〔1〕
ぬけるような青空は、梅雨の終わりを告げていた。
紺碧に塗りつぶされたキャンバスを、四角く切り取るようにそびえ建つ赤銅色のレンガ建造物。
『横浜赤レンガ倉庫』
神奈川県横浜港にある歴史的建造物の付近一帯は、広場と公園を備えた『赤レンガパーク』として『横浜みなとみらい』地区の代表的な観光施設となっていた。
「遼! 良い天気だし、昼飯はテイクアウトして外で食べないか? 海が見える場所が良いな」
レストラン、雑貨店舗などが入った2号館倉庫の入り口で、背の高い快活そうな肌色の少年が、隣で観光ガイドに目を落とす優しい雰囲気の少年に声を掛けた。
「優樹は真冬でもテラス席を取ろうとするくらい屋外派だからね。僕は、どっちでも良いけど……」
秋本遼は、友人である篠宮優樹に呼びかけられ笑いながら読んでいた観光ガイドを閉じる。
倉庫群の先、広く開けた公園に面した海から吹く気持ちの良い風が、遼の柔らかな栗色の髪を乱した。日差しは強いが、憩いの場に用意された木陰のベンチから海を眺め昼食を取るのも悪くない。
「ええっ? 日焼けしそうだから、お店のテラス席がいいなぁ」
一足先に建物入り口で、テナント案内板を物色していた少女が振り返り口を尖らせると、優樹はその頭越しに案内板を指さした。
「俺はこの、ハンバーガーショップがいいな。杏子の好きなアボガドのバーガーもあるみたいだし。決まりっ!」
頭上にある腕を払いのけるように、田村杏子はポニーテールにした髪を振り回す。
「もうっ、いつも優樹は独断専行なんだからっ! 人の意見も尊重してよね! 遼くんも、そう思うでしょ?」
二人から同意を求められ遼は、困り顔で溜息を吐いた。
優樹と、その従妹で一学年下の杏子は、仲の良さから遠慮無い物言いをする。今日も朝から何度、仲裁役をしたことだろう。
「最初に優樹が中華街で食べ歩きしたいと言ったけど、杏子ちゃんの希望優先で元町に行ったよね? だからここは、優樹の意見をきいてあげたら? 公園には屋根付きの休憩スペースと、木陰もたくさんあるよ?」
「まぁ……遼くんが、そういうなら譲ってやっても良いけど」
「うわっ、なんだよその、上から目線! 可愛くねぇ!」
「可愛くなくて結構です! だいたい優樹は、食べる事しか頭にないって言うか……」
「よく言うよ! おまえの買い物が長くてだなぁ……!」
二人のやりとりを無視して遼は、ショップのオーダー・カウンターに向かった。
私立叢雲学園高等部・館山校三年の夏休み。
本校である横浜校で明日から開講される夏期講習を受講するため遼は、準備と観光を兼ねて仲の良い友人達と朝早くから現地を訪れていた。
学園では学生寮で生活しているため、保護者代わりに世話になっているのが両親の友人でペンション経営者の田村氏だ。その田村氏の娘である杏子が同行して横浜観光すると言い出したため、帰りが一人になっては心配だと過保護の父親が懇願し、遼の友人で杏子の従兄に当たる優樹が渋々付いてきたのだ。
学園の友人関係には受講理由を、難関国立大学医学部受験のためと説明したが、本当の理由は別にあった。
ある人物と会うための、口実……。
遼に、この提案が持ち込まれた経緯は、考えてみれば必然だったのかもしれない。
今年の春、遼と優樹は卒業した部活の先輩から、GWを利用して信州の高原に遊びに行こうと誘われた。本格的な受験体制に入る前に、親しい友人達と旅行を楽しもうと気軽な気持ちで参加したが訪れた先で、ある事件に巻き込まれた。(魄王丸編参照)
その事件は、遼と優樹の関係に大きな変化をもたらしたのだ……。
遼の知らない、優樹の秘密。
曖昧にしておけば遠くない未来に、深刻な事態を招く気がした。
だがどうすれば、真実に近付くことが出来るのだろう? 本人でさえ、自身の変化に戸惑いを感じているのに……。
事件後、優樹と会えないままGW休み明けに登校した遼は、事件の説明を担任教師に求められ向かった職員室の手前で意外な人物と対面した。
「ごめんなさい……先生に、お願いして私が貴方を呼んで貰ったの」
そう言って微笑んだ女性の美しさに圧倒され、遼は息を飲む。
「あの、もしかして優樹の……?」
「ええ、姉の篠宮朱羅です。会うのは二度目かしらね? 秋本遼くん」
ようやく絞り出した遼の問いに、朱羅は右手を差し出した。ビジネス形式の挨拶に躊躇いながらも遼は、差し出された手を握り返す。
優樹が語りたがらないため詳しいことは知らないが、一学年上だと聞いているので現在は大学生だろうか?
紺のカジュアルスーツ、腰まである艶やかな黒髪、透明感のある白磁の肌。
身長が遼より低いため、少し顎を上げて意志の強そうな瞳を真っ直ぐ遼に向けていた。切れ長の目尻と、凛と整った眉の形が優樹に似ている。
昨年の秋、青龍祭にゲストとして訪れた姿を離れたところから見掛けたが、遼を知っているとは思わなかった。
「僕に、何か用でしょうか?」
警戒しながら、慎重に朱羅を観察する。
旅行中、優樹が吐露した凄絶な過去を思い出したからだ。
死の淵から目覚めることの無い母。優樹が生まれる直前、半ば強制的に父方の祖父が連れて行き、共に暮らした記憶の無い姉。
その姉である朱羅が遼に用があるとすれば、優樹に関わる事に違いない。
朱羅は、職員室を仕切って併設された応接室に遼を招いた。教師達の反応を伺うと、その様子からは畏怖の念を感じ取れる。学園にとって朱羅の立場は、かなり高いらしい。
「私はまだ大学生だけど、学校法人叢雲学園理事の一人でもあるの。いま貴方は、私の大切な客人。楽にしてね?」
応接セットに座り、居心地悪そうに身じろぐ遼に朱羅が笑った。
叢雲学園を運営している学校法人代表理事長が、優樹の祖父であることは知っていた。しかし年の若い朱羅を理事の一人にするのは、身内贔屓ではなく有能な人材だからだろう。
優しい笑顔だ。
学園祭で見掛けたときは、きつい印象を受けた。その時、遼と一緒にいた優樹に理由があっての事か? 遼に対して柔らかな印象なのは何か、意図するところがあるのか?
「まるで、親の敵を見るような恐い顔ね? 心配しなくて良いわ、今日は貴方の知りたいことを教えてあげるために来たの。もう、察してると思うけど優樹の事よ?」
予想していたはずが、言葉にされた途端に狼狽えた。
知りたい、だが知りたくないとも思う矛盾。
優樹の真実を知り、助けようと決意したはずだ。怖れるな。
「秋本くんの事、色々調べさせて貰ったわ。お姉さんの件は、本当に申し訳なかったと思っています。学園を代表して、改めて謝罪します」
数年前から行方不明だった学園の生徒で、遼の姉である榊原江里香が美術室の石膏像から死体となって発見された事件。(青龍編・参照)
犯人も解り事件が終わりを迎えたあと、学園側が「当学園にも責任の一端がある」と、遺族に多額の見舞金支払いを申し出た。
事件の経緯から両親は辞退したと聞いているが、学園側の誠意と配慮には遼も感謝している。
「姉の件ではむしろ、こちらの方が御迷惑おかけしました……。ところで何故、優樹のことで僕を呼び出したんですか?」
遼が問いかけると柔和だった朱羅の表情が突然、冷たく厳しいものに変わった。
「あなたと優樹が五月に旅行で訪れた『秋月湖』で、何があったか知っているわ。そして彼を……優樹を守るためには、貴方が必要だと言うことも」
「優樹を……守る?」
何を言われているのか解らず眉根を寄せた遼の前に、朱羅は一枚のプリントを差し出した。
「私が話せることは限られているの。だから、お爺さまに直接会って欲しいのよ。横浜本校で開講する夏期講習に、成績優秀者として招待します。期間は四十日、受講料は無料、宿泊先も用意しました。あなたの志望する大学受験のためにも良い提案だと思うわ? お爺さまの件、優樹には内密にしておきたいの」
「お爺さん……篠宮理事長が原因で、優樹の母親は死を選んだと聞いています。幸い、一命を取り留め、今は……」
「 ええ、入院費用を負担しているのは、お爺さまよ。でもね、これだけは私から話しておくけど……」
朱羅は、意味ありげに微笑む。
「お母様と優樹を追い詰めたのは、お爺さまでは無いわ。 本当の敵は、別にいる」
本当の敵?
敵とはなんだ? 朱羅の言葉の意味を図りかね、遼は呆然とした。
優樹の祖父に会えば、解るのだろうか?
『守る』とは、何から守ると言うことなのだろう?
わざわざ朱羅が、会見の提案準備をして訪れたのだ。真実を知ることから、逃げるわけにはいかない。
提案を受け入れ遼は、横浜に来た。
「遼くん? 遼くんっ! 考え事?」
杏子に声を掛けられ、、遼は我に返った。
「うん、風が気持ちよすぎて、こんな風に寛ぐ気分は久しぶりだから」
遼と優樹、杏子の三人は赤レンガ倉庫から埠頭が見渡せる海際の公園に移動し、木陰のベンチで昼食を取っていた。水分を含んだ海風は穏やかで、夏の日差しに火照った身体を程よく冷やしてくれる。
太陽光を反射しながら真っ白な観光クルーザーが、細かな波を引きながら埠頭に滑り込んでいった。
「そっか……遼くん、明日から夏期講習だもんね。しかも横浜校の男子寮で一ヶ月、遊ぶ暇なんて無いんでしょ? 行きたい大学が決まってない優樹と違って、志が高いなぁ!」
からかうような口調に、芝生でダブルサイズのハンバーガーを平らげていた優樹が顔を上げた。
「……っつ! 痛いところ突くなよ、杏子。俺は海に出られる学校がいいなぁ……海上保安大とかあればいいのに」
公園の向こう、海上保安資料館と大きく描かれた建物を眺め呟いた優樹を、遼は呆れた顔で見返した。
「あるよ? 知らなかったの?」
「え? マジ?」
「そうだな……優樹の偏差値だとギリギリかな? 一緒に夏期講習受けたら、合格確率上がると思うけど?」
「……横浜校には、行けない」
優樹の表情がくもる。
やはり根の深いところで優樹は、祖父との関わりを避けようとしているのだろう。朱羅の提案は、正しかった。
話題を変えるため、遼が言葉を探しているとき。隣でオレンジジュースを飲んでいた杏子がベンチにカップを置き、立ち上がった。
「ねぇ……二人とも、見て!」
杏子が指さした方向に目をやると、外国人観光客らしき若い女性が粗暴な風体の男数人に囲まれていた。
その中の一人が腕を掴み、女性が強く振り払う。逃げようとする方向に別の男が立ち塞がり、腰に手を回そうとして激しく叩かれた。
離れたところから見ていても、男達の気軽なナンパ気分が暴力的衝動に変わった事が解る。助けてくれそうな大人は、近くにいなかった。
「遼……」
優樹の意思は、止められない。
「わかってる。だけど、やりすぎはダメだ」
「大丈夫、心配するな」
集団から目を離さず、優樹が立ち上がった。