〔3〕
『赤レンガ倉庫』の一件から、翌日。
横浜市内のホテルに一泊した遼と優樹、杏子の三人は横浜駅近郊で土産を物色し、早めの昼食をとってから別れた。
ホームに立つ遼に、電車内から杏子が小学生かと思う勢いで元気に手を振り、優樹に何か言っている。すると優樹は苦笑しながら、片手を上げた。
昨日、今日と、元気に振る舞う杏子に救われた。気まずい空気にならず、本当に良かったと思う。
おそらく優樹は、遼の横浜校夏期講習受講に何かしら別の目的があると気付いているだろう。問い詰めないのは遼を信頼してるからだ。
それが、辛かった。
去りゆく電車を見送り遼は、小さく息を吐いて気持ちを切り替えた。
横浜駅から南西に向かう電車に乗り換えて約十分。瀟洒な住宅街の隙間から海風を感じられる駅に着き、高台へと続く坂道を二十分ほど歩く。
盛夏の昼下がり。
豊かに葉を茂らせたケヤキ並木が厳しい日差しを遮り、コンクリート上に煌めく模様を映し出していた。
運動部らしい女子の集団が、ロードワークで坂を下ってくる。遼が歩道の植え込み側に避けると全員が、明るい笑顔で礼を返してくれた。居心地悪く思いながらも、少し嬉しい。
坂を登り切ると、凝った装飾が施された高い真鍮の柵が現れた。
柵の向こうに、十九世紀末の有名なオランダ人建築家が建てたというレンガ作りの美麗な建築物。
「私立叢雲学園横浜校高等部」は、東京湾を望む自然豊かな高台の景観に荘厳な存在感を与えていた。
物々しい鉄製の門扉に閉ざされた正門横にある通用門を入り、来訪者用受付で名前と要件を告げると数分も待たずに職員らしい男性が現れた。
長い黒髪を一つに束ねた、二十代後半と思われる長身。ダークグレーのスリムな英国風スーツ、ハーフリムタイプの眼鏡……。
「やあ、君は! 確か昨日、赤レンガ倉庫で会ったね?」
「……こんにちは。いただいた名刺に叢雲学園外語講師とありましたけど、こんなに早く会えるとは思いませんでした。秋本遼です、よろしくお願いします」
「うん、改めて自己紹介します。私は叢雲学園横浜校・常任外語講師のアレクセイ・フォーンブロアー。サマーセミナーでは英語と世界史の講義、海外受験アドバイザー。そして君のように外部から参加する学生のサポートを担当しています。秋本遼くん、本校へようこそ! 早速、手続きと学園の案内をしましょう」
昨日、初めて会った時と同じ、柔和で親しみ深い笑顔。会話の頭で相づちを打つように発音するのは、癖だろうか。
アレクセイは差し出された右手を握り返した遼の手に、さらに左手を重ね嬉しそうに振った。
過剰に親密さを強調され戸惑いも感じたが、嫌な印象がないのは警戒心を解かせる魅力的な笑顔のためだ。
初見で、警戒心を抱かせない人物……。
ファーストネームがロシア系、ラストネームがイギリス系なので国籍は不明だ。
アレクセイに続いて石畳の歩道を校舎に向かいながら、ふと、遼の脳裏に疑問が浮かぶ。
『赤レンガ倉庫』で、連れの少女が複数の男達を相手に大立ち回りを演じたというのに、慌てず焦らず、落ち着いた態度でアレクセイは遼たちに近づいてきた。
その優しい微笑みを浮かべて。
乱闘の後、遼は優樹と杏子の安全に気を取られ、細部に注意を向けていなかった。思い返せば、最初から少女の行動を観察していたような言い方ではなかったか?
しかも優樹に怪我を負わせておきながら、いまは事件が無かったかのように他愛ない世間話や夏期講習の利得を説明している。
疑問を頭にアレクセイの背中を改めて見ると急に、正体の解らない嫌な悪寒が背を這い上がってきた。
先を行くアレクセイが、急に立ち止まった遼の異変に素早く気付き戻ってきた。
「うぅん、とても難しい顔ですね。何か心配な事がありますか?」
心から案じている表情と仕草で、顔を覗き込む。
「あ、はい……今まで長期泊まりがけで講習会に参加した経験が無いし、友人もいないので少し不安はあります。学園の男子寮に部屋を用意していただいたのですが、他校生は僕だけと聞いたから上手くやれるかなって……」
アレクセイの人間性を、もう少し知りたくなった遼は敢えて不安を口にした。
実のところ、看護師で忙しい母と転勤が多い父のために幼いときから他所に預けられる事も多く、高校では入学式前に入寮し三年間を過ごしているため不安など無かった。
他人との距離感を掴み、要領よく立ち振る舞う自信があった。
しかし、その合理的姿勢が通じなかったのが優樹だったのだ。
優樹の存在は遼に、多くの友人達と関わり信頼する勇気を与えてくれた。他人の悲しみや痛みに寄り添い、理解しようと考えられるようになった。
遼の深い孤独を、拭い去ってくれたのだ。
自分も、優樹の力になりたい……。
そう考えていた矢先、優樹に関わる何か大きな出来事の前触れを予感し、横浜校に行く必要があると直感した。
朱羅の誘いは好機だった。優樹の祖父に会うだけではなく、自ら行動を起こす事が大局への備えになると、確信があった。
現実、『赤レンガ倉庫』の件やアレクセイとの再会も、偶然とは思えない。
遼の弱気発言を真剣に捉えたらしいアレクセイは、腕を組んだまま少し視線を宙に巡らせてから、何か思いついたのか、ぽんっと、手を叩いた。
「うん、良い事を思いつきました。受講手続きは後にして、秋本くんに私の友人を紹介しましょう。九月最初の土日に横浜校学祭『朱雀祭』が開催されますが、その準備で私の頼れる友人達が集まっているはずです」
「先生の、御友人?」
「Yes、私が学園で教鞭を執るようになって、四ヶ月。彼らはSchoolのSystem(学園の方針)や、学生達とのCommunication(意思疎通)方法を、とても親切に教えてくれたのです」
北欧貴族の城を思わせる、五階建て本棟手前。アレクセイは携帯で短い電話をしたあと、くるりと踵を返し左手の木立に続く小道に歩を進めた。
小道を五十メートルほど歩くと、豊かな緑と色とりどりの花に囲まれたカフェテラスが現れた。背後にはガラス張りの、美しい近代的デザイン建造物。
「我が学園自慢の図書館です。地下二階から地上三階まで吹き抜けで、蔵書数は名門大学にも劣らない二百万冊。開放的で居心地のいい屋内閲覧席もありますが、一部書籍はカフェに持ち出すこともできます。夏期講習は、この建物内にある四つの学習室を使って開講されるから、友人を紹介するついでに案内します。うん、それから、センセーと呼ばれるのは好きではありません。学園の生徒たちにはアレクとかアリョーシャと呼ばれているので秋本くんも、そうしてください。私もファーストネームで呼びます」
「あっ……はい、解りました。ところでアレク先生の御友人は、その学習室で学祭準備をしているのですか?」
「No、彼等は学習棟にある生徒会室にいると思います。カフェで差し入れにコーヒーを買っていくので、ちょっと待ってくださいね。うん、それと、センセーは要らない。アレクと呼んでください、リョウ」
微笑んでアレクセイは、遼を待たせカフェのカウンターにコーヒーを四つ注文した。紹介してくれる学生は、二人のようだ。
テイクアウト用紙袋を手に建物内へ入ると、中央にグランドピアノが置かれた広々として明るいエントランスフロアが現れた。クリーム色をした大理石の床、吹き抜け側面は継ぎ目の解らないエメラルド色と空色のモザイクガラス。
想像していたよりも、流麗で洗練された美しさだ。
左手奥には、駅の改札に似たフラップドア型のゲートが六台。右手には四台のエレベーターがある。エレベーターに向かうアレクセイに、フロア内の学生数人が手を挙げて挨拶した。
「中央吹き抜けを挟んだ右が学習棟、左が図書館棟。左右の棟を繋ぐ渡り廊下が、図書閲覧及びフリースペースになっています。図書館ゲートを通るにはICカードの学生証が必要です。カードは学習室に入るときも必要なので、手続きの時に渡しますね。生徒会室は学習棟の三階ですが、エスカレーターは二階までしか設置されていないのでエレベーターで上がりましょう」
学生達に笑顔で手を振りながらアレクセイは、遼の後からエレベーターに乗りタッチパネル式の階数ボタンに触れた。
三階に到着したエレベーターのドアが開くと、その場所は品の良い絵画や温和しい色使いの花々でコーディネイトされた休憩スペースがあり、吹き抜けに面した一角のドアが先に続く通路の入り口になっていた。
壁に設置されたパネルにアレクセイがICカードを通し、自動ドアを開く。
通路に沿って資料室、会議室、給湯室と表示された部屋が続き、一番奧に生徒会室の表示があった。他の部屋とは違い、部屋全体が見渡せる大きな一枚ガラスの窓がある。
部屋の中は、海外ドラマや映画に出てくる企業オフィスのようだ。
中央にモニターが六台設置された木製テーブル、全面が偏光ガラスになった窓際に個人作業用のデスクが二台。革張りのソファと、カフェテーブル。
ロールスクリーンにプロジェクターで映し出された学園祭計画資料らしき物を前に、制服の男子学生と女子学生が何か話し込んでいる。
入り口の右に取り付けられたカメラ付きインターフォンを無視してアレクセイは中の様子を伺い、ガラス窓をノックしてから手持ちの紙袋を掲げた。
女子学生が気付き、小走りにドアに向かう。
「嬉しい! アリョーシャ、遊びに来てくれたんだ!」
ドアを勢いよく開け放ち、飛び出してきた少女に遼は思わず視線を下げた。
赤いフレームの眼鏡、ショートカットの似合う快活そうな少女……の頭が、遼の肩より下にあったからだ。しかも、小学生と見間違えられても納得出来る細身の体型。
「うん、カオルさん。アイスコーヒーと、チーズタルトを差し入れに来ましたよ。リョウ、こちらの可愛らしいLady(お嬢さん)は、生徒会副会長の時任薫子さんです。カオル、こちらは明日からのSummer Seminar(夏期講習)に参加する……」
「秋本遼、本物だわ! すごい……写真未加工と言われたけど、ホントに美形だ!」
頬を紅潮させ薫子は、頷きながら何度も上から下まで遼を眺めた。
「あの……初めまして、秋本です」
戸惑いながら挨拶をすると、後ろから男子学生が左手で薫子の頭を抑え落ちついた仕草で右手を差し出した。
「不作法だろう? 薫子。秋本くんが困っている」
長めの前髪が掛かった涼しい目元。目線の位置は遼より少し上で身長は一八五㎝くらいだろう。理知的な雰囲気ながら、精悍な体躯の学生だ。
「こんにちは。僕は叢雲学園、横浜校生徒会長の八神享一郞。薫子くんの失礼は、大目に見てください。彼女、秋本くんが講習に参加すると知って、会えるのを楽しみにしていたんですよ」
「そりゃぁ、そうよ! だってミス叢雲・館山校に選ばれたうえに、代々女性が部長を務める伝統の演劇部・部長……倉持美沙都の一推し男子ですからね! 昨年の『青龍祭』で、ミサとコスプレ・ツーショットを撮ったでしょう? SNSで見たけど、ほぼ二次元!」
注意された事など気にもしない興奮した声で薫子は、窓際のカフェテーブルに差し入れのアイスコーヒーとタルトの包みを並べながら説明する。その中に、倉持美沙都の名が出てきた為、遼は会得した。
倉持美沙都は、昨年秋の事件で女性教師の死体を発見した女子学生だ。事件に深く関係していた遼は、美沙都からの頼みを断り切れず一度だけコスプレ撮影会に参加する事になったのだが、SNSに公開されていたとは……。
「薫子くんが大騒ぎするから、秋本くんの名は一部で有名になっているよ。時間的に考えると、アリョーシャは手続きより先に、君を薫子くんに会わせたかったみたいだ」
無表情で遼をテーブルに促す八神の言葉に困惑しつつ、横浜校に馴染む切っ掛けになったなら良しと諦めた。短い滞在期間で最大限情報を集めるためには、内部に人脈が必要だ。
「んー、恐い顔はNoですよキョーイチロー。彼は学生達にCold Faceと言われますが、優秀で面倒見の良い生徒会長です。仲良くして欲しいですね、必ずリョウの良き友人になります」
八神を擁護するように微笑み、アレクセイが遼の向かいに座る。
挨拶の時さえ微塵も笑みを見せなかった八神だが、言われてみれば確かに余所よそしい冷たさは感じられなかった。
八神が纏う、水の匂いが混じった爽やかな空気に覚えがある。
親友、篠宮優樹と同じ空気だ。
「そうそう、八神は堅物なだけ。悪いヤツじゃないから安心してね、秋本くん。ところで、いきなり騒いでゴメン。美沙都とは趣味が同じで、中学からの親友なんだ。だから秋本くんの事は色々聞いてて、つい……」
悪戯っぽい顔で少し舌を出し、薫子が肩を竦めた。元気で明るく、可愛らしい印象に遼は好感を持つ。
「大丈夫、気にしてません。横浜校には友人がいないから、こんなふうに受け入れてもらえると、むしろ嬉しいです」
微笑んだ遼に、素早く薫子が携帯を向けた。
「写真、良いですか!」
すると八神が、瞬時に取り上げる。
「調子に乗りすぎ」
「ちょっとー! かーえーしてー!」
小動物さながらに飛び跳ねて手を伸ばし、携帯を取り戻そうとする薫子と無表情な八神。二人の軽妙なやり取りに、遼の緊張が解れる。
八神は薫子の手が届かない高さの書類棚に携帯を置くと、遼に向き直った。
「実は僕も、秋本くんには興味があったんだ。五月の全統記述模試、全国三位。そして、例の事件の当事者でもある。昨年、館山校の学祭『青龍祭』に招かれたとき会ってみたかったよ。機会が無くて、残念だった」
薫子が、足場にしようと引き摺っていた椅子を手放し、みかねて代わりに棚上の携帯を取ってあげようとしていたアレクセイが、手を伸ばしたまま固まった。
遼にとっては、想定していた状況だ。出方次第で、相手の印象が大きく変わる。
「模試の結果は、横浜校順位も我が校の進路相談室に張り出されていました。全国一位は、時任薫子さん。八神くんは五位でしたね。僕も一度、会ってみたいと思っていたから紹介してくれたアリョーシャに感謝しています。事件の事でしたら、遠慮無く何でも聞いてください。噂ではなく、真実を知って欲しいと思っています」
きっぱりと言い切ると、八神の表情が少し動いた。
「君は、僕が予想していたタイプと少し違うみたいだ。ゆっくり話をしたいけど、今日は時間が取れそうにないな。もし良ければ、連絡用アドレスを教えてもらえるかい? 講習の合間に時間が取れたら、ぜひ話を聞かせて欲しい」
「ええ、もちろん……」
遼が鞄から、自分の携帯を取り出そうとしたとき。生徒会室入り口のドアが大きく開け放たれた。
「おいっ! あの女が千葉から山猿を連れてきたと聞いて職員室まで見に行ったのに、ここだって言うじゃねぇか? 朱羅が気に入った秋本ってヤツは、どいつだ?」
大声で叫びながら入ってきたのは、部活トレーニングウェアの男子学生だ。明るく染めた短髪を整髪剤で立ち上げ、健康そうな褐色の肌。素早く室内を見回し、カフェテーブルに歩み寄ると立ち止まった。近くにみると遼より、かなり小柄だ。
「おまえが、秋本遼か?」
「驚いたな。僕は、よほど有名人みたいだ。秋本です、よろしく。ところで、あの女って誰の事ですか? 心当たり、ないんだけど?」
興味本位の詮索は、ある程度覚悟していた。しかし、いきなり敵意を持って『千葉の山猿』呼ばわりは予想外だ。
さすがに気分を害し冷たく見下ろした遼の視線を、男子学生は尊大な態度で見返し鼻を鳴らす。
「決まってんだろ、篠宮朱羅だよ。あの女が理事会に入ってから、難関大学の合格率上げるために優秀な学生を中学から勧誘するし、好成績学生は特別待遇だ。とうとう他校から引き抜きまで始めたと聞いたから、どんなヤツが来たのか見てやろうと思ったのさ」
「失礼だな、君は。僕は引き抜かれてきたわけじゃない。横浜校の夏期講習が有益だと自分で判断したからであって、朱羅さんは関係ないよ。ちなみに、受講期間中の男子寮滞在を特別待遇というなら、それは僕の実力で得た物だ。名も名乗らない君に、意見される筋合いはないね」
「……っつ、俺は雨宮圭太。とにかく、朱羅のせいで学園に余所者が増えるのは迷惑なんだよ! おまえは夏期講習終わったら、出て行くんだろうな?」
余所者……?
雨宮の言葉に遼は、微かな違和感を感じた。それは、遼のような受講者を指しているのではなく、何かしらの原因が学園の調和を崩しつつある苛立ちのように聞こえたのだ。
横浜校で、何が起こっているのだろう?
好奇心から遼は、少し探ってみようと考えた。感情的な言動をするタイプは、挑発で多くの情報を与えてくれる。
「そうだね……都心に活動拠点がある方が便利だし、朱羅さんに頼んで移籍しようかな。ところで雨宮くんの名は、今回の全統模試で100位以内に無かったな。まさか偏差値で、山猿に劣るとは言わないだろう?」
途端、雨宮の顔が赤くなった。明るい髪色と相まって、自らが揶揄した動物のようだ。
「なん……だとっ! 俺は陸上の地区大会に出たから、模試は受けてないんだよ! 受けてれば、一〇位くらいは余裕だけどなっ! 朱羅は、勉強やITで優秀な連中を集めてるが、頭だけのヤツと違って俺は、県大会で長距離三位以下になった事はないんだぜ? しかし、まぁ、お前は面白いヤツだ。他の連中ときたら……」
「チビ太の嘘つーきー! 同じクラスで、一緒に模試受けたハズだよ! あ、それから秋本くんは去年、テニスの県大会でベスト8に入った事あるんだからね。運動しか能の無いチビ太には、勝ち目無いよー!」
雨宮の言葉を遮り、薫子が二人の間に割って入った。
「クッソ、薫子! チビ太って言うな! お前の方がチビだろっ!」
「小さい系女子は、可愛いから問題なし!」
「はぁ? お前の、どこが可愛いんだよっ!」
薫子は、二人の空気が悪化する前に気を遣ったのだろう。すっかり拍子抜けして遼は、苦笑する。
「これ以上騒ぐなら、二人とも生徒会室出入り禁止にするよ? そうだ、ちょうど良い、雨宮。秋本くんの手続きが済んだら、君が彼を男子寮に案内するんだ。ただし、失礼の無いようにね」
それまで黙って見ていた八神が静かに言い放つと、雨宮と薫子は叱られた犬のように大人しくなった。
「……解ったよ」
穏やかでありながら有無を言わせない口調に渋々頷いた雨宮と、所在なく立つ遼に向けて、アレクセイが慌てて水を向ける。
「うん、長く滞在してしまいました。遅くなるとリョウが困りますね? では雨宮くんも一緒に、本棟まで来て下さい」
促され出口ドアに向かう二人に、くっついていこうとした薫子の肩を八神が押さえる。
「君はダメだ、まだ仕事があるだろう?」
ガッカリした様子の薫子を尻目に遼の後を追った八神は、素早く連絡先を交換し、片手を上げて別れの挨拶をした。
遼も手を上げ、軽く会釈を返してから先にエレベーターホールで待つアレクセイの所に急ぐ。
今日から40日間……勉強以外に、やる事は多そうだ。
雨宮の話を聞いたところでは、遼を横浜校に誘った朱羅の意図は、優樹の件だけではないだろう。
初日から意図的とも思える出会いに、改めて気を引き締める。
エレベーターのドアが閉まると遼は、偶然思いついた体を装って、もう一つ気になる事をアレクセイに聞いた。
「あ、そうだ。昨日、アリョーシャと一緒だった二人は、この学園の生徒なんですか? 外国の学生と友人になれる機会は少ないから、紹介してもらえたら嬉しいな」
するとアレクセイに代わって、雨宮が得意顔で答える。
「あぁ、オスカーとリュシーのことか。アイツらは五月に入ってすぐ、カナダの姉妹校から来た交換留学生で……って、おまえ昨日、会ったのか?」
エレベーターが一階に到着し、チャイムとともにドアが開いた。先にエントランスに出たアレクセイが振り返り、優しく微笑む。
「昨日はオスカーとリュシーを、横浜観光に案内していました。今日から二人は、叢雲学園館山校に行っているはずです。きっと、リョウの友人達とも仲良くなれるでしょう」
ドアが閉まりかけ、雨宮が慌てて開ボタンを押した。
「おい、何やってんだよ秋本。さっさと出ろよ」
「えっ、あ……ゴメン」
遼が幼いときから苦しめられていた、『見える力』。それは他者の悪意や善意、喜怒哀楽も、薄い霧のような状態で感じる事が出来た。
アレクセイの笑みに、寒気が走るような色の霧を見て遼の身体は硬直し、エレベーターから足を踏み出す事が出来なかったのだ。
優樹が、何かに巻き込まれなければ良いのだが……。
いまの遼には、祈る事しか出来なかった。