第4章 嗤う月(1)
文中に大人向け表現があります。ご注意ください。
軽く汗を流して、僕は自室に戻る。
冷たい水を浴びたというのに、体の熱も胸の動悸もなかなか収まらない。
心がざわついてひどく落ち着かなかった。さっき母の名を出した時のレグルスの目が忘れられない。冷たい、見るものが凍えそうなあの瞳。どうして、彼はあんな目をする? 彼は……母とは何でも無かったはずだった。彼自身もそう言っていた。
父、母、レグルス……ぼんやりと顔を思い浮かべる。触発されて胸の中に浮かび上がるものがあった。そうか……、似ているんだ。今の僕らの状況と。父もそう言って憂いていた。思いついたその事と同時に、吐き気が上がって来た。喉に禁忌の味が張り付く。似ている? ソレハ、モシカシテ────
慌てて頭を振ってその考えを吹き飛ばす。有り得ない。それこそ、絶対に。
だめだ……疲れてるのかもしれない。こんな事考えるなんてどうかしている。
窓を開けると、冷たい風が流れ込んだ。空を見上げると満月が東の空から昇って来ていた。あれからもう二度、月が満ちていた。……今日も一人で満月を見る事になりそうだった。
ひと月は普通に我慢した。でもふた月目に入ると不安が倍増した。……このまま、ルキアが育っても、僕とスピカの寝室は別々のままかもしれない──そんな事を考えてしまうのだ。
立太子から一年。あの夜も、満月だった。スピカと深く結びついた夜が、今はもう、幻のようだった。
扉が音を立て、開く。食事を頼んでいたから、それだろう。なんだかレグルスと顔を合わせたくなくて、部屋に持って来てもらうことにしていた。
僕は何も言わずに窓の外を眺め続けた。勝手に置いていってくれるはずだった。しかし人の気配が去らず、不審に思って振り向くと、扉のすぐ前にスピカがいた。腕の中にはルキアの代わりに食事の乗ったトレイ。スープの湯気がスピカの顔の前で頼りなげに揺れていた。
「え? ──スピカ? あれ? ルキアは?」
僕はひどく動揺する。さっきまで彼女の事を考えていたから、幻でも見てるような気分になっていた。
「ええと、あのね、ぐっすり寝てたから……預けて来たの」
彼女はそう言うと恥ずかしそうに顔を伏せる。
「え、預けてって……」
僕は自分で言った言葉を思い出す。直後跳ぶようにして彼女に近づく。
「あ、あのね、シュルマがね、預かってあげるからって……えっと」
僕は彼女の手からトレイを取り上げると、テーブルの上に置く。スープが溢れたけれど、構ってられなかった。両腕が自由になった彼女を抱き寄せる。ベッドに行く余裕さえ無い。口づけがやめられない。口を開かせれば、とたんに否定の言葉が溢れそうで。彼女の気が変わるのが怖かった。
*
──あー、ああー! あーー!
「シリウス……ル、ルキアが……っ」
「大丈夫だよ、ルキアは昼間だって泣くよ」
僕は彼女の胸に顔を埋めたまま、祈るように呟く。腕の中で身をよじり、隣室の扉を見やる彼女を自分の体重で押さえる。
さっき、スピカの体が急にびくりと震えたかと思うと、熱くなりかけていた体が、急激に冷めたのだ。あまりの唐突さに何が起こったか分からなかった。その時点では、僕にはルキアの泣き声など聞こえなかったのだから。
ルキアの僅かな声。彼女にとってそれは、僕との時間が終わったことの合図だったようだ。
僕は口づけで彼女の口を塞ぐと、愛撫を続ける。胸を撫で、足の間に手のひらを忍ばせる。そして彼女の体が冷めてしまった事に苛立ち、唇で強引にこじ開ける。
「──だ、駄目!」
強引な行為に驚き戦いて、スピカは僕から逃れようとする。
床の上の服に溺れるようにしてもがく。僕は彼女を陸に上がらせまいと、脚を掴む。再び闇色の海の中に引きずり込む。──逃がさない。
「シ、リウス……ッ、ルキアが……お願い……っ」
ここまで来てやめられない。二月分の衝動が津波のように僕を襲う。僕は、体の下で震える彼女を抱きしめた。
──ああーー!! あぁあー! あ゛ーー!
隣室から響く泣き声がどんどん大きくなる。それに連れて彼女の震えもひどくなった。彼女は上の空で、僕に何も感じていないようだった。次第に人形を抱いてるような気分になり、自分がどこに向かっているのか分からなくなる。僕は結局それ以上、続ける事が出来なくなった。
「……行っておいで」
やっとの事でそう言った。僕はスピカの顔を見る事が出来なかった。無理して微笑もうとした。でも笑い方を忘れてしまっていて、きっとどうしようもない顔をしているはずだった。
「ごめんなさい」
彼女は切羽詰まった様子で傍にあったガウンを引っ掛けると、扉の向こうに消える。僕を振り返りもしなかった。──今夜はもう、彼女は戻って来ないだろう。
体を合わせても繋ぎ止められないのなら──。いっその事ルキアみたいに泣き叫びたかった。そうして彼女を引き止めたかった。
僕は心の底で願っていた。甘い夢を見ていた。彼女は最終的には僕をとる、と。
彼女に僕を選んで欲しかった。──僕はルキアに、しかも些細な泣き声に負けたという事だった。完敗だった。
彼女は母親なんだから。そして僕は父親なんだから……子を優先させるのは当たり前だ、そう思おうとしても、苦しくて、苦しすぎて駄目だった。
服も纏わず、テーブルの上の食事に添えてあったワインを一気に煽った。喉が焼けた。景色がふわりと歪んだ。久々のその感覚。いつもは全く手をつけない酒の味が、現実から逃れたい今の僕にはちょうど良かった。
今まで酒なんかに頼るつもりは無かった。頼らなくても大丈夫だ、そう思っていたのに……。ふらつきながらベッドに倒れ込む。
窓から見える満月が僕を嗤う。
寂しかった。凍えそうだった。──誰でも良い。僕を慰めて欲しかった。