第3章 繕いだらけの幸せ(6)
吐く息が白く濁る。春の夜の冷たい空気が空から振りそそぎ、体の熱を奪う。
離宮の裏庭で僕とレグルスは睨み合っていた。夕日の色がレグルスの剣に映る。紅い。血の色に見えて、一瞬ぞくりと肌が泡立つ。
「まだいけますか? ──では、……遠慮なくいきますよ」
「ああ」
今日はまだ、一本も取れていない。今度こそと、僕は剣の柄をしっかりと握り直し、中段に構える。目の前のレグルスは、同様に中段に構えると剣先を軽く揺らす。僕の視線が切っ先に捕われた瞬間を狙って、右手の手首に打ち込んで来た。
武器を捨てさせて降参させる、彼の手だ。レグルスは大抵致命傷にならないように手を狙う。僕もそれに習った。宮で習っていた師は、ことごとく急所を狙わせた。命を取る剣だった。それは、僕にはどうしても向かなかった。レグスルの剣は彼らとは違う。だれも傷つけない剣──相手の覇気を削ぐ剣だった。
僕は剣先をかわすと、同様に右手を狙う。彼はするりをそれをよけ、頭に剣を振り下ろす。思わず剣で庇おうとして、開いた胸元に鋭い刃が突きつけられた。
「……一本ですね」
冷や汗がこめかみを流れる。
剣は紙一枚のところでぴたりと止まっていた。
「も、もう一本」
僕は剣を構え直すと、今度は彼の胴を狙う。彼は軽くそれを剣で払い、やはり手へ刃を叩き込む。剣を右に傾けそれを跳ね返すと、今度は左手を狙われる。一歩後ろに飛び退き、剣を頭上に振り上げる。無防備なその頭に振り下ろそうとして、一瞬その緑灰色の瞳に気持ちが捕われた。直後、防具を巻いた腹に鈍痛が走り、地面に膝を付いた。──剣の腹で、殴られたのだ。
「う……」
「一本です」
呆れたような声が頭上から降ったかと思うと、腕を抱え上げられた。
「……駄目です。躊躇っては」
「でも」
「あなたの剣くらい、避けられます」
「万が一あたったら、まずいだろう? 死ぬよ?」
「あなたは……何の為に剣を習っているのです」
「……」
「あなたが躊躇っている間に、あなたは死にます。自分の身も守れない人間が、人を守ることが出来ますか」
「……僕は、人を切りたくない」
そこまで言われて、ようやくぽつりと本音が溢れる。僕の行動は矛盾してる。でも、どうしても人が傷つくのを見るのは駄目だった。レグルスはやれやれとため息をついた。
「あなたが人を傷つけたくない、そう思われるのは、素晴らしい事です。だが……それは、少しでも間違うと甘さと言われます。わたしは、その甘さが、いつかあなたを滅ぼすのではないか、そう心配しています」
レグルスは木の根元に腰掛け、置いてあった水筒を僕に差し出した。僕は蓋を開けると、音が鳴るくらいの勢いでそれを飲み干した。再び差し出された布を受け取ると、顔の汗を拭い、彼の隣に腰掛け、俯いた。
足下では庭の芝が夕日に赤く燃える。目線をあげると離宮の開かれた窓の奥で、燭台に火が灯されるのが見えた。僕は隣のレグルスの様子を伺う。彼の周りには、先ほどのルキアに対する微笑ましい態度が嘘のような厳しい雰囲気が漂っていた。
────何か、他にも言いたい事があるんじゃないのか。
ルキアが産まれたとき、僕は彼の頼みを断った。以来、いつもレグルスが何か言いたげにしているのを感じていた。一度、話をしないといけない、そう思っていた。だけど話をする機会がなかなか無くて。多分、そうする時が来たのだ。僕は黙って続きを待った。
じりじりと時間が過ぎる。足下に木の影が届き、それは次第に長く、そして薄くなった。
レグルスは何かを覚悟するように口を開く。
「あなたは、甘い。……今度の事でもそうです。あなたのせいだとは誰も思っていない。あなたは被害者だった。
だけど、私はお願いした、スピカの願いを聞いて欲しいと。スピカはあなたと子供、どっちをとるかで迷っていた。あの子が、あなたをとると言えば、仕方ないと思っていました。あの状況であなたがとれるとしたら、スピカだけでした。あなたのことだ、もしルキアの存在を消せば、私があなたもスピカも許さない事を分かっていたのでしょう? だけど、それはつまり、ルキアと私を消してしまえば、スピカだけは残せたということだ。私はあなたのスピカへの執着を知っていましたから、あなたがそうすると思っていました。それなのに、あなたは……全てを取ろうとした。
ルキアを救ってくれた事には感謝します。あなたは優しい。でも──甘い。甘すぎる判断です。策などどこにあると言うのです。私には道など見えない。このままだとスピカも、ルキアも、どちらも最悪の形で失うことになる。
──もし、どちらか一方でも欠けたら、その時は、今度こそ私はあなたを、『あなた達』を許しません、絶対に」
僕は息が出来なかった。相槌さえ打てなかった。僕が頭の隅で考えた事を見抜かれていたのもある。しかし、それ以上に、おぼろげに感じていた事をはっきりと形にされて、心が凍えた。──レグルスは、スピカの味方であったとしても、未だに僕の味方ではない。そして『あなた達』というのは、スピカと僕ではなくきっと──。
「あなたは、スピカの願いを聞くべきだった。愛するもののために、自らの想いを犠牲にするべきでした。私は、前に言ったでしょう。スピカが幸せであれば……それは『誰』の隣でもいいと。ああ、幸せが何かなど聞かないで下さいよ。生きていなければそんなもの、存在しない。恋は破れても、またする事が出来ます。でも命は一度きりなのです。
私が言っている事は……分かりますね? もし、スピカが自分の意志であなたの元を離れた時は……もう追わないでいただきたい」
レグルスは立ち上がる。
僕は彼の言葉が何か予言めいているように聞こえて、不安で胸をかきむしりたくなる。否定して欲しくて、問いかける。
「レグルス……君は」
──まさか、僕からスピカを攫おうとしているのか?
縋るように彼を見ても、見えるのは彼の肩越しに映る真っ赤な夕日。彼の表情は逆光で確かめられない。
「……皇子には私の覚悟を知っておいて欲しかった。私はあなたの事は好きですよ。息子のように思っていると言うのは本当です。──でも……時折ふと思い出すのです。あなたは……やはり、あの帝の子だ」
やっぱりそうだ。レグルスは────
「リゲル様を……あなたの母君を殺した、帝のね」
夕日が沈む。
闇の中、現れた彼の緑灰色の瞳は冷たく凍えていた。
僕はずっと勘違いをしていた。レグルスは、……父を、いや、僕を含め、何も許してなどいなかった。