〔2〕
遼は優樹の驚くべき勘の良さと、人並み外れた破壊力を目の当たりにしたことがある。
旅行で訪れた『秋月湖』の怪異に立ち向かい、友人達を守るため優樹は自らの意思で湖水を割り、雷を穿ち、風を繰ったのだ。
それは人間の所業と掛け離れた、強大な力だった。
何度、夢であればと思ったことだろう……。
人では無いとすれば、いったい何だ?
いま、男達に絡まれ困っている女性を助けようとする優樹は、理不尽な暴力に憤る正義感の強い普通の高校生だった。
在籍する剣道部では毎年全国大会上位に名を連ね、友を労り、時に煩わしさを感じるほど私欲の無い潔白な性格。子供の頃は、死者の残思念を読めることでイジメを受けていた遼を、身を挺して助けてくれた。
しかし本当の優樹は、表向きの顔の裏に深い孤独と闇を抱え、自らの存在意義に悩み苦む一人の人間だったのだ。
強靱な精神力と肉体を持ちながら、自虐と破壊の衝動を併せ持つ諸刃の剣……。
衝動を制御出来ないとき、止めて欲しいと頼まれた。自分が、優樹の抑制力になれるのだろうか?
自信は無かった。
それでも、優樹の信頼が必ず力を貸してくれると、信じることにしたのだ。
優樹は努めて友好的な態度で、女性を取り囲む男達に歩み寄った。遼も少し間を取り、後に続く。杏子には、その場を動かないように言い含めておいた。
近くに来てみると、女性はまだ少女の面影のある外国人だった。
背景の海の碧、空の青さに映える白いワンピース。肩までのプラチナブロンド。ヨーロッパ系の顔立ちに、褐色の肌。すんなり長くのびた、細い手足。
美しい少女だ。
「あの、すみません。彼女、俺らの連れなんですよ」
五人の男達が取り囲む輪に遠慮無く進み出た優樹は、少女の傍らに立った。場の空気に、緊張が走る。
男達は四人が二十代前半くらい、リーダー格らしい一人が三十代後半か。暴力組織の人間ではないようだ。遊び仲間といったところだろう。
優樹が苦戦する相手では無いが、できれば暴力沙汰は避けて欲しい。
「ぁあっ? 適当なこと言って邪魔すんなよ。車から見てたけどさぁ、彼女、駅から一人だったぜ?」
どうやら最寄り駅から目を付けられていたらしい。一番下っ端と思われる、背の高い狐顔の茶髪が詰め寄って来た。優樹の顔色は変わらない。
「この場所で、待ち合わせていたんです。これ以上、揉め事になるなら警察に連絡しますが?」
絡んできた茶髪は携帯を手にした遼に、ちらりと目を向けてからリーダー格の男を見た。
少々肥満体の男は、他の四人に比べ身なりが良い。金をチラつかせ小物相手にボス気取りでナンパを命じているのだろう、ニヤニヤしながら茶髪に顎を向ける。
無理矢理、押し切れという合図。
四人掛かりで目の前の学生一人を殴り倒し、警察が駆け付ける前に車で少女を連れ去るつもりだ。遼は戦力として弱いと、判断したらしい。
「おぃ、悪いことは言わねぇ。痛い思いする前に忠告するけどさぁ、ソコどけよ?」
茶髪が優樹の胸ぐらに、手を伸ばそうとしたとき……。
「……っ、ぐぁっ!」
ゴキリと、不気味な音をさせ茶髪の腕が捻れた形で天を突いた。
遼は驚きのあまり、呆然とする。
腕を捻り上げているのは優樹では無い、白いワンピースの少女だった。
少女は茶髪の腕を掴んだまま少し身を屈め、優雅な動きで一回転した。茶髪は軽々と宙に浮き、勢いのまま投げ飛ばされて地面に叩き付けられると、二度バウンドする。
「……ナンだっ、てめぇっ!」
幾何学模様に剃り込みを入れた坊主頭が、少女の腰に組み付いた。だが少女は微動だにせず脇にある男の顔めがけ、左手を拳に添えた右手肘を抉る角度で叩き込む。
生卵が、割れるような音。
潰れた鼻を押さえ、血を撒き散らしながら坊主頭が仰け反る。
残る二人、ハーフアップに髭面の男と金髪五分刈りが目配せをし、頸と足下を狙って前後から飛び掛かった。
白のワンピースが、ふわりと膨らんだ刹那。頸を狙いに来た髭男の顎を、美しい回し蹴りが砕いた。間髪を入れず、低い態勢で足下にタックルしてきた金髪の頭頂に膝をめり込ませる。
蒼きキャンパスに映える、深紅の花を散らした真白のワンピース。風に乱れる銀糸の髪、褐色の肌に光彩を放つ金の瞳……。
少女の動きに驚いた遼が、我に返ってから数十秒の出来事だ。痛手を受けて動けない四人を置き去りに、リーダー格は慌てて逃げだした。
加勢する間もなかった優樹の表情には、明らかに怒りが見て取れた。なるべく暴力沙汰を避けたいと思っていたのだから、当然だ。
だが、ここで揉めるのはマズい。
急いで二十メートルほど先の二人に駆け寄ったとき。
「うぁあああっ!」
最初に投げ飛ばされた茶髪が起き上がり、叫び声を上げながら少女に向かっていくのが見えた。
手には陽光を反射し、きらめくナイフ。
身構えた少女を、優樹の反射速度が上回った。
瞬時にナイフの持ち手を手刀で払い、相手の体勢を利用した軽い突きで足下を崩す。茶髪は自らの勢いで地に転がり、安物のバタフライナイフは高く宙に舞った。
優樹はナイフを頭上で受け止め、そのまま海に投げこむ。
腰を抜かし戦意を失った茶髪は、立ち上がることが出来ずに尻でずり下がった。慌てた様子で辺りを見回すが、探す仲間は既に一人もいない。
事態の収束に安堵しながら遼は、優樹の傍らに立った。少女の行動には驚いたが、大事に至らず幸いだ。
「No injuries? You should leave it here……(怪我は無いですか? ここは離れた方が……)」
国籍が解らないため英語で話しかけた遼に少女は目も向けず、冷たい眼で茶髪を見下ろしていた。
感情を読み取れない、機械的な瞳。何か武道系の訓練をしていると思われるが、優樹の出る幕も無く男性四人を打ち倒す、高い身体能力。
観光客では、ないかもしれない。
嫌な予感がした。
「優樹……彼女には忠告した。僕たちも、ここを離れよう」
そう言って遼が少女から優樹に向き直ったとき、優樹の表情に緊張が走るのをみた。
視線の先で少女が広げた両手でバランスを取り、左足を軸足に右膝を胸の高さまで掲げている。
水鳥の、羽ばたきにも似た優雅な姿……。
少女の右足から銃弾の速度で繰り出されたサイドキックが、不安定な姿勢で立ち上がった茶髪の顔面を撃ち抜いた。
一陣、捲き起こる風と鈍い打撃音。
茶髪は後方に勢いよく転がり、地に這いつくばる。だが、その顔面にダメージは無い。
肘を引いて脇を締め、クロスさせた優樹の両腕にガードされたのだ。
「オマエは二回、ジャマをした。ナゼ? ヤツラが悪い」
少女が足を下ろし、優樹は立ち上がった
「当たり前だ。君は二度とも、この男を殺そうとしただろう?」
茶髪がナイフを構えて飛びかかったとき、そして今の蹴り。優樹は少女の殺意を感じ、あえて茶髪を庇ったのだ。
「ナカマに帰す、正しくない。テキは排除する」
少女と優樹は射程距離を保ち、互いの出方を伺いながら睨み合った。緊迫した空気が流れる。
少女は優樹の意向を無視して、まだ動けずにいる茶髪を殺すつもりだ。
意想外の展開に遼は、状況を変える方法を模索する。優樹が少女を抑えている間に、茶髪を逃がすしか手はなさそうだが……。
「リュシー…… リュシエンヌ。やめなさい」
落ち着いた低い声に呼びかけられ、少女の緊張が氷解した。声の主を探すと、先ほどまで遼たちが昼食をとっていた木陰に二人、若い外国人の男性が立っている。
恭子と距離が近いことに、優樹の注意が向けられたのが解った。
二人のうち英国風の洗練されたスーツの男性が、「敵意は無い、警戒するな」というように手の平を見せ歩み寄ってきた。
長い黒髪を一つに束ねた、二十代後半と思われる長身。ハーフリムタイプの眼鏡の奥、知性を湛えた灰色の瞳。北欧系の細い鼻梁に薄い唇。機械的な美しさの少女とは違い、整った顔立ちに優しい微笑みをたたえている。
「彼女の行き過ぎた行動を、許して欲しい。訳あって男性に対する警戒心が強いのです。助けてくれて、感謝します。そちらの彼には怪我をさせてしまったようだ……一人にしてしまったのは我々の責任。治療費を、お支払いしたい」
流暢な日本語で感謝を述べられ、遼は落ち着いて言葉を選ぶ。
「……むしろ僕たちが助けたのは、暴漢の方かもしれません。優樹の怪我は……本人も治療の必要が無いと言ってますから大丈夫です。それより、お互い早急にこの場を離れた方がいい」
怪我の話が出たとき、優樹は首を横に振った。遼も、これ以上の関わりを持つべきでは無いと判断した言葉だ。
「わかりました。では後日何か問題が起きた場合、すぐに連絡してください。誠意を尽くします」
スーツの男性は遼と優樹を順に見つめ、謝意を断られたことを残念に思ったのか短く息を吐くと、杏子の脇に張り付いていた男性に目配せをした。赤味がかったブロンドの男性は微動だにせず遼と優樹を見つめていたが、目配せと同時に杏子から離れる。
ラフな服装のためか、スーツの男より若く見えた。少女と同じ年頃かもしれない。
渡された名刺に記された肩書きを見て遼は、咄嗟にジャケットのポケットに入れた。優樹を探すと既に杏子の傍らに戻っている。
遼は軽く会釈してから、優樹と杏子のいる場所に駆け戻った。振り返るとスーツの男性は少女とブロンドの青年を伴い、公園併設の駐車場に向かうようだ。
「……面倒なことになって、悪かった」
先ほどまでの気迫を微塵も感じさせない様子で、優樹が謝った。
「うん……僕も想定外だったよ。彼女、恐ろしく強いね」
「ああ、強い……勢いを上に逃したから、この程度で済んだ。もしも真面に受けてたら、骨が砕けていたかもしれない」
そう言って優樹は、手首から肘の間が赤黒く変色している腕を遼に見せた。杏子が小さく悲鳴を上げ、バックからタオルを掴みだして水場に走る。
「それより、遼。おまえと話してた人だけど、あの女の子と金髪の男はK1選手で、そのマネージャーとか?」
「ははっ、違うよ。詳しくは聞かなかったけど……都内の高校で英語講師をしてると言ってたな。連れの二人については何も聞いていない」
「……あの金髪も、格闘系スポーツの実力者に間違いないと思う。英語講師と格闘家……変わった取り合わせだな」
少しだけ探るような優樹の言葉に遼は、わざと気付かないふりをする。
「確かに変わった取り合わせだけど、日本在住の知人がいて、夏休みだから遊びに来ただけかもしれないよ?」
「そっか、遊びに来たのなら、嫌な思いさせちゃったな」
「僕たちが心配しても仕方ないさ。だけど、杏子ちゃんを心配させた責任は取らないとね? この後のスケジュールは、お姫様最優先だ」
息を切らせ水場から戻った杏子に遼は、肩を竦めた。
「ほんっと、優樹って危なっかしいんだから! 遼くんがいない間は、アタシがしっかり見張っておくから安心してね! 危ないことなんて、絶対させないんだからっ!」
冷たいタオルを腕に当てながら息巻く杏子に、優樹も苦笑する。
「あっ、何笑ってるのよ? そもそも、なんで、あの綺麗な子に蹴られちゃうわけ? わかった! スカートの中、見ちゃって怒ったんでしょ?」
「はぁ? おまっ、何言ってんだよ! そんなん見てられる状況かよっ!」
「優樹ってば、えっち!」
「ばか、違っー!」
杏子のおかげで微妙だった空気が一瞬で変わり、遼は安堵する。
優樹を助け、守るために隠し事が増えていく。
問われれば話してしまいそうになるが、遼の中にある疑問を解き明かし、優樹を納得させることが出来るまでは苦しくとも隠し通さなくてはならない……。
これまでも杏子には、何度も助けられていた。杏子は杏子なりに、何かを感じ取っているのだろう。
胸ポケットの名刺を意識しながら遼は、言い争う杏子と優樹を宥め次の目的地へと誘った。