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第4章 嗤う月(2)

 シュルマが目を丸くしてあたしを見つめていた。

「どうして」

 その問いに答える余裕なんか無かった。

 あたしは彼女に近づくと、彼女の腕の中のルキアを奪う。──あたしの、ルキア。

 その温もりがじわりとあたしの冷えきった体を温める。大きく息を吸う。ルキアの甘い匂いを嗅ぐ。腕の中の子は頬を胸にすり寄せ、甘えた。甲高い泣き声は次第に落ち着いて来た。──ルキアはやっぱりあたしがいないと駄目。駄目なの。


「スピカ…………あれだけ言ったのに」

 シュルマが悲しそうに呟く。

 さっき、渋るあたしを説得して送り出したのは彼女。問われて、ふた月何も無いって言ったら、怒られた。あたしはずっとルキアと一緒で忘れがちだけれど──男の人は寂しがるからって。一刻ぐらい泣いても、見ててあげるわよって。

 だから覚悟して、部屋に入ったはずだった。それなのに──


「こんな事続けてると、皇子は……閨に他の女性を呼ぶかもしれないわよ?」

 びくりと体が震える。もしそうなったとして……今のあたしにそれを咎める資格は無い。

「ほら……ルキア様は大丈夫。お乳をあげたら、またいってらっしゃい」

 まだ混乱したままあたしは頷くと、ベッドの端に腰掛けて、ルキアに乳を含ませる。ルキアが必死で飲むのを見て、似ている、と思った。さっきまでシリウスも同じように顔を埋めていた。

 今引き離せばルキアは泣く。多分、シリウスも同じように泣きたかったんじゃないかと思う。

 ルキアが産まれる前は、こんなにルキアを優先させるようになるとは思いもしなかったのに。いつの間にあたしは、こんなに────

 ルキアは寝息を立てだした。ぱっちりと開いていた目は細く薄められ、強く吸い付いていた口が、吸い付いた形のまま緩んで外れる。胸から離すと、首がくたりと腕に凭れ掛かる。

 それを見て、シュルマがあたしに手を差し伸べた。あたしは躊躇った。


 ──戻りたくない


 本能が叫んでいた。必死で自分を誤摩化していたのに、叫び声がその薄っぺらい嘘を突き破ってしまった。

 あたしはルキアを手放せない。妻なのに。シリウスを一番に考えないといけないのに。

 ふと気がついた。心のどこかで、あたしは強く願っていた。あたしとルキアを引き離さないで欲しいと。ルキアと引き離されるくらいなら、シリウスが浮気をした方がマシだと考える自分がいた。以前からはとても考えられない。どうかしている。

 彼が愛しくて、手放したくないのは昔も今も同じ。でも、心が思う事と体が感じる事が違って、あたしはちぐはぐだった。

 実のところ、シリウスとの行為自体は、あたしにとって苦行でしかなかった。昔、口づけだけで体が熱くなったのが嘘のよう。もう彼の丁寧な愛撫にも体が反応しない。ルキアの事が頭の半分くらいを占めていて、集中できない。準備の出来ていない体を抱かれると痛みが伴った。早く終わって欲しくて、演技ばかりが上手になった。二月前はそうやってまだなんとか我慢できていた。その後に訪れる、凪いだ海のような穏やかな時が大好きで、大事だったから。

 でも……この二月の間にあたしは甘やかされてしまった。彼の妻では無い生活に慣れてしまった。ただぼんやりと何も考えずに、ルキアの成長だけを見つめればいい、母としての生活に。

 だからさっきは駄目だった。ルキアが泣く前にと、早く受け入れなきゃと焦れば焦るほど、体が冷えて。ルキアの声を聞いたとたん、素に戻ってしまった。どうしようもなかった。あまりの変化に自分が驚いてしまった。

 よほど業を煮やしたんだろう。シリウスは、封印していた彼の中の過去を持ち出そうとした。あれは、いつもの彼じゃなかった。あたしを溺れさせようとした。それは、多分、昔彼がそうされたときのもの。──あたしには決して見せようとしない、一歩間違えば、彼を闇の中に引きずり込む、そんな忌まわしい記憶。


 そこまであたしは彼を追い込んでしまっていた。それでも彼の元に戻れない。戻れなくなってしまった。


 なぜなら──さっきの彼を見て、あたしは気がついてしまったから。シリウスは、最終的にはあたしを取る。つまり、彼は心の底からルキアを自分の子供だと思っていなかったということ。それは当然のことで、妙に腑に落ちた。その事で彼を恨むつもりは全く無い。でも……、ルキアを最後まで守れるのはあたしだけだと分かってしまった。だから、ルキアを置いては戻れなかった。

 あたしの不自由な手では、とても二人は守りきれない。どちらか選ぶのなら──より弱い方を。あたしは今夜選択してしまった。シリウスの手を離して、ルキアの手を取った。

 シリウスも気が付いたかもしれない。あたしがルキアを選んだ事に。守るべき対象をルキアへ変えた事に。

 あたしは彼の目を思い出す。闇の色をした瞳は、輝きを失って本物の闇になっていた。あの幼い日の彼のように──


 ルキアを挟んで3人で眠った日が懐かしい。何も選ばずに済んだあの穏やかな夜が。

 選びたくなんかなかった。選ばれたくもなかった。歪な選択の先に、幸せなど、無いのだから。



「スピカ?」

 あたしは首を振る。

「だめなの」

 シュルマは泣きそうな顔をした。

「だめって……どういうこと?」

 あたしは、ゆっくりと息を吐く。そしてルキアをゆりかごにそっと寝かせると、ゆりかごを背に庇うようにして立った。

 昼間と違って、今は、だめだと思う理由がはっきりしていた。あたしを蝕んでいた不安の根も見つけてしまった。

「あたし……彼に抱かれたくないの」

 誰にも言えない本音が溢れる。どうしようもないあたしを叱って、助けて欲しかった。

「何、言って……るのよ、スピカったら。……あなたがそんなだったら……皇子は」

 シュルマは少しだけ笑う。相当無理しているのか、引きつった笑みが頬に張り付いていた。

「じゃあ、あたしが代わりに行っちゃうわよ?」

 彼女はあたしが怒ると思ったんだろう。冗談でもやめて欲しいって思ったのは、確かに今日の午後の事だった。でも、今のあたしは彼女の冗談めかした声にも、昼間のような反応が出来ない。嫌だと心では思ったけれど、頭は冷めていた。それでも仕方ないと思う自分がいた。冷めた頭で考える。あたしだけと約束している彼を拒むのは酷だ。それなら、せめて──

 二人がそうしているところなど想像もつかなかった。どうやら、あたしには想像力がなくなっていた。だから何の痛みも感じないままに口だけが動いた。

「……シュルマがそれでいいのなら」

 ぱちんと頬が音を立てる。じんわりと頬が熱くなる。鋭い痛みだけが胸を刺した。

「スピカ……あなた、最低よ? ……皇子が聞かれたら、どれだけ傷つかれると思ってるの! 皇子の事を一番に考えられる人間しか、貴女の場所には立てないのに。昔の貴女はどこに行ったの!?」

 目を上げると、シュルマがその目に怒りを浮かべてあたしを睨んでいた。目尻には涙も溜っていた。


 昔のあたし──それはいったいどんな女の子だったんだろう


 たった一年前の事なのに、頭の中に霞がかかった様で、おぼろげにしか思い出せなかった。

 あたしは、ただ、──彼を守る事だけに必死だった。それ以外、何も思い出せなかった。


 何も答えられず、部屋の中には重い沈黙が漂う。ほう、ほうと夜行性の鳥が鳴く。見ると窓が開いていた。道理でとなりの部屋にルキアの声が聞こえるはずだと、ぼんやりと思った。


 彼女はやがて小声で呟いた。その表情はひどい痛みに耐えるようで、シュルマには全然似合わなかった。


「私、今のは聞かなかった事にする。明日、皇子は本宮に行かれるわ。……あなたもこっそり行けばいい。そして皇子がどれだけ必死なのか──自分の目で確かめてちょうだい」



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