第3章 繕いだらけの幸せ(2)
手の中でペンをくるくると回す。その影が書類の上を同じ様に踊っていた。
いつしか文字ではなく影を追っている事に気がついて、僕はペンを回すのをやめ、文字を追う事を再開する。
各都市から集められた嘆願書の内容を纏めて、会議で報告する。それが僕の仕事の一部だった。父からその役目を任されたものの、仕事を始めた立太子直後よりも嘆願書の数が随分と増え、日に日に時間がかかる様になっていた。その上、僕には個人的にしなければいけない事が大量にあり、もう自身の許容量を超えているような気がしていた。
それでも、やらなければ終わらない。目を閉じて、書類の内容を反芻する。
──ハリス、オルバース……不法入国者の数は……先月よりさらに増える、か。兵をまた派遣しないといけないのか。一度また視察にいくべきか……でも……宮を空ければ、スピカとルキアが
何を考えていても最終的に思考が行き着くのは彼女のところだった。
目を開けると、目の前の壁で暖炉の炎の色がゆらゆらと踊っていた。しっかりと閉じられた窓は冬の外気と同時に外の光を完全に遮っていた。日が暮れたのか確かめたくて、天井近くの小さな明かり取りの窓を見やると、外はもう真っ暗だった。ああ、もう、帰らないと。スピカがまた寝ずに待っている。
「疲れていらっしゃいますね」
低い声に扉を振り向く。いつの間にか、イェッドが扉の脇に佇んでいた。
「……いいや」
前髪で表情を隠しながら言う。多分、顔色はひどく悪いはず。
「目の下に隈が」
「……」
「たまには本宮でお休みなられては? 毎日戻る必要も無いでしょう?」
「……」
「侍従の言う事は聞けませんか。……じゃあ、主治医として言います。スピカ様を休ませて下さい。それからあなたもお休みください」
「……」
分かっていた。スピカの疲れが極限で、僕の疲れも極限に達しようとしてる事など。
分かっているのに。
離宮に帰る事にしたのはもともとは単純に警護の強化のため。僕が居れば自然、警護も手厚くせざるを得ないから。もちろんスピカやルキアの顔を見たいってのも否定しない。でも……それ以上の事は願っていなかった。
彼女はそう自覚していないみたいだけれど、なにか義務だと思っている節がある。頑張っている僕にご褒美をあげるかのような、そんな感じがする。そうだ、以前イェッドが言っていた「お情け」、きっとそれに近い。
悔しい。僕は、もっと頼られたいと思ってるというのに、……彼女は僕を存分に甘えさせるくせに、自分はまったく甘えようとしてくれない。
その母のような態度は、以前よりもひどくなっている気がした。
僕は昨日のスピカの様子を思い出して、深いため息をついた。
──ルキアへの態度と僕への態度があまり変わらないことに、彼女は気がついているのだろうか。
いくら情事の最中だとしても、ルキアが泣き出せば瞬時に母親の顔を取り戻すスピカ。お乳をあげて、おむつを替えて、寝かしつけると今度は僕の番というように。ルキアにお乳をあげるのと同じ顔で、「お腹が空いてるんでしょう」って言うような気軽さで、僕の腕の中に滑り込むスピカに、彼女が見せる艶やかな顔が作り物なのではないか、そんなことさえ考えてしまう。
それに……スピカはどこか変だ。いくら寝てるからといっても……、僕は隣にルキアがいるのは落ち着かない。スピカがどうして平気なのか分からなかった。以前の彼女なら……キスでさえも人目があれば嫌がっていたと思う。
僕が頼み込んで、ルキアを預けたことはあるけれど、それも一度きり。ルキアはすやすやと眠っていたはずなのに、何か察したように激しく泣き出した。それ以降、彼女はレグルスにさえ任せない。理由を付けてルキアを一瞬たりとも離したがらない。母親が子を想う気持ちにしても、行き過ぎているような気がした。
多分……誰かに奪われるのを無意識に恐れているのだと思う。そしてその恐怖がスピカを狂わせてる様にしか見えなかった。
彼女は自分がおかしい事にも気づかない。レグルスも叔母も、彼女の周りの人間は、スピカを壊れ物のように扱う。少しでも均衡が崩れれば……本当に彼女が壊れてしまうのではないかと思えた。
僕は彼女を現実につなぎ止めたくて、彼女を抱いた。僕と過ごした日々を、二人で乗り越えて来た事を思い出して欲しかった。
彼女は当たり前の様に僕を受け入れてくれた。
でも彼女を抱いても彼女を手に入れられなかった。彼女の心はどこか遠くを漂っていて、僕はそれを追いかけ続ける。そして、訪れるのは空しさだけ。体が満足するだけだった。何の為にそうしてるのかも分からなかった。ルキアが産まれる前、心の底から求め合ったのが嘘のようだった。
歪だった。終わりにしたかった。でもどうすれば終わりに出来るのか、今の僕にはわからなかった。
「本当は顔を見るだけでいいはずなんだ。でも……スピカのあの縋るような目を見ていると……駄目だ。明日にでも消えてしまうんじゃないかって、不安で堪らなくなる」
思わず弱気が口から飛び出す。レグルスや叔母には言えなかった。特にレグルスには。あのスピカと同じ色の瞳は、いつも僕に何かを訴えている。弱気になっているのは知られたくなかった。彼女を手放せ、そう言われるのが怖かった。
何でもいいから突破口を僕は探していた。イェッドなら……僕たちに近すぎず、遠すぎない彼ならば、何か見えるものがあるのではないか、そう思った。
彼は黙ったままだった。その茶色の瞳が何かを探し求める様に天井を彷徨う。
やがて彼は小さな声で呟いた。
「あなたは、いえ、私たちは……彼女の事を何も分かっていないのかもしれません」
「え?」
「あの子の自己犠牲の精神は……異常です。特にあなたに対する『態度』は……傍目に見ていても不自然なくらいですし。昔からですか?」
そうか、皆にもそう見えるのか。自分では分かっていた事なのに、落ち込むのが分かる。
「……多分。いや、違うか」
昔は、スピカも子供らしい子供だったはずだ。おぼろげに我が儘を言い合って喧嘩した思い出だってある。それが変わったのは……
僕は思い出す。
じりじりと全身を焼き付ける太陽。息が苦しいほどの熱気。止まらない涙。握りしめた黄色い小さな花。瞼の裏に浮かぶのは──母の墓だ。その隣で……金色の髪をした幼い少女が僕を心配そうに見つめていた。
──あたしが守ってあげる。あなたが泣かなくてもいいように
彼女が変わったのは、きっとあのとき。僕が失った母という大きな存在を埋めようとして……彼女自身が僕の母になろうとした。
そして未だ、彼女はその幼い約束に縛られたまま、僕の『母』であろうとする。
シトゥラの娘はもともと自己犠牲を何とも思わないと……昔聞いた。その性質と約束が絡み合って、今のスピカの精神を作り上げているのかもしれない。だとしたら、僕は、その約束を壊さなければならないのだ、きっと。
「スピカは……昔言ったんだ。『あなたを守ってあげる』って。そして未だにその約束に縛られているんじゃないかと思う」
「じゃあ、あなたはそれを反古にしてあげなければいけないのですね」
イェッドがふむと納得したように頷いた。けれど、……一つの懸念が僕を頷かせなかった。
彼女を縛っている約束の重みが彼女を僕の元にとどめているとしたら──
その約束が壊れた時に……彼女は僕の隣に居続けようとしてくれるのだろうか。
母ではなく、恋人として、妻として、僕の元に留まってくれるのだろうか。
そのとき、改めて気がついた。僕は『彼女に自由を』と口に出しながら、そんな事をまったく望んでは居ないのだ。彼女の翼をもいでいるのは……他の誰でもなく、僕自身だった。