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第3章 繕いだらけの幸せ(3)

「あなた……浮気の一つでもしてみたらどうです」


 突如イェッドの口から飛び出した言葉に、僕はうんざりする。なんで彼がこんな事を言い出すのか分からない。

「何言ってるんだよ」

「一つの案ですよ。そうすればスピカ様も妬いて、自分が妻だと思い出されるかもしれません」

 少しだけ心を動かされる。久しくそんな愛らしいものは見ていない。彼女が焼きもちを焼くところを見てみたい気もした。……いや、彼女の事だ。妬くのではなくて……即、出て行くか。だいたいレグルスに殺される。

「問題外だ。自分から手放してどうするんだよ」

 そう言い捨てると、イェッドは声の調子を落として呟く。

「『スピカが居ないと生きていけない』」

「?」

「あなたはそう言います。事実そう見えます。しかし、それは本当であれば問題です」

「なぜ? だって、僕にはスピカが必要だ」

「人は、もともと一人です。そして、お互いが自立しているからこそ、いい関係が築けるのです。あなた達の関係は、……互いが互いにもたれ合ってる様にしか見えない。支えを失って一人で立てないような関係は、互いの為に良くない」

 一体何が言いたい? 人は支え合って生きるものだろう? 支えを失わない為に、頑張る事は駄目なのか? 彼が言いたい事がよく分からなくて目で説明を求めると、イェッドは苛ついたように眉をひそめる。そして短く息をつくと、腕組みをして、うろうろと部屋を歩き回る。


「とにかく」

 彼は何かを振り払うように短く言う。

「悪循環を抜け出さないといけませんね。お二人とも心身ともに疲れすぎて、今の状況から抜け出せなくなっている。

 ……スピカ様は……あの子は、あなたの為に何かしなければいけないと思い込んでいるようですし。それが自分の仕事だと。つまり、今、夜しか会えないのが問題なのでしょう。……そうですね、あなたの仕事を一緒にしてみてはどうですか」

「僕の仕事?」

「彼女が子供を身ごもる前にしようとしていたお仕事があるでしょう」

 思い当たる。すっかり忘れていたけれど、そういえばそんな事があった。

「でも……ただでさえスピカは疲れてるのに。それに本宮にスピカが来るとなれば、ルキアをどうすればいい」

 今の時期は特に寒い。馬で移動すると骨まで凍りそうだというのに。彼女が体を壊したら大変だ。

 僕が問うと、イェッドは呆れて溜息をつき、嘆願書を持ち上げ、音を立ててめくった。

「意外に頭が固いのですね。あなたが仕事を離宮で行えばいい話でしょう。この仕事は本宮でしか出来ませんか」

「あ」

 そうか。仕事はここでするものだと思い込んでいたけれど、よく考えれば、嘆願書を読んで纏めるだけの仕事だ。離宮で十分出来るはず。

「会議には出ていただかなければなりませんが、それ以外は離宮で仕事をされていても問題ないでしょう?」


 *


「ただいま」


 僕が部屋を覗き込むと、スピカがベッドの上のルキアの横に寝そべっていた。その脇にはレグルス。小さな影がバタバタと動くのが見え、尋ねる。

「起きてるの? ルキア」

 スピカはにっこりと微笑んだ。

 僕は髪を縛ると手を洗いにいく。ルキアをあやしていたレグルスが恨めしそうに僕を見る。しかし結局はスピカに睨まれて部屋を出て行った。


 レグルスの背中が扉から消えるとスピカがはしゃいだような声で僕に訴えた。

「あのね、今日、ルキアが笑ったような顔をしたのよ」

 久々に本当に嬉しそうな彼女の顔を見た。僕もそれを見て嬉しくなる。

「赤ちゃんって、もう笑うの?」

「ん。喜んだりとかは、まだ先みたいだけど、そういう顔もするんだって。すっごく可愛かったの。……父さんなんて顔が緩んじゃって」

「そっか、僕も見たかったな」

「シリウスが帰ってくる頃にはいつも寝てるから……ほら、ルキア? お父さんよ。笑ってみて」

 スピカの呼びかけに、ルキアはその大きな目をきょろきょろと動かす。僕と目が合うと、ただじっと僕を見つめて来た。その恐れを知らない瞳の中に、部屋の微かな光が映り揺らめいた。羨ましいくらいに澄んだ瞳。吸込まれそうだ、スピカ以外でそんな事を感じたのは初めてだった。

 最初に見たときより随分と肉付きが良くなった。手も足もすごく細くて、折れそうだったのに、今はむちむちしていて、手首や足首が紐で縛ったように皺が入っている。

 手のひらは弾力がある。僕の筋張ったマメだらけの手とも、スピカのしなやかな手とも違う、その小さな手。指先でそっと押すと、握り返して来るのが可愛い。

 不思議だった。なんで、こんなに可愛いのか分からなかった。毎日「お父さんだよ」ってルキアに言い聞かせているうちに、自分の中に自覚が産まれて来たようだった。

 どことなくスピカに似た唇の形、小振りな鼻、広いおでこに意志の強そうなしっかりした形の良い眉。くるりと反り返った長い睫毛、くっきりとした二重まぶた、その下から覗く茶色の瞳。そして、柔らかく燃える炎に似た赤い髪の毛。

 今のところ僕に似たところは一つもない。でも……色以外、「あいつ」に似てるとも思えない。


 そんな事を考えていると、父と対面した時のことが、ふと、浮かび上がった。


 あれは三月前のこと──。

 髪の色を恐る恐る持ち出した時の、父の反応は、僕が拍子抜けするくらいあっさりしていた。

「そうか」

 それだけ?

 目を見開く僕に、父は言った。

「自分に似ないと、切ないものだろう?」

 ふと目を上げると褐色の瞳と褐色の髪が目に入った。

「……あ」

 そう言えば、とはじめて思い当たった。

「親不孝ものめ。まぁ、私のした事を考えれば……仕方が無いが」

 自分が父親になった後でも、父の気持ちなど考えようとした事も無かった。

 僕は、未だに引きずっているから……どこか、受け入れられないのだ。徐々に胸の内のしこりは溶けかけているとは思う。でも、心のどこかがまだ冷たく強ばっていた。


 ──いつまでもこのままではいけない。僕の力のせいだと言うのに、父上は自分を責め続けている。忘れよう。あれは、父上ではなかったんだ。


 心が重くなりかけて、慌てて思考を無理矢理に切り替える。

 ────確かに、僕も、ミルザも、父に全く似ていない。

 僕は母にそっくりで、ミルザも義母にしか似ていない。父の面影などどこにも無かった。

「お前であれ、ミルザであれ……間違いなく私の子であると証明できないのだ。囲って閉じ込めて、始終監視していなければな。──いつの時代も……同じ事が繰り返される」

 父が感情を表に出す事は珍しく、その憂鬱そうな声に驚く。──同じ事?

「父上も、そんな風に悩まれたのですか」

 僕の問いに褐色の瞳が遠く過去を彷徨う。

「────」

 ふとその口から微かに何か溢れたように見えた。でも──僕の耳にその呟きが届く事は無かった。



 あれは、一体なんだったんだろう。あの時は、気持ちに全く余裕がなくて……ただどうしようと考えを巡らせる事で精一杯で、父の様子に気を配る事まで出来なかったけれど。

 何か嫌な予感がして、胸を押さえる。

「シリウス? どうかした?」

 スピカが心配そうに僕を覗き込む。ああ、こんな顔させちゃ駄目だ。僕は誤摩化すついでに、夕方イェッドと相談した事を切り出す事にした。

「何でも無いよ。あ、そうだ。今日はスピカにお願いがあってさ」

 スピカは頷いてくれるかな。少し不安になりながら切り出す。

「なあに?」

「スピカに仕事を手伝ってもらいたいんだ」

「しごと?」

「ほら、前にやってもらおうとしてた仕事があるだろう? 書簡の解読」

「あ、うん。でも」

 スピカの眉が下がるのを見て、遮るように言う。

「ルキアの事なら心配ないよ。仕事はここでやればいいんだから」

「でも、それじゃ、かえってシリウスの仕事の邪魔にならないかしら。書簡、あなたも目を通すのでしょう。二度手間にならない?」

「僕も、ここで仕事するからいいんだ」

「シリウスも? え、じゃあ」

 見開いた目が燭台の光を反射して明るく輝いた。彼女が纏っていた灰色のベールが地に落ち、中から彼女本来の力強い色が広がった。思わず笑みがこぼれる。

「そうだ。昼間もずっと一緒に居られる」

 スピカの顔が赤く紅潮していく。その瞳に強い光が宿るのを久々に見て、僕はほっとした。そしてイェッドに感謝する。

「僕はね、スピカ。君と一緒に居るだけで、それだけで満足なんだ。……無理しなくていいって言ったのは、そういう意味で。夜しか会えないと、どうしてもそういう事になっちゃうけど、僕が求めてるのは君と一緒に居る時間で、君の体じゃない。一緒に居る事が出来れば、それでいいんだ」

「え、えっと、じゃあ、」

 スピカは急に赤くなってモゴモゴと口ごもる。

「どうした?」

「あたし……てっきり、シリウスが毎日帰って来るのって……だから頑張らないとって」

 ほら、やっぱり義務だと思ってる。

 僕はため息をつく。そしてさっき勢いで言ってしまった言葉を少しだけ修正する。断言しすぎていた。素直にとられると困ってしまう。

「半分くらいは、誤解」

「半分くらい?」

 きょとんとするスピカに答えず、広いベッドに寝転がる。僕とスピカの間に挟まれたルキアは、いつの間にか眠っていた。ぷっくりとした唇が乳を求めているのかむにゃむにゃと動き、可愛らしい小さな寝息が部屋にそっと響く。


「今日はこのまま三人で眠ろう」

「で、でも」

「ルキアの機嫌が良くて、すやすや眠ってて、誰かに預けてもいいくらい──僕の相手はそういう時だけでいい」

 やっぱり、スピカの心の余裕がある時だけにしたい。今の彼女を抱いても空しいだけだから。

 スピカは少し困ったような顔をしていた。ルキアを預ける、その言葉が彼女の心を重くしているのかもしれない。


 早く、スピカが心から僕を求めてくれるような、そんな日が来るといい。手は打ち始めた。きっと結果はそのうち出るはずだ。……それまで、また、我慢すればいい。

 そう思いながら、スピカとルキア、それぞれの頬にキスをする。何か言いたげなスピカの目を笑って避けると、仰向けになって静かに目を閉じた。

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