第3章 繕いだらけの幸せ(5)
「皇子も随分上達されてますねぇ」
窓から外を見ていたシュルマが、窓を閉めながらそう呟く。高く響いていた剣のぶつかり合う金属音が、窓に遮られて小さくなる。
日が暮れて入り込む風が冷たくなって来ていたので、閉めてもらったのだ。
腕の中ではルキアがうつらうつらとしている。粥の後、おっぱいを飲んだら眠くなったみたい。
あたしは、ルキアをゆりかごに運ぶと、起こさないようにそっと寝かせる。口元のよだれを布で拭うと、軽い羽根の布団をお腹に掛ける。
そして、ソファに戻ると、テーブルの上の茶菓子に手を伸ばした。シュルマ特製の干しぶどうとクルミ入りの焼き菓子。
「皇子は、弓は得意なの……でも剣は」
──あたしの方が上手だったかもしれないわ。ふと昔を思い出す。暗殺から逃れてハリスに逃亡していたとき、練習で手合わせしたら、大抵あたしが勝っていた。弓は全く敵わなかったけれど、剣はあたしが僅差で上だった。あたしの中の父の血と、あとは彼のあの性格のせいだろうと思う。
でも今は……あたしは剣を持てないから。だから無理して練習してる。いくら練習しても……彼に人は切れないのに。
「ぜーんぶスピカのため」
その含みのある声に顔を上げると、シュルマがニヤニヤとこちらを見下ろしていた。
「羨ましいったら、ほんと。優しくて、賢くて、その上あんなに美しい皇子様に愛されて」
あたしは何も言えず顔を赤くする。シュルマにはあたしが沈んでるのが分かったのかもしれない。侍女の仮面を外した、軽い調子のおしゃべり。励ましだとすぐに分かり、心が温まる。
「その幸せそうな顔! 独り占めはずるいわよぉ? ……あぁ、私もあんな素敵な方に一途に愛されたい。いっその事、側室にしてもらえないかしら」
うっとりと言われたとんでもない言葉にぎょっと目を剥くと、シュルマが吹き出す。
「ぷっ、スピカのその顔ったら! 顔が引きつってるー! アハハ、じょ、冗談よ!!」
「も、もう、シュルマったら!」
励ましてくれるのは嬉しいけど、たちが悪い冗談はやめて欲しい、本当に。
「私じゃ無理だって! 私だけじゃないわ、──そんじょそこらの女の子じゃ無理」
一転して真剣な物言いに、あたしは文句を言おうとした口を閉じる。
「皇子って……あなたより前には誰も寄せ付けなかったじゃない? 成人されるまで女っ気がまったくないって珍しい事よぉ。宮じゃ、だいたいその前にお付きの侍女と出来てるのが普通なの。だから貴族は皆こぞって娘を宮仕えさせるんだから」
……それは……。
あたしはぐっと唇を噛む。彼が閉ざしたままの心の扉。あたしに決して見せてくれない心の闇。力が制御できる今、いっそのこと消してあげたいのに、彼はその闇を抱え続ける。その部分だけは触れる事が出来なかった。
「どんな美しい侍女でも落とせなくて、てっきり皇子は少年がお好みか、みたいな噂さえあったのに」
「そ、そんな噂があったの?」
それは、ひどい。当時彼の耳に入っていたら相当に傷ついてるはず。
「下世話よねぇ。でもそうでも言ってないとプライドが許さないお嬢様方がいらっしゃったみたいよ? そういう娘はさっさと宮仕えを辞めていったけど」
下世話とプライドという響きになぜだかシェリアを思い出した。あの可憐な見かけにそぐわず、随分とプライドが高くて、勝ち気なお嬢様。そうだわ、彼女が偽造したあたしのうわさ話は下世話という表現がぴったりのものだった。……彼女は今一体何をしてるのかしら。そう思いながら、ぼんやりと相槌を打つと、シュルマが眉をひそめる。
「ほら、スピカ? ぼんやりしちゃ駄目よ。聞いてたの? つまり、そういう娘が敗者復活戦を挑む可能性があるってことでしょう」
「え? 敗者復活?」
「ここ数ヶ月で急に侍女の数が増えてるの。正式な縁談で落とせないなら、既成事実を作ってでも、っていう輩よ。心配させるのもどうかと思ったけれど……ごめんね、……私、ここのところずっと皇子が別室で休まれてるのが気になって……」
胸をぎゅっと掴まれた様で息が詰まった。
「昼間の貴方達を見ていたらなにも心配する事は無いって思うのだけど、……夜、一人で休まれてる皇子を見るとどうしても心配になるの。ルキア様のことで頭がいっぱいかもしれないけれど……皇子の事も忘れないでいてあげないと」
「忘れてなんかいないわ……ただ、ルキアが泣くから……」
シュルマの目を見ずに言い訳した。
「一晩くらい預けてもらっても平気よ? 私で心配なら、レグルス様にお願いするとかヴェガ様にお願いするとか……」
「だめなの」
口からするりと否定の言葉が出る。条件反射のような反応に自分で驚いた。
「どうして?」
「……」
そういえば、どうしてなんだろう。──ルキアが泣くから? あたしがいてもいなくてもルキアは泣く時は泣く。それなのに、なぜ?
答えが出せずに黙り込むと、シュルマがあたしの顔を覗き込む。そして彼女には似合わない不安げな声で言い募った。
「まずは一刻だけでもいいの。……ちゃんと皇子を捕まえておいてよ。でないと……。私──なんだか──嫌な予感がするのよ」