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雨宮の提案は、横浜校において遼を動きやすくするものだ。おかげで、学園中枢に近付く理由が出来る。
朱羅の言葉を、そのまま信じたわけではなかった。生徒会の八神享一郞や時任薫子と親しくなる事で、朱羅の真意を探る手掛かりをつかみたい。
それにしても、横浜校に来てから一週間経つが朱羅からの接触がない事に遼は、少し焦りを感じていた。
午後の一限目、数学の講義受講あと空いた時間にカフェで雨宮の頼みに応えた遼は、三限目の講義室に向かいながら考えを廻らせる。
優樹の祖父である篠宮剛士郎は、明治時代に形成された旧財閥である篠宮家当主として齢八十を越えながらも手広い分野の会社を経営する事業家だ。
相当な大物である剛志朗が、孫の友人でしかない遼に直接会って話したい事とは何だろう……?
「三限目の物理は、臨時休講になったよ」
背中に掛けられた声に驚いて遼が振り向くと、八神享一郞の無表情な面がそこにあった。綺麗にプレスされた制服姿で、脇にファイルケースを挟んでいる。
「えっ? あ、あぁ……そうなんだ。教えてくれてありがとう」
どうやら考え事をしているうちに、講義室前まで来てしまったらしい。いつもなら受講前に必ずホームページで変更確認をするのだが、雨宮の件もあって忘れていた。
「八神くんも休講を知らずに、教室まで来たんだ?」
遼は鍵の掛かったドア越しに、誰もいない講義室を覗いてから八神に笑いかける。
「違う。カフェで君を見掛けて、先日の約束通り話をしようと思ったところに雨宮が現れたから一人になるのを待っていたんだ。すると君は雨宮と別れた後、休講になった講義に向かっただろう? だから追いかけてきたんだよ。このあと予定が無ければ、少し話せるかな?」
八神は遼の笑顔に対しても表情を変える事なく、律儀に約束を持ち出してきた。
生徒会へのアプローチを考えていた遼にとって、願ってもないチャンスだ。
「僕も、君とはまた話したいと思ってた」
「それはよかった。ここで立ち話も悪いから、生徒会室まで来てくれるかい? カフェからコーヒーを届けて貰うよ」
「わかった」
遼の返事に緊張の色を感じ取ったのか、八神の目が少し優しくなった。
「心配しなくても、取って食いやしないよ」
その言葉に、思惑まで悟られたような気がして遼の全身は熱くなる。
幼い頃から遼は、行動前に綿密なシミュレーションをするタイプだ。しかし直感と直情で行動しがちな優樹と付き合うようになって、不測の事態にも動じなくなったのだが……。
雨宮から、もう少し情報を引き出してから接触するつもりが相手から先にアプローチされた上に、思っていたより堅物では無いらしく冗談まで言う。
動揺を悟られないよう努めて平静を装いながら遼は、八神と肩を並べて講義室を後にした。
互いの進路や学園生活、得意科目に苦手科目。夏期講習内容の考察、講師に対する要望から始まり、よく行く書店と好きな作家、使用している文具メーカーなど他愛の無い話をしているうちに生徒会室に到着し、勧められて遼は応接セットのソファーに腰掛けた。
タイミング良く一階のカフェからコーヒーが届いたので、八神がテーブルに置き自らも遼の向かいのソファーに腰掛ける。
遼はコーヒーをブラックで飲むのでスティックシュガーとミルクを脇に避けると、それを見た八神が少し考えるような仕草で口元に手を添えた。
「秋本くん、砂糖とミルク必要なければ僕が貰っても良いかな?」
「えっ? あっ、もちろんどうぞ」
どうやら八神は甘党のようだ。
そういえば、優樹とも同じやり取りを何度かしたなと思い出し、遼が小さく笑うと気が付いた八神が表情の無いまま首を傾けた。
「……ゴメン。僕の友人も、コーヒーに砂糖をたくさん入れるんだ。思い出したらつい……」
「その友人とは、朱羅さんの弟くんである篠宮優樹くんかな? 君とは特に親しいと聞いているよ」
コーヒーの紙カップを取ろうとした遼の手が、止まった。
一気に警戒心が湧き上がる。
「意外だな、僕は八神くんが他人に興味が無いと聞いたんだけど?」
探るように話を逸らすと、八神の口元が緩んだ。意外なほど穏やかな微笑みに、遼は戸惑う。
『笑わない生徒会長』とは、むしろ生徒達が親愛の情を込めて付けた別名であり、生徒会の職務に真面目に厳しく取り組む反面、本来は優しく思いやりのある人格者なのだろう。
しかし警戒心まで、拭い去る事は出来ない。
八神はコーヒーを口にしてから、遼を見つめた。
「それって、雨宮からの情報かい? アイツ……圭太は子供の頃から、お節介なヤツだったからな。もしかしたら、僕と友達になってくれって頼まれた?」
「……」
しばらく返答に迷ったが、真っ直ぐ向き合う方が良いと判断して遼は微笑みを返す。
「実はそうなんだ。雨宮くんは好奇心旺盛で、僕の事を何から何まで聞いてくるから少し困ってたんだけど、優樹の話をしたら特に興味を持ってね。八神くんには親しい友人がいないから、僕に友達になって欲しいと言うんだ。高校生にもなって、こんな頼み事をされるとは思ってもみなかったな。でも君さえ良ければ、ここにいる間だけでも相談相手になって欲しいと思ってる。優樹の事は、雨宮くんから聞いたんだろう?」
遼の返答に対し真顔になった八神は、右手で口元を覆った。考えるときの癖のようだ。
「僕も正直に話すよ。篠宮優樹くんについては、雨宮に聞く前から興味があったんだ。君も知っての通り、横浜校にはスポーツ特進科がある。有能な指導者と設備投資のおかげで、ほぼ全ての競技科目が県大会まで出場するけど、全国大会まで行ける競技は限られていてね。特に剣道部は神奈川県に強豪校が多いから、最近は県大会ベスト4止まりなんだ。ところが館山校は一昨年にインハイ(全国高等学校総合体育大会)初出場を果たし団体戦8位、個人戦最高4位。昨年は団体戦5位、個人戦は2位。しかし今年は……いったい、彼に何があったのかな?」
ああ、そうか。と、遼は納得した。館山校のインハイ出場は、優樹の力によるものが大きかったからだ。
横浜校の生徒会長に選ばれるような人物なら、興味を持って調べるのは当然だ。しかも叢雲学園会長と同じ、篠宮の姓を持つ生徒である。
「確かに優樹はインハイで好成績を出したから、横浜校でも有名だったんだね。でも残念ながら今年は、GWの旅行先で運悪く事故にあって怪我しちゃったから地区予選に間に合わなかったんだ」
「怪我を?」
「バイクで林道を走行中、転倒したんだ。持ち前の運動神経と頑丈な身体のおかげで打撲程度だったけど、医者から竹刀を振る許可が出なくて可哀想なくらい落ち込んでたな」
本当の理由はボクサー崩れの古物商、日下部に殴られた後遺症と秋月湖の怪異に対抗した精神的ダメージだが、八神相手に話す事ではなかった。
「そう……今年は個人優勝を期待してたのに、本当に残念だよ」
心の底から残念そうに呟いた八神に、遼は少なからず好感を抱いた。
雨宮も八神も、学業やスポーツに真面目に取り組む普通の高校生だ。少し過剰に警戒しすぎたのかもしれない。
交換留学生二人とアレクセイの動向は気になるが、本来の目的は朱羅が意味ありげに伝えてきた優樹の情報である。篠宮会長と会って話を聞く事を第一に考え、他の事は臨機応変に対応すれば良いだろう。
優秀な講師から受けられる夏期講習も、有意義に利用したかった。
その後、八神の話題は優樹に触れる事は無く、横浜校で近く開催される「朱雀祭」に移った。
「興味の無い生徒も多いけど、実は横浜校は館山校の後に創られたんだ。館山校は明治の中期に篠宮義典が設立した尋常中学校が始まりで、横浜校は篠宮氏の姉である篠宮星華さんが後から設立した高等女学校が始まりだ。朱雀校という別名は、館山校を青龍校と名付けた義典氏に習ったそうだよ。二校は結構、ライバル意識が強くて、昭和の初期は学園祭や体育祭で派手に競っていたらしい」
学習棟の生徒会室に行く途中、隣の図書館棟入り口近くに小型工事車両が何台か駐まっていた。その時は設備工事かと思ったが、話の流れからすると学園祭の準備なのだろう。
八神の話を聞きながら遼は、冷えたコーヒーを飲み干しカップをテーブルに置いた。
「学園の成り立ちなんて入学パンフレットで読んだくらいだから、詳しく知ろうとも思わなかったな。それで館山校は青龍祭、横浜校は朱雀祭なのか……開催日は館山校より早いと思ったけど、いつからなの?」
「毎年、九月の第一週目の金曜日、前夜祭から始まるんだ。今年は第一週目の土曜日が九月一日のため、八月三一日の金曜日が前夜祭。夏期講習は三一日が最終日だろ? どうせなら学園祭を楽しんでいくと良い。いま、使ってもらっている学生寮の個室は日曜日までいられるように手続きしておいたからね」
館山校の学園祭は九月の二週目だ。朱雀校の文化祭など、この先訪れる機会も無いので土産話に見ていくのも悪くない。
「ありがとう、お言葉に甘えて少し学園祭を見て帰ることにするよ。新学期の準備もあるから、土曜日の夕方に発つことにする」
「そうしたらいい。あぁ、ちょうど、図書館棟のエントランスで朱雀祭のオブジェ組み立てが始まっているはずだから、一緒に見に行かないか?」
「朱雀祭のオブジェ?」
「館山校は正門を青龍のオブジェで飾るだろう? 昨年、朱羅さんと一緒に青龍祭を訪れたとき見たけど、素晴らしい出来だったな。我が校は毎年、美術部監修のもとで外部に製作を頼むんだ。だから学生だけで製作されたオブジェには感動したよ」
昨年の青龍祭オブジェは、近来まれに見る最高傑作だと賞賛されている。製作総指揮が当時の美術部部長、来栖弘海というのが遼にとって少々複雑な気分だが……。
八神は遼と連れだって、図書館棟のエントランスに降りた。学習棟と繋がる広々とした吹き抜けのエントランス中央には高さ一メートルほどの台座が設置され、鉄パイプで足場が組まれている。十メートル四方はありそうな足場の中央に、大きく羽を広げた美しい緋色の神鳥。
長く伸びた首の先、天を突く鋭い嘴。黄金に輝く冠羽、孔雀のように鮮やかな尾羽。
「すごい……綺麗だ」
嘆息する遼に、八神が説明する。
「このオブジェを見るためだけに、朱雀祭を訪れる人もいるんだよ。完成して足場が外れたら、ライトアップでもっと神々しい……」
しかし急に言葉が途切れ、オブジェを見上げていた遼は視線を戻した。
親しみのある表情が消え、真顔になった八神の見つめる先に一人の女性が立っている。
「あら、珍しい顔ぶれね? 秋本くんと、八神くん……二人とも、いつの間に親しくなったの?」
深いワインレッド色のカジュアルスーツ、腰まである艶やかな黒髪、透明感のある白磁の肌。意志の強そうな瞳と、凛と整った眉の美女。
篠宮朱羅は微笑みを浮かべ、二人に歩み寄る。
その姿はまるで、朱雀の化身のようだった。




