この世界のこと
鼻腔をくすぐる甘い香り。それは卓上の白い陶器のティーカップから漂ってくる。
響は楕円形の木目調のテーブルを挟んで空色の髪の少女ユニと対面する形で椅子に腰かけている。
数分前の出会いからここまでの展開を誰が予想しただろうか。少なくとも響には想像も出来なかったことだ。何せ死を覚悟し、そうでなくとも通報されることもやむなしとすら思っていたのだから。
まだ今置かれている状況について半信半疑な響だが、この際に出来るだけ情報を集めたいと思い質問の場を設けてもらったのだ。もちろんそれはユニの好意によるものだが。
湯気の立つカップを持ち上げると、中には黄金色の液体が注がれており、口に含むと少しの苦みと細やかな甘み、ミントのような爽やかな香りが鼻から抜ける。
「あっ、これおいしい」
それを聞くとユニは顔を綻ばせる。もしかしたら口に合うか不安だったのかもしれない。
さっきまでの焦りや緊張は何処へやら。響は不思議なくらい落ち着いた気持ちになっていた。これもこのお茶の効能だろうか。
二口目でカップの紅茶を飲み干し、軽く息を吐く。そして響は気を取り直して話を切り出す。
「で、本題なんだけど。このアトワールっていうのは国か何かなの?」
「いえ、国ではありません。ヴィオラさんが統治する大陸では中規模の街です」
「ヴィオラさん?」
「ヴィオラ・クロリア・ノーマンス様。大陸有数の貴族ノーマンス家の御令嬢にして、現在アトワールを治めている第二十二代目の領主様です」
ユニはふと立ち上がり、隣の部屋へ消えること数分後。
「これを見てください」
ユニは隣の部屋から筒状に丸められた古めかしい紙と薄い灰色のハードカバーの本を持って現れ、その紙を机の上で広げる。
それはかなり年季の入った世界地図。しかしその陸地の形状は未だかつて見たことのないものだった。横に長い長方形のようで、一見ユーラシア大陸にも見えなくはない。その周りに小さい陸地はあるものの国名などは何も書かれてはいない。書かれていても読めないのだが。
そして、ユニが大陸の一点を指さす。
「ここがアトワールです」
地図で見るとアトワールは大陸の中心より少し南西に位置していた。そして中央には赤く印がされていた。
「ここって、何があるの?」
「王都アジールです。大陸の中枢で、神々の住まう地と言われています」
「神って、あの神……?」
「あの神かどうかは分かりませんが、多分そうだと思いますよ」
異世界だからといって必ず神が登場するとは限らない。これはアニメやゲームでもいえることで、RPGもののセオリーでもある。
しかし彼女は響の現実世界では崇拝の対象でしかなかった神が住まう地があると言う。
「ってことは、王都に行けば神に会えるの?」
響には神の姿が如何なるものかも想像出来なかった。
アニメや漫画、イラストで人型や獣、全く別の異形のものなど描かれ方は多岐に渡り、その数も挙げだしたらキリがない程だ。それは神という存在を誰も見たことがないからであり、想像するしかなかったからだ。
しかし王都に行けばそんな馬鹿げた空想ごっこはもう必要ない。そのものを拝めるのだから。
少々興奮気味な響にユニは申し訳なさげに言う。
「えっと、残念ながらそれは無理だと思います」
「えっ、でも今神が住まう地って……」
「確かに神の住まう地と呼ばれていますが、それは遥か昔の話で今はいないんです」
ユニはハードカバーの本を開くと、この大陸の太古よりの歴史が記された史実を掻い摘んで語ってくれた。
「神はこの世界の遥か彼方の地天界なる楽園に住まい、太古より下界に恩恵を与えることのみで干渉してきました。しかし暗黒大陸より襲来した魔族の軍団と迎え撃つべく天界より降り立った神々による聖戦が起こりました。聖戦は神々の勝利で終わりましたがそれからは魔族の襲撃に備えるため神官と呼ばれる十二の神が王都に駐屯していたようで、そこに暇を持て余した一部の神が主神の目を盗み神官と共に下界へと下ったと記されています。それからは神を頭に据えている街なんかも少なくなかったようですね」
魔王軍の襲来に聖戦。まさにファンタジーもののド定番展開じゃないか。だがそれだと話に矛盾が生じてしまう。
「でもそれだと神が下界に定住したってことになるんじゃ?」
「確かに数百年の間神々は下界に君臨していたのですが、魔族の危機は去ったと判断した主神は神官と共に他の神にも天界に帰るようにと命を下したそうです」
つまり危機的な状況以外は神が地上にいることは何かしらの不都合を招くと。そしてまとめるとここは神が太古には存在した世界。
「ちなみに今この世界で最も権力を持っているのは神じゃないなら王様とか貴族ってこと?」
「いえ、最も権力を握っているのは神の血を引く一族。【神血族】です」
「神の血を引く一族、コウケツゾク……?」
何だかどこかの暴走族のような響き。派手なバイクで夜な夜な爆音を轟かせながら、はた迷惑な自己主張を続けていそうだなと思ってしまう響。
そんなことを知る由もないユニは続ける。
「神が天界に帰した後に現れた神の血を引くという九人の者たち、その総称です。彼らは生まれつき人並み外れた魔力を備えていて、その力は一騎当千。その力を持って貴族をも従え、権力を確固たるものにしたと」
つまり現在この世界の頂には神の末裔である神血族が君臨している。
響には神血族が如何なるものか予想もつかないが、今置かれているこの状況を解決出来るのは人知を超越した力を有する者しかないことだけは分かる。
「どうかしましたか?」
「えっと、神血族に会うには王都に行かないといけないんだよね?」
「いえ、確かに王都には三人の神血族が君臨していると聞きますが、あとの六人は大陸の何処かの街を統治していたり、消息不明の御方もおられるとか。私はこの街から出たことがないので詳しくはないんですけど、近くでも照姫と呼ばれる方が治める町があるという噂は聞いたことがあります。でも仮に噂が本当だとして、私達みたいな平民が神血族と面会するのはかなり難しいかと」
「まあそりゃ得体の知れない人間がが訪ねたところで門前払いは避けられないよな……」
考えるまでもなかったが神の血を引く人間ということは現代でいうところの天皇に最も近い存在ということになる。そんな要人においそれと接触出来るようなガバガバな警備体制なはずがないのだ。まあ神血族のスペックからすれば警護も必要ないのかもしれないが。
だからといってこのまま手をこまねいている訳にもいかない。
ダメで元々。噂に振り回されるのは御免だし、王都アジールの王城に坐するという神血族を訪ねるのが無謀でも一番の近道なのかもしれない。そう考えるとすぐに行動に起こすしかない。
「ユニ、ここからアジールまで歩いてどれくらいかかるのかな?」
「そうですね。徒歩だと半月ほどあれば着くと思います」
「半月!? ちなみに他に移動手段とかあったりは……」
「王都行きの馬車が十日に一度、それなら十一日ほどで着きます。それ以外は空間術の使える魔道師がいれば転移魔法で一っ飛びなんですけど」
そんな超人がいるなら鬼に金棒だ。だが、ユニの言い方だと続きがあるような……。
「残念ながらアトワールには空間術が使える魔道師はいなかったはずです」
「そう、なんだ……」
つまり最短でも十一日はかかってしまう。今の状況下では途方もないほどの時間だ。それに響にはまだ気になる事があった。
「馬車ってことは当然お金がかかるよね。幾らくらいなんだろう?」
響の手持ちはかなり心もとない。あと流れから嫌な予感もしている。響は祈るようにユニの言葉を待つが。
「そうですね。私はこの街から出たことがないので馬車にあまり詳しくはないんですけど、おそらく四千レスタくらいは掛かると思いますよ」
「レスタ……」
ヤバいな。まさか的中してしまうとは……。
響の予想は悪い意味で的中した。言葉も通じたし通貨も同じなんて考えはいくらなんでも浅はか過ぎるだろう。
第一に響が普段使っている通貨は日本銀行が発行する紙幣と日本政府が発行する貨幣。なら日本という国を知らない時点で使えるはずがないのだ。
響は未練がましくポケッットに入った財布にポケットの上から触れ、考える。この街で円は両替出来るのだろうか。レートはどの位なのだろうかと。無駄だと分かっていながらも。
その悲壮感がユニにまで伝わったのか。
「もしかして、お金がないんですか? 倒れている間に引っ手繰られたとか」
「い、いや……。お金はあるんだけど、日本の、ね……」
響は右のポケットから愛用の黒い長財布を取り出し、入っていた小銭の中で最も高価な五百円玉をユニの前に差し出す。それを少女は興味深そうに覗き込む。
「これがニホンのお金ですか。かなり精巧に作られていてまるで金貨のようにも見えますが、確かに見たことのない硬化ですね。お困りなら私が工面してあげたいと言いたいところなのですが……」
少し渋い表情を浮かべるユニ。つまりそれほどに四千レスタは大金なのだろう。
「いやいや、そんな悪いよ。倒れてる所を介抱していろいろ教えてもらって、その上お金までなんて流石に甘え過ぎだし、人が良いにも程があるって」
響はこれ以上この少女に甘えるわけにはいかないと思う反面、初対面の相手にここまで出来るユニという少女が不思議でならなかった。
もし響が道で倒れている外国人(かろうじて意思疎通できることが前提)を発見したら、救急車は呼ぶもののそこまで優しく介抱できる自信はない。道を聞かれたら教えはするものの、言葉で伝わらなかったとしてもその場所まで連れて行ってあげられるかは分からない。お金に困っていると言われたならまず怪しいと疑い、すぐさまその場から離れてしまうかもしれない。貸すなんてことは考えもしないだろう。
響自身極端な例かもしれないが、ユニほどの神対応が出来る人は世界を探してもそうは見つからないだろうと思うし、逆にそこが危うくも思えてくるのは仕方のないことだとも思う。
「そうですか? 困ってる人を助けるのは当然の事だと思いますよ。ヒビキさんみたいな旅人の方はよく見かけますから。それに、私はヒビキさんが悪い人ではないと信じてますから」
響は何だか気恥ずかしくなり、話を逸らす。
「そういえば疑問だったんだけど、ユニはどうして僕を旅人だと思ったの?」
これは響の単純な疑問だった。自分の身なりから旅人を彷彿とさせるものは何一つ(荷物を詰める鞄すら)ないのだから。
「確証はありませんでした。でもヒビキさんは恰好からして生活に困らないだけのお金を持っている方だと思ったんです。最初は王都の貴族に従ずる方かと思って少し焦ったんですよ」
そう言うとユニは少し恥ずかしそうに笑った。
「貴族に従ずる……?」
もしかして貴族に恩を売って、見返りを期待しているとか……。
そこまで考えて響は頭を左右に振り、目の前の少女を少しでも疑いそうになった自分自身を恥じた。ユニは見ず知らずの自分にここまで親切にしてくれているのだ。万に一つでも危険がないとは言い切れないが、こんな状況でくらいせめてこの少女だけは信じようと響は心に決めていた。
改めて響は自分の体に視線を落とす。ユニが高貴な育ちと勘違いしたのは服装らしいが、身を包むのは半袖の白シャツに黒スラックスという志知仁中学の夏制服。昨日寝落ちしてしまい着替え損ね、夜道で得体の知れない者に襲われた時の恰好そのまま(血の跡はないが)だった。つまりフォーマルな格好というのは貴族の特権なのか、それともこの制服がよほど高価に見えるか。
ポケットを探ると右は財布が入っていたためすでに空で、左はスマートフォン、いつもお守り代わりに持ち歩いているアメジストと水晶のキーホルダーが出てくるだけだった。
そこでふっと思いついたように一縷の希望を抱き、響はスマートフォンの電源を入れるが夜道でも見た『圏外』という文字が外部との連絡手段はもうないのだと辛辣に告げていた。
まあ、外の風景からして基地局なんかもないだろうしな。
「ヒビキさん、それは何ですか?」
興味深そうに訊いてくるユニに響はどう説明したものかと考え、最低限のことだけ伝えることにする。実は響もあまりメカに詳しい方ではないのだ。
「これはスマホっていって、遠くの人と連絡を取るためのツール……からくり装置だよ」
「遠方との連絡手段。魔法鏡みたいなものでしょうか」
ユニ曰く、魔法鏡というのは魔力を注ぐことによって遠方の魔法鏡に映るものを映像として映し出す魔法道具で、遠方の村や街との連絡手段として使われているらしい。かなりの高級品で普及はしていないが、この街にも領主の館にはあるのだとか。
「それにしてもヒビキさんの髪って珍しい色をしてますよね。漆黒の髪なんて滅多にお目に掛かれないですよ」
「そうなんだ。僕の国だと皆が黒髪なんだけどな。まあ、お洒落で染めてるようなリア充達もいるけど」
「リアジュウ……?」
響は危うくどうでもいい日本の略語を教えてしまいそうになり、急いで話題を変える。
「そういえば僕は十五歳なんだけど、もしかして年上だったなんてことあったりする……しますか?」
「どうしてですか?」
突然語尾が定まらなくなる響を見て、ユニは不思議そうに訊く。
「いや、意外に見た目によらずとかあるし、ずっと同い年くらいの感覚で話してたけどもし違ってたら、ずっとタメ口だったから失礼に当たるかなって……思いまして」
見たとこユニは響と同い年かそれよりも少し幼く見える。だが童顔だと年齢を推測するのは難しいし、何より異世界ではその常識が通じない可能性もある。
神がいる世界なのだからエルフがいたってなんら不思議ではない。エルフは永遠に近い寿命を持ち、老いず見た目も変わらぬもの。これは全てファンタジー小説や漫画の設定からつけた知識だが、これが間違いの可能性だって大いにある。エルフは美しく若々しい外見で、耳が長いというのもデマの可能性が高くなる。それはつまり今の響にエルフを識別することが困難になるということでもある。
ユニの性格からしてそんな些細なことは気にしない質なのかもしれないが、だかといって蔑ろにしていいという道理はない。それに響は意外と小さいことを気にしてしまう性格なのだ。
不安そうな響を気にかけたのか、ユニは優しく微笑みながら告げる。
「私の歳は十四、来月で成人になります。なので今まで通り砕けた話し方で大丈夫ですよ」
響が十五歳だから一つ年下という事になり、ひとまず安堵する。ちなみに来月には十五歳になるのなら実質は同い年になるわけだが。
しかしユニが来月で成人ということは、この世界では十五歳で成人と認められるという事だろうか。そうなるとこちらの常識では響は成人という事になり、様々な責任も伴うのかもしれない。そこら辺の常識の違いも覚えておかなければならないだろう。
そこでものはついでとずっと気になっていたことを口にする。
「そういえばさっき魔道師がいるって言ってたけど、つまり魔法が存在するってことだよね?」
「驚きました、本当に何も知らないのですね」
「お恥ずかしながら……」
恥ずかし気に頭を掻く響にユニは嫌な素振り一つせず言う。
「魔法とは魔力を運用して起こす現象の総称です。魔法の根源となる魔力は人や生命のあるものには必ず宿っている生命力のようなもので、個体差はありますがヒビキさんにも魔法は使えるはずですよ」
ま、まじか……。ここに来て、やっとチュートリアルっぽくなって来たかも。
もしユニの話が本当だとしたら全人類は魔力を持ってはいるものの、使い方が分からないせいで魔法という奇跡の現象をフィクションの中に閉じ込めてしまっているという事になる。その話がこの世界のことに限ったことでなければだが。
響はここまでの話に多少興奮したりする場面もあったものの、依然として脳内は半信半疑として処理していた。こんな非現実的なことに大マジになるなんて馬鹿げている。そうでなければ悪夢か。
しかし目にした事実は窓から見たカラフルな髪の歩行者と馬車、二足歩行のトカゲ、そして現実離れした美しさで異彩を放つユニ。その少女は至って真剣に到底ありえないこの世界の歴史を語ってくれた。
これだけの条件が揃えばいくら疑り深い響といえど認めずにはいられない。そして全てを受け止め、これからの事を考えていかなくてはならない。
だが、響は一つこの目で見届けたいことがあった。考えるのはそれからでも遅くはないはずだ。
「さっき魔法は誰にでも使えるって言ってたけど、それを見せてもらう事って出来ないかな」
「えっと、それは私がお見せするってことですか?」
一瞬ユニの顔が曇る。響は地雷を踏んだかと思ったが、そんな暇を与えることなくすぐにユニが口を開く。
「さっきは誰にでも魔力は流れていると説明しましたが、例外はいるんです。私のように。理由は解っていませんが、そんな私には魔力を必須とする魔法は使えないんです」
「そう、なんだ……」
つまりは特異体質ってやつだろうか……。
響は肩を落とす。今の頼みはシンプルに好奇心から来たもので、単なるわがままだ。だから断られても仕方のないこと。
しかし響の落胆に気付いたユニは少し考え込む仕草を見せる。そして、おずおずと提案する。
「そんなに見たいのでしたら少し原理は違いますが、精霊術でも構わないならお見せできますよ」
「精霊術?」
「はい。魔法が体を流れる魔力を根源としているのに対し、精霊術は大気中に漂う精霊たちの霊力を使用します。霊力は地脈を流れているので、土地によって霊力が少ない所もあったりするので魔法のように安定した運用は難しいですが、魔法を使えない私には心強い隠し玉なんです」
「そんな秘技みたいなものを見せてもらってもいいの?」
「そんな大層なものじゃないですよ。私が使えるのは初歩的なものばかりで、護身術程度にしかなりません」
異世界の方が危険なことは多いはずだ、それもユニのように華奢な少女なら尚更のこと。でも魔法があれば筋力や体格差に関わらず屈強な者たちにも立ち向かえる。これは最強の護身術になること間違いなし。悪用されなければ、だが。
ユニからの提案に自分から言い出した手前そう言われては断る理由もなく、響はお言葉に甘えることにした。
「ここでは少々狭いので、場所を移しましょうか」




