第3章 繕いだらけの幸せ(1)
「……ピカ、……スピカ!」
遠くで声が聞こえる。まだ、寝かせてて。昨日は全然寝れなかった……
「おい、こら! 皇子が戻られたぞ!」
耳元で囁かれて反射的に飛び起きた。
「え、シリウス?」
思わず大きな声が出て、その声に反応するようにルキアがふぇと泣き出した。
「……あぁ」
せっかく寝かしつけたのに……
思わず声の主を睨むと、
「バカめ、頼んでおいたのはお前だろう?」
父が呆れた様にため息をついていた。そしてゆりかごに目を落とすと一転してその厳つい顔を緩ませて手を伸ばす。
「あ! 父さん手を洗ったの!?」
「お」
そのごつごつの大きな手がぴたりと止まる。渋々の様に父は部屋の隅に手を洗いにいく。親ばかは対象を孫に変えて継続中だった。それはもう、見てて恥ずかしいくらい。父が言うには、娘とは別の可愛らしさらしい。
あたしがそっとゆりかごから抱き上げると、ルキアはぴたりと泣き止み、甘えるように頬を胸に押し付けて来る。その仕草が可愛くて仕方が無い。頬にキスをする。だいぶんしっかりして来た首を支え、縦に抱く。するとその小さな手があたしの寝間着をぎゅっと掴んだ。
微かな音に振り向くと、扉がそっと開かれ、恐る恐るの様に漆黒の瞳が部屋の中をのぞいた。
「起こしちゃった? ごめん」
「……お帰りなさい。こちらこそごめんなさい、先に寝てしまってたわ。寝るつもり無かったのに」
「寝ていていいんだ。顔だけ見るつもりだったから」
そう言って、彼はその長い黒髪を器用に後頭部で縛ると、父の後に続く様に手を丹念に洗い、ベッドの脇にやって来る。そして長い指で恐る恐るふわふわの頬に触れ、幸せそうに微笑んだ。
「ルキア、ただいま、お父さんだよ」
暖かい声でそう話しかけるシリウスは、次第に言葉通りにお父さんの顔になっていく。毎晩、遅くまで宮で仕事をして疲れてるだろうに、その事を微塵にも感じさせない。
しかも今は冬。彼の纏う空気は未だにひんやりと冷たい。部屋は暖房が効いていて分からないけれど、外は相当に寒いはずだった。それなのに、彼は本宮の自分の部屋で休まずに、律儀にこの離宮まで戻って来てくれる。だからあたしも彼が帰ってくるまでは起きていようとするのだ。
ルキアが産まれて三月ほど。あたしとルキアは新年の喧騒が通り過ぎるのを待ち、こっそりと宮へ戻って来た。
<療養>という言い訳は意外に長い間通用していた。あたしが邪魔な人間には都合が良かったらしい。帰って来なければいいと皆期待していたようだった。あたしが居ない間にシリウスに新しい縁談がいくつかあったと言う事を風の噂で聞いていた。そもそも皇子である彼ならば妊娠中の浮気などごく普通のこと。過去には腹違いの子が同じ年に何人も産まれたこともあるらしい。彼は何も言わないからこっそり心配してたんだけど、彼が鼻にもかけなかったという事をセフォネから聞いて、心の中が暖まった。
あたしが子を産んだ事はさすがに隠し通せる事ではなく、宮の中でひっそりと広まっていた。この国の慣例として子が一歳の誕生日を迎えてから、正式に発表する事となっている。
悲しい事だけれど、一つの誕生日を迎える前に病などで子が命を落とす事が多いためだった。もちろん命を落とす理由は病だけではない。過去、勢力争いに巻き込まれて、暗殺される子も多かったと聞く。
そんな理由もあって、シリウスはあたしを宮に戻す手配を慎重に整えていた。帝に事情を話したところ、髪の色の事はしばらく伏せておくこととなり、子が目につかない様にと離宮をあたしとルキアの為に用意してくれた。帝が子の髪の色について何と言ったのか、あたしはまだ知らないでいた。帝が新しい皇子の顔を見に来ないこと、シリウスがその事に触れたがらないことから、だいたい想像はつくのだけれど。
この離宮は以前ミルザ姫が使っていた離宮で、本宮から馬の足で半刻ほど山を下りた場所にある静かな場所だった。警備に多少不安があったため、彼は妊娠中と同様に父をあたしの傍に置く事にした。その上、自らの警護の人員を裂いてこちらによこしてくれていた。そして、それでも不安なのか、ひっそりと苦手な剣の稽古を再開したようだった。あたしが何も知らないと彼は思っているみたいだったけれど、そんなこと、手の『まめ』を見れば、すぐに分かる。
彼は離宮に住み着いた。朝早くから出かけ、夜遅く帰って来る。そんな皇子というのは過去に例が無かった。
あたしが彼の負担を心配すると、シリウスはただ「君は何も心配しなくていい。ルキアを頼む」そう言うだけで、全てをその背に背負ってしまおうとしていた。その姿を見て心が揺れる。
──あたしは、ルキアを産んですぐに彼が言ってくれた言葉を撥ね付けられなかった。シリウスの事を考えたら、絶対に受け入れてはいけなかったのに、あまりに心を揺さぶられて、断る事なんかできなかった。ただ自分の為に受け入れてしまった。
そして今あたしはその事を後悔し始めている。
彼がルキアを見る時の愛情の籠った眼差し、お父さんの顔。
彼は──いつか来るかもしれない別れに耐える事が出来るのだろうか、そんな事を考えてしまう。
あたしは……シリウスを信じたいと強く願う一方で、どうにもならない現実と戦っていた。
日に日に赤くなるルキアの髪を撫でる。
顔を覗き込むと、無垢な丸い茶色の瞳があたしの戸惑った顔を映し出す。
──こんなに可愛らしいのに。こんなに愛しいのに。シリウスの子供だと、なんで証明できないの。
事実を確認する事は出来た。
もう一度、シトゥラへ行って……あの部屋を調べればいい。あの夜の出来事を『見れば』いい。
それはとても大変な事。あの屋敷に潜り込むなんて……捕まえてくれと言ってるようなもの。
そして、もし侵入を果たせて、過去を見て、何も無かったとしてどうやってそれを証明すればいい? あたしはそれを知って、安心できるし、シリウスも信じてくれるだろう。
でも……あたしを信じない人間には、そんなのあたしがそう言ってるだけだと、それだけの事だと言われてしまうのだ。
宮に流れていたうわさ話を思い出す。シリウスの妃になるのを嫌がってルティと逃げたあたし。そして髪の色が明らかになれば、その間に孕んだ子供だと言われてしまう。
万が一、本当にルティの子供だったり……、どうしても違うと証明できなかったら。
きっと、あたしも、ルキアも────
考えついたその思考に身震いする。
「スピカ? どうした?」
その心配そうな声にはっとした。
「な、何でもないわ」
慌てて暗い思考を振り切り表情を取り繕った。シリウスはただでさえ疲れてるんだから。余計な心配はかけちゃいけない。
「……ごめんね、あんまり育児を手伝えなくて。疲れてるんだろう? 毎晩、起きてなくていいんだよ」
「あたしがあなたの顔を見たいのよ。寝ちゃったら見れないじゃない」
あたしは小声で言いながら、いつの間にか腕の中で眠ってしまったルキアをゆりかごに戻す。そして部屋の隅で名残惜しそうにルキアを見つめている父を見やる。眠ってるから連れて行ってもらってもいいけれど……と一瞬考えたけれど、泣き出した時の事を考えると妙に心が騒いだ。
結局あたしは……──父さんはいつも一緒でしょ、と目で訴える。父の洗った手は孫を抱く事無く哀れに揺れた。
扉から父の悲しげな大きな背中が消えるのを見て、あたしはシリウスに微笑みかける。
ルキアが次に起きるまで。ほんの一刻か二刻の二人だけの時間。
躊躇うように唇が触れる。ゆっくりと目を閉じる。
シリウスは無理しなくていいって言うけれど、それはあたしの台詞。こんな風に毎日無理してでも戻って来る彼が愛しい。
体は本調子じゃなかった。でもそれを隠してでも、彼に応えてあげたかった。
あたしは、焦っていたのかもしれない。
多分、この幸せな時間が永遠には続かないと……頭の隅では分かっていたのだ。