第3章 繕いだらけの幸せ(4)
「ほーら、おじいちゃんだよ」
部屋の隅で父がルキアをあやしていた。半分だけ開いた窓から、春の暖かな日の光が緩やかに差し込んで、ゆりかごを暖めている。ゆりかごにかかる薄い日よけのベールが流れ込む風にふわり、と揺らめいた。
「可愛いなぁ。やっぱり俺の孫だからかなぁ、うん、この凛々しい眉は俺にそっくりだ! きっと俺に似ていい男になるぞ!」
間抜けなその声が執務室全体に響き渡る。……違うって。恥ずかしいから、もうやめて!
あたしは、心の中でそう叫びつつ、仕事に集中しようとしていた。机の上の書類はまだ、山のようにあった。気を散らしていたら終わらない。
──えっと、これはハリスの地方官からの嘆願書ね。特に書いてある事に裏は無いみたい。それから、こっちはオルバースの商家からで、塩の値上がりについて。……ん? 何かひっかかるけど……──
「いないいない、ばぁ!」
「きゃっきゃっ」
父の怪しげな声に混じるルキアの高い声だけはしっかり耳に届く。とたんに集中力が途切れてしまう。
あたしは思わず隣の机で作業をしているシリウスにちらりと目をやった。その綺麗な横顔。漆黒の瞳は書類をしっかり睨んでいたけれど、口元は僅かに緩んでいた。
仕事を始めて二月ほどが経っていた。ルキアが産まれて五月。もう季節は春になっている。
シリウスは週のうち二日ほどを本宮で過ごし、残りを離宮であたし達と過ごすようになった。生活のリズムも整って、顔色も良くなっている。声にも力が戻っているような気がした。
あたしは、彼が、相当に無理をしていたんだって分かって、反省した。自分とルキアの事で精一杯で、彼の本心に気づく事が出来なかった。彼は、本当に疲れていたみたいだった。それはそうかもしれない。昼間働いて、馬を駆って帰って来て、そして、帰るとあたしが待っていて、夜中にはルキアの泣き声で起こされて。
離宮で仕事を始めてからは、シリウスは隣室で眠るようになった。『ルキアの機嫌が良くて、すやすや眠ってて、誰かに預けてもいいくらい──僕の相手はそういう時だけでいい』──彼は自分で言った言葉通りにあたしと距離をとるようになった。あたしに触れなくなってしまった。そして、あたしは、未だにルキアを預けられなかった。ルキアはあたしがいないと泣くのだから仕方が無い。でも──
あたしは不眠に悩まされていた。まるで昔、シリウスに触れないと力を制御できなかったあの時と同じだった。彼の腕の中で眠ることに慣れたあたしは、彼を失って力を持て余してしまっていた。体の中で力が渦巻いて、外に出たいと唸り声をあげる。自然に眠りは浅くなり、その上悪夢まで見るようになっていた。
だれかが、ルキアを連れ去っていく夢。いくら必死で抱きしめようとも、腕の中から強引に奪い去られて、闇の中にその姿が消える夢。
その夢は以前は見る事が無かったものだった。
彼と離れて眠るようになって初めて気がついた。
あたしは一人じゃ怖くて眠れなかった。あたしが落ち着いて眠る事が出来るのは、彼の腕の中だけだったみたい。シリウスの為って言いながら、彼との時間を欲しがってたのはあたしだったのだ。
シリウスはあたしの不調にすぐに気がついたけれど、ルキアが夜泣きをするからと誤摩化していた。
もし本当の理由をいえば、彼はまたあたしと一緒に寝てくれるだろう。ただし、それはルキアを預ける事が条件になる。でも、あたしは彼が求める通りにルキアを預ける事がどうしても出来なかった。もちろん預けようと考えた事もある。だけど想像するだけで、すぐに息が出来ないほど苦しくなって、諦めた。──悪夢を見た方がまだ楽だったのだ。
シリウスは離宮にいない時に、いろいろ仕事以外の事を済ませてくるようだった。内容については彼は一言も教えてくれない。ヴェガや父の口から溢れるその断片を拾うだけ。彼らもシリウスがあたしに言わないのならと、直接話してくれる事は無い。あたしとルキアの為に彼が手を尽くしてくれている、それだけしか分からなかった。とにかく、あたしは余計な事は考えずに、ルキアの事だけ考えていればいい、そういう事らしい。
皆が、あたしを守ろうと、気を使ってくれてるのは分かる。
でも……それがとても落ち着かない。ルキアはともかく、あたしは、そんな、大事にされるような存在じゃない。あたしに気を使うなら、その分をシリウスに回して欲しいと真剣に願った。
「あぅ、あぁー! あぁあ!」
「お、おい、スピカ!」
突然ルキアがぐずりだす。外を見ると、いつの間にか随分と日が傾きかけていた。父があたふたとルキアを抱いてあたしのところにやって来る。
「腹か?」
「たぶん」
さっきお乳をあげたのがお昼だから、もうそろそろそんな時間だった。
ルキアを抱くと、ソファに移動して、呼び鈴を鳴らした。ルキアはもうお乳を探して鼻をぐずぐずと鳴らしていた。
「レグルス」
シリウスが椅子から立ち上がって、父を呼ぶ。
「はい。行きましょうか」
父が部屋から出て行く。シリウスは帯剣しながら、あたし達を見て少し微笑む。
「夕食までには戻るから」
あたしは頷いてその背中を見送った。
入れ替わりでシュルマが入室して来る。彼女が押すワゴンの上で、茶器がかちゃかちゃと音を立てていた。
「皇子は剣のお稽古ですか」
あたしは彼女を見上げて頷く。シリウスは、離宮で仕事をするようになってから、昔と同じように父に剣を指南してもらっていた。本宮でこっそりやっていたそうだけど、どんな師をつけても父に習うほど上達しなかったそうで。
胸元ではルキアがむずがっていた。顔が真っ赤でくしゃくしゃになっている。その口が、早くお乳をくれとばかりに動く。
「かーわいいですねぇ」
シュルマが覗き込んでニコニコしていた。
彼女には隠し通せない、そう思って、改めて全部話してあった。皆も、出産時に立ち会ったのだから、話した方がいいと賛成してくれた。力の事、母の事、シトゥラの事、それからルティの素性まで。そして、その身の振り方を選んでもらった。
彼女は全てを知った上で、相変わらずあたしの傍にいてくれた。「皇子以外の子供であるものですか!」と言って、あたしを励ましてくれた。味方が少ないあたしにとって、彼女の存在は救いだった。
「はい、お粥ですよ」
彼女はそういいつつ、一さじ器の中から粥を掬って手の甲に乗せると、自分の口に運ぶ。毒味だった。
ルキアも離乳を進める時期だった。一日一回、粥や、柔らかく煮た野菜を少しずつあげる事になっていた。となると、当然毒味も必要になる。粥はシュルマ自身が作ってくれているのだけれど、彼女はいつもこうして自分で毒味をしてくれる。あたしを安心させようとしてくれていた。
「ありがとう」
あたしは匙を受け取ると、すでに半狂乱のルキアに一匙の粥を与える。ぴたり、と泣き止んで、もぐもぐと口を動かす。口の中の粥がなくなると、またぐずぐずと次を催促する。ひな鳥の様で、乳を飲んでいる時とは別の可愛らしさだった。
「可愛いですねぇ」
シュルマは再び言いながら、二人分のお茶を用意する。そして、あたしの目の前の椅子に座って、ニコニコと様子を眺めた。
周りに人がいない時は、シュルマはこうして友人の位置に立ってくれる。あたしが頼んだ事だった。妃として宮に帰って来て、付いてくれる侍女がいなくて困ってた時に助けてくれたシュルマ。あたしが殺人事件の犯人として捉えられた時も信じて応援してくれた彼女は、今まで異性は愚か同性の友人もいなかったあたしにとっては、大切な宝物だった。
今だって、こんな微妙な立場のあたしを相変わらず応援してくれる。
彼女の実家は南西部のオルバースにある。もともと裕福な貴族だった。オルバースは隣国との交易が盛んで、彼女の家も商売で身を立てている。そのせいか家族全員シュルマのように気さくで明るいそうで。あたしの侍女を続ける事には最初は渋い顔をしていたらしいけれど、最後は頷いてくれたらしい。それは本当にありがたい事だった。あたし一人だけだったならば、もうそれだけで十分な事だった。
心配するのは、ルキアの事。後見してくれる家を持たない皇子。のど元まで出かかった言葉を、用意してもらったお茶で流し込む。
──お願い。ルキアの後見を──
でもどうしても言えなかった。これ以上、彼女に迷惑はかけられない。ルキアの血筋が疑われれば、彼女も彼女の家も共倒れとなってしまう。……だとしても、いつか誰かに頼まなければいけない事だった。
現状シリウスの後見をしてくれているのはアルフォンスス家だけ。しかし、その家は既に主を失い家としての機能を果たさず、名ばかりの物だった。ルキアの後ろ盾は全く無いと言って良かった。
シリウスが今本宮で動いてるのはきっとその事。彼、もしくは、ルキアの強力な後ろ盾を探す事。そんな風に推理するのは容易だったけれど、それがとても難しい事を想像するのもまた、容易だった。