〔3〕
優樹が選択した、最良の方法。
それは、バイクで十五分ほど走った場所にある自身の下宿先、ペンション『ゆりあらす』でリュシーを保護する事だった。
時々、遼や杏子を乗せる事があるため剣道部・部室の片隅には予備のメットが置いてある。幸いな事に、まだ武道館で練習をしていた後輩に取ってきてもらったので、リュシーの待つ場所へ戻るのに時間は掛からなかった。
リュックをタンクに括り直しメットを差し出すと、リュシーは素直にメットをつけ、リアシートに跨がった。慣れた所作だ。
『赤レンガ倉庫』の援護が功を奏したか、疑う事無くバイクに乗ってくれたのは助かった。仮に邪な気持ちで誘ったとしても、リュシーに掛かれば返り討ちになるだろうと苦笑しながらアクセルを開く。
空は既に、闇に包まれていた。
真っ黒なアスファルトに反射するライトが、雨の飛沫を白く浮き上がらせる。。
エンジンの音と、通り過ぎる対向車のタイヤが水を弾く音、道路沿いの松林の向こうから聞こえる海鳴りの音。
腰に回された細い腕と背中から伝わる柔らかい温もりに緊張しながら、慎重に運転する。
やがて、見慣れた明かりを目にして優樹は、安堵の息と共にアクセルを緩めた。
ヘルメットを取りにいったとき連絡を入れておいたので、正面玄関前にはオーナー夫人の田村小枝子と一人娘の杏子が大量のタオルを持って待ち構えていた。
「びしょ濡れで帰宅途中の女子を拾って帰るって言うから、ビックリしたわよ! さあ、早く中に入って! 玄関も廊下も、あとで拭くから! 杏子、彼女を宿泊者風呂に案内して!」
「はーい! 着替え用意してあるからね! お風呂は、この先ー!」
騒がしく女性達が奧へ入っていったあと、一人取り残された形で優樹はタオルで身体を拭きながら、濡れた廊下にモップを掛けているオーナーの田村に頭を下げた。
「急に、すみません叔父さん」
すると田村は笑いながら顔を上げる。
「かまわんよ。お前の事だ、見過ごせない状況だったんだろう? しかし、本当に綺麗な子だなぁ。おまえから電話が来てすぐに、杏子がクラスや部活の友人達から情報を集めて教えてくれたんだが、正式な留学期間は九月の新学期初日から二週間だそうだ。しかし本人達が十分な日本の生活習慣と観光を体験したいと希望して、早くに私費で来日したらしい。彼女は恭子のクラスに編入予定なのに、つい今し方、友人からの添付画像で顔を知ったと言ってたな」
リュシーが『赤レンガ倉庫』で会った少女と気付いても恭子が驚かなかったのは、そういう事かと優樹は納得する。
家族棟の風呂で温まってから様子を見に宿泊者棟に行ってみると、リュシーは恭子と一緒にリビングのソファーでオレンジジュースを飲みながらテレビを観ていた。
田村と妻の小枝子は、雨のため夜釣りを諦め戻ってきた宿泊客達の対応で忙しくしている。雨のせいで、お客様の予定が変わったから夕飯は二十時頃になると恭子から聞いた優樹は、自分もグラスに牛乳を注いでリビングの床に座った。
家族連れや若いグループが宿泊客の場合は宿泊棟に入らないのだが、今夜の宿泊は年輩の二人連れ常連客で、優樹の姿に気がつくと食堂から笑顔で手を振ってきた。
「あれっ、そのTシャツって……?」
リュシーが着ている黒いスポーツブランドのTシャツを見た優樹は、思わず声を上げた。どう見ても、それは自分のTシャツだ。すると恭子が、決まり悪そうな顔になった。
「その……ね、ハーフパンツはアタシので平気だったけどシャツのサイズが……ちっちゃくて。洗濯して仕分けた中から、お母さんが優樹のTシャツ渡してきたんだよ」
「小さい?」
優樹は恭子とリュシーを見比べた。身長は、それほど変わらないし二人とも細身の体型だ。違いと言えば……。
「……ああ、そっか」
納得した優樹に、恭子は顔を赤らめた。
「悪かったわね! どうせアタシは貧乳ですよ!」
「えっ、なんだよ、オレは何も言ってないだろ!」
恭子が投げつけたクッションを軽々と受け止め、出口方向に後ずさる優樹の背を夕飯に呼びに来た小枝子が叩いた。
「美少女に着てもらえて喜べ、少年。さあ、ご飯食べなさい!」
状況を理解できず戸惑っているリュシーの手を取り、食堂へ向かいながら恭子は優樹の足を軽く蹴った。
宿泊客の食事が済んだあと、恭子と優樹、時に泊まりに来た遼は食堂で夕食をとる。朝食や昼食は、キッチンの隅にあるダイニングテーブルで済ますが、夕食は広いテーブルで楽しく食べるべきと田村夫妻は考えているからだ。食堂の片隅に設えたバーカウンターで、宿泊客の二人は田村と談笑していた。
「口に合うといいけど」
そう言って小枝子が用意してくれた夕飯は、チキンのトマト煮、カニクリームコロッケ、グリーンサラダ、コンソメスープ。恭子とリュシーには手製のパン、優樹には大盛りの白米。
リュシーが食事を口に運ぶ様子を、しばらく心配そうに見守っていた小枝子は安堵の息を吐く。
「学園とホテルには連絡してあるから、今夜は私達の家に泊まってね。日本で保護責任者になっている人には、学園側から連絡してくれるそうだから安心して。制服は朝までにプレスして、明日は私が滞在先のホテルに車で送ってあげるわ」
小枝子の言葉に、それまで一言も声を発しなかったリュシーは顔を上げた。
「ありがと、ございマス」
たどたどしい日本語で礼を言われ、小枝子は嬉しそうに微笑んだ。
「食後のデザートはアイスクリームよー! フルーツ山盛りサービス!」
上機嫌でキッチンに戻る小枝子の後ろ姿を見ながら、恭子が溜息をついた。
「張り切ってるなぁ……お母さん。もともと女の子が大好きだから、アタシが友達連れてくるの大歓迎だし」
「お客さん、男の釣り客が多いからな。それに友達は恭子と違って……」
恭子の冷たい視線に気がつき、優樹は白米と一緒に言葉を飲んだ。
リュシーは、相変わらず無言で食事を口に運んでいる。綺麗な顔に似合わず、気持ち良い食べっぷりだ。恭子が気を利かせて、パンの追加を取りに行った。
最初に会ったときと、印象が違う。
『赤レンガ倉庫』のリュシーは、しなやかで優雅なネコ科肉食獣のイメージだった。瞳に冷たく研ぎ澄まされた殺意を宿し、敵と見なすモノの喉笛を迷う事無く瞬時に食い千切る。
ところが、いま目の前で色とりどりのフルーツが添えられたアイスクリームに目を見張る彼女は、生まれた国が違うだけの女の子だ。
デザートで緊張が緩んだのだろう、恭子とリュシーの会話が弾み始めた。リュシーはボール状にカットされたスイカを不思議そうにフォークで突き、口にした途端に笑顔になる。
恭子と笑い合うリュシーを見た優樹は、漠然とした杞憂を一端、頭の隅に押しやった。
今夜はもう、恭子と小枝子に任せて自分が手助けすることは何もない。優樹は早々にデザートを食べ終え、コーヒーを手に席を立つ。
「ユーキ!」
急に名を呼ばれ、優樹はコーヒーのカップを取り落とした。
冷めかけたコーヒーがハーフパンツを濡らし、陶器製のカップが床に砕け散る。
「ワタシ、アナタに二度、助けられタ。女ハ、弱イ思ウノカ?」
慌ててキッチンに台拭きを取りに行き戻った杏子は、穏やかでは無い場の空気を感じ取り、二人の間に入った。
「あ、あのね、リュシー。優樹は、そんな事……全然考えてないんだよ。頭が単純でね、助けなきゃって思ったら直ぐに身体が動いちゃう。男でも女でも、お年寄りでも子供でも、犬や猫でも関係ないから。だから……」
「ソレでは悪意アル者に騙サレ、利用サレる」
「確かに危ないと思うけど、優樹は相手に悪意や危険性があると、なんとなく解るんだって」
「It's absurd! Impossible! Why did you help me?(馬鹿な、有り得ない。では何故、アナタは私を……?)」
杏子から台拭きを渡して貰い優樹は、床に屈んで割れた陶器の破片を拾った。
「約束したんだ……大切な友人と。俺は、俺を信じるって」
遼の言葉が、脳裏に蘇る。
『君が、君で無くなる事を僕は許さない!』
優樹の全てを信じ、受け入れると言った友人のために、もう二度と自らの選択に迷わないと誓った。
しかし……。
破片が、ぷつりと指を差し、真っ赤な血が滴り落ちる。
優樹がカップを取り落としたのは、リュシーに名を呼ばれ無意識に警戒の態勢を取ったからだ。迷わないと自身に言い聞かせながら、体内に流れる血が鳴らす警鐘に思考が囚われそうになる。
キッチンから出てきた小枝子が怪我を心配して片付けを代わり、杏子が「大変! 救急箱!」と叫んで事務室に走って行った。
指先から腕へと流れる緋色の線を見つめていた優樹が視線を感じ顔を上げると、そこに物言いたげなリュシーの美しい瞳があった。