく──」
「堅苦しいのはいい。ひとまず座ってくれ、パイオン卿」
僕はシェリアの絡み付くような視線を避けるように俯いた。どうも、この娘は苦手だ。裏表がありすぎる。
彼女の母であるアレクシア──後宮の前管理官──は収賄の容疑で宮を去った。その後保釈金をどこからか用意して、今はケーンにある実家にいると言う。
本来なら、彼らに話を持ちかける事などしない。犯罪者を出した家に頭を下げるなど、まっぴらだったけど……もう頼めそうな家が残り少なかったのだ。残っているのは、このケーンの領主パイオン卿、それからオルバースの領主ヴェスタ卿、あとは、……やはり先日の事件でその地位を追われた元大臣のメサルチム。オルバースの領主には明日会う事となっていて、もしケーンもオルバースも駄目ならば、あとはあのメサルチムしか残っていない。彼は、僕を利用してその名誉の回復を願っている。最初に僕に声をかけて来たのは彼らだった。しかし──殺人者を出した家だ。ルキアの後見にはふさわしくない。それだけは避けたかった。
オルバースの領主というのは、シュルマの実家。さすがに荷が重いと、腰を上げてくれなかったのだけれど、シュルマが頼みこんでくれたらしい。彼女はスピカの友人。もう親友と言っていいかもしれない。
昨日のやり取りを聞いて思った。友人の居ない僕には羨ましいくらいだった。彼女は全力でスピカを支えてくれている。ありがたかった。そんな彼女の両親だ。きっと、いい返事が聞けるのではないか──そんな風に期待していた。
目の前のパイオン卿はにっこりと笑って言う。その優しげな笑みは娘と同じように、腹が読めない。
「ええと、殿下のお子様の後見という話ですが」
僕は頷く。
「こちらの条件をのんでいただければ、お受けしてもよろしいですよ?」
──来た。ちらりとシェリアを見やると、彼女はニヤリとその優しげな顔に似合わない笑みを浮かべる。
「シェリアを妃に迎えていただければ。そうすれば、お子様は、<養子>として迎えさせていただきます」
「……」
そう来ると思っていた。
僕は無言で立ち上がろうとする。話は終わりだった。妃はスピカ以外に要らない。それにルキアをスピカから取り上げる事もしない。
「お待ちください。──皇子、もう潮時なのではないでしょうか?」
──潮時。その言葉が、閉ざした心に亀裂を入れる。
「何を言う?」
「先ほど私が申したことを受け入れて頂けないとしても、一臣下の意見としてお聞きくださいませ。
……他に妃を迎えて、新しく子を作れば──今の妃も、殿下のお子も穏やかな日々を過ごせるのですよ?」
何か含みを感じてひやりとする。
男はじっと僕の様子を伺っていた。
その目が探る。──子を皆の目から隠すのは……後ろ暗いところがあるのではないですか。
「ご存知でしょうけれど、過去に身分の低い妃が産んだ子を臣下に下すという例が多くあります。後継者に成れないお子様のことを配慮した采配です。命の危険も減り、立場も安定されます」
「……」
「新しい妃に愛情がなくとも、──子が出来るまで、それだけの間で良いのです。あとは、愛しい愛妾の元へ行かれればよろしいのです。それでもよいという娘は、いくらでも居ります」
シェリアが穏やかな笑みを浮かべて僕を見つめる。
ぐらりと、心が揺れるのを感じた。それならば、スピカとルキアを引き離さなくて良い。そして、安心して二人を僕の傍に置く事も出来る。今のスピカなら、僕が誰を抱こうとも怒りはしない。ルキアの安全を考えれば、彼女はあっけないくらい簡単に頷くだろう。
男は僕の背を押すかのように続けた。
「私は皇子が難しいお立場に立たれているのを心配しているのです。平和な日々を掴むには、妥協も必要でございます」