表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/24

見慣れた世界、そして

 ありふれた日常に満足出来なくなったのはいつからだろうか。

 幼い頃は青い空、見慣れた通学路、その日の夕食の献立などの些細なことが輝いて見えたものである。

 しかし時が経つにつれ人はいろいろな経験をする。その度成長することもあるだろう。だが皆がその限りではない。世間、人間社会に馴染めなかった者、そういった社会不適合者は人間として劣化し、腐敗してゆく。

 そして、僕もその中の一人……。


 越智響は現在中学校に通う三年生。

 日が傾き始め、朱に染まる歩き慣れた通学路を気だるげに歩いていた。

 それもそのはず、今は夏休み真っ只中。普通ならば夏を満喫している頃であろう。実際に学校からの道すがら何人見覚えのある顔に出くわしたことか。相手も気づいていなかったし、こっちもいちいち話しかけるなんて無粋ことはしない。

 響が夏休みにも関わらずわざわざ学校に足を運ばなくてはならない理由は単純で、つまりは進路のことだった。

 今年三年生、つまりは来年高校に進学するために受験をしなくてはいけない。その準備段階として学年が上がってから徐々に受験する学校を考え始めなくてはならないのだが、響は夏休みに入った今でも進路が何も決まっていなかった。

 響は学年でも平均より上の成績を常に取っており、学力の面では選択にそこまで困るような事はない。しかし、響の問題はそこではないのだ。簡単に言ってしまうと人間関係だった。

 響は幼い頃は人懐っこい性格で、年上だろうが女子だろうが躊躇なく会話を楽しむことが出来る柔軟的(アクティブ)な子供だった。家族の間では少しおしゃべりが過ぎて、少々鬱陶しいとすら言われたものだった。

 それから月日は流れ、明る過ぎるとまで言われた性格は今では身を隠し、人を避けるようになっていた。人が嫌いになったのかと聞かれれば、それは否だ。だが昔のように深く他人と関わる事が怖くなってしまっていた。

 その原因となった出来事があったのは、確か小学生の高学年の頃だったろうか……。


「響っ!! 今帰り?」


 突然の聞き覚えのある声と同時に背中を強い衝撃と痛みが走る。その瞬間、響の思考は無慈悲にも中断され、意識が現実に引き戻される。

 背中では確認することは出来ないが、鏡で見れば見事な季節外れの紅葉が咲いていることだろう(背中に赤い手形がくっきり残っていることを背中に紅葉が咲くというのだ)。

「痛っ!! おい馨、お前今日の練習は昼までじゃなかったのか!?」

 振り返るとそこには、髪の毛をポニーテールに結い、志知(しち)(じん)中学校の夏用体操服の上に紺色のジャージを羽織った少女。響の妹こと越智馨が悪戯っぽい笑みを浮かべ立っていた。右肩にエナメルバックを下げ、左肩には竹刀袋を担いでいる。

 馨は幼い頃から地域の剣道会に入っていて徐々に頭角を現し始めていた。今は志知仁中学の剣道部に所属しており、一年生にして総体の団体戦と個人戦のメンバー入りが有力視されている期待の新人だ。そのため夏休みも関係なく(むしろ学校がない分みっちり)練習中だったのだ。そういえば夏休み終盤には合宿もあるらしい。

「そうだったんだけど、竹刀と防具の手入れもしないといけなかったから、態々時間潰して待っててあげたの!」

 えっへんと胸を張ると結い上げた尻尾が跳ねる。張られた胸の体操服がかなり大きく左右に引っ張られているのがよく分かる。同い年の女子と比べても断トツで発育が良いと自慢していただけのことはあると感心しつつ、反射的に生唾を呑む。

 もちろん実の妹に発情などしたりはしない(これはマジで!!)のだが、こんなものそうは拝めるものではないからと言い訳しつつ目線が逸らせない響なのであった。

「一応兄としては、上目遣いで『お兄ちゃん』とか呼んでくれると感動ものなんだけどな」

 アニメや漫画などでしか見たことのない、現実では到底ありえないとされる展開を軽く冗談めかして言うと、馨は気味の悪い笑顔を浮かべて擦り寄ってくる。

「えっ、呼んで欲しい? 呼んで欲しいの? ねぇねぇ〜」

「そうだな、もっとおしとやかで従順な妹になら呼んで欲しいかな」

「え~、ここにこんなに可愛い美少女がいるんだから、認めなよ。本当は呼んで欲しいんでしょ? ねぇってばぁ〜」

 かなりしつこく煽ってくる馨を鬱陶し気に牽制しながら、いつものようなどうでもいい雑談が展開していく。この時間が響はとても好きだった。

 響にとって本当に心を開けるのは馨にだけと言っても過言ではない。親ですら少し距離を感じている響にとって軽口を叩いたり、心の底から笑い合ったり出来る存在。今響が不登校にならずにいられるのも馨の存在がかなり影響している。

 こんなバカ話は尽きないもので、学校帰りに馨の部活がない日は決まって二人は一緒に帰るのだ。そのせいで馨に好意を寄せている男連中達から疎まれていたりするのだが……。

 社交的で活発的な馨は響から見たら男勝りで、あまり女性的な魅力を感じない(発育の件はこの際置いておく)のだが他の男子生徒から違うらしい。噂ではファンクラブもあるんだとか(これは噂であって欲しいものだ)。

 そんなくだらない与太話をすること数分、赤屋根二階建ての一軒家である我が家に到着する。庭には洗濯物がまだ干しっぱなしになっている。

 いつもは必ず取り込んであるのに、今日は珍しいな。

 響はいつものように玄関のノブに手を掛ける、が開かない。

「あれっ、おかしいな。あの迂闊過ぎる母さんが鍵をかけてるなんて」

  ドアノブをガチャガチャと何度も往生際悪くひねる響を見て、馨は不審な視線を向けてくる。

「ん……何してんの? 今日はママ同窓会に行くから帰り遅いって言ってたじゃん」

「えっ、そうだっけ? 初耳なんだけど……」

 響は普段から人の話を聞かないと言われることが多いため出来るだけ気にかけるようにしてはいるのだが、どうも他人(今回は家族ではあるのだが)のスケジュールや私生活絡みの事は興味が持てないのだ。その結果今日もこうして鍵のかかったドアノブを捻るという奇妙な行動を起こしてしまったわけだ。

「朝ごはんの時にちゃんと言ってたよ。どうせ上の空で聞いてなかったんでしょ?」

 痛い所を突かれて響は渋い顔になる。加えてその話を聞いていなかった弊害として、鍵を自室の机の上に置き忘れるという失態も犯していた。仮に言い訳をするなら、響の母親はかなり楽観的な人間で、普段鍵なんてかけないのだ。そのため専業主婦の母が用事で留守の時以外鍵がなくても困らないのだ。

 バツの悪そうな響を気に掛けることもなく扉との間に割って入った馨は、手慣れた動作でエナメルバックのサイドポケットから可愛い狐のマスコットが付いた鍵を取出し解錠する。

「私がいて良かったでしょ?」

 振り返った馨は鍵を指でくるくると回しながらしたり顔で訊いてくる。

「そうだね。ありがとう……」

 先に帰っていればこんな会話すら必要なかったのではと考えたが、屁理屈をこねると倍返しにされそうなのでここは素直に肯定し、謝意を述べておくことにした。

 響は玄関で靴を脱ぎ自室を目指すべく階段の一段目に足を掛けたその時、リビングに向かっていた馨に呼び止められる。

「今日は私が晩ご飯作るから、着替えたらすぐに下りてくること。いい? 冷めても温め直してあげないんだからね」

 そう言い残すとこちらの返答を聞こうともせず、馨はそそくさとリビングに消えた。

「はいはい……」

 ため息交じりに聞こえていないであろう妹に一応答え、止めた足を動かしかね折れ階段を上りきる。

 手前から数えて二つ目の扉、そこが響の部屋だ。ちなみに一つ目の扉は両親の部屋で、響の部屋に対面している扉には『かおり』とカジュアルゴシック体に書かれた木製のプレートがかけられている。

 小学校低学年から使っているその幼さ満載なプレートを響はいい加減見飽きていて、何度か撤去依頼を申し立てたが、検討の余地もなく却下されていた。飽き性の馨だが、どうやらそのプレートにはかなりの愛着があるらしい。

 プレートを一瞥すると、踵を返し自室の扉を開ける。部屋は薄暗く、辺りを見渡すのがやっとだったが、カーテンの隙間から茜色の光が線上に真下を照らしていた。

「ただいまっと……」

 無人の部屋に聞こえるかどうかくらいの声量でひとりごち、右側の壁にある電気のスイッチを入れる。次の瞬間、部屋の全貌が露わになる。

 壁紙は白を基調としたかなり質素な部屋で、あるのは勉強机にパイプベッド、腰ほどのタンスに本棚。個性を示すような装飾ほぼ皆無と言っても過言ではないほどにつまらない部屋だが、唯一のこだわりは本棚をびっしりと埋めるアニメDVD、マンガ、ライトノベル、ゲームソフトといった趣味全開の一角だった。

 響がアニメにどハマりしたのは小学六年生の夏休みのことだった。それ以前からたまに見たりはしていたが、丁度その頃に学校での人間関係が上手くいかなくなった。その影響で塞ぎ込むようになった響は家でも居心地の悪さを勝手に感じ、居場所を求めた。その結果たどり着いたのはフィクション・バーチャルの世界だった。

 アニメは突出した才能を持った主人公が異世界を無双するようなバトルものから、至って普通の主人公が幼馴染や姉妹、その他の女性にモテまくる日常系ラブコメ、俗にいうハーレムもの。部活動を通して個人または団体で全国制覇を目指し、仲間との絆や自分自身の心身を成長させてゆくスポ根もの。その全てが響のような人間の現実からすれば程遠いもので、憧れずにはいられなかった。

 しかし今の彼を見てアニメの世界に現実逃避していると叱責されるのも無理からぬこと。だが今の響にはここだけが力を抜いて心から安らげる場所であり、聖域。そこで常々感じている何とも言えない寂しさを紛らわしていた。

 響は机に鞄を置くと、ベッドに向かってうつ伏せにダイブする。あまりの勢いにパイプのフレームがギギギィッと軋み、体を包み込むマッレスの絶妙な反発が衝撃を吸収すると共に体を少し浮き上がらせる。

「今日は昨日の繰り返し……」

 枕にうずめられた口元からくぐもった声が虚空に悲しく響く。高校に進んだとして、三年後には今度は大学に進む。そうでなくとも就職をしなければならない。つまり、先人たちが築いてきた社会の基盤(レール)をなぞるだけの人生。つまりは同じ毎日が繋がって一生になる。それが響には耐え難かった。

「こんな毎日から抜け出したい。一刻も早く……」

 それは響の心の叫び。しかし、響はその本当の意味をまだ知らなかった。

 疲れが出たのか、突然微かな眠気に襲われる。まだ抗うことも出来たが、今日はその気にはなれずそのまま目を閉じてしまう。

 そういえば、着替えたら早く降りて来いって言ってたっけ……。

 数分前の馨の言葉をふと思い出し、脳を切り替えようとした時。さっきまでは微かだった眠気は気づくと強烈な睡魔へと変貌を遂げ、耐え難い脱力感と重みを増してゆく目蓋。いつもの寝落ちと違うのは身体が浮いているような異質な浮遊感。それは寝ているのに立ち眩みを起こしているような不快感に軽い吐き気を催した。

 まあ、起きてから謝ればいいか……。その前に叩き起こされるかも……だけ……ど……。

 そこまで考えたところで意識が完全に途切れた。

 部屋には再び静寂が戻った。



 微睡の中ベッドから体を起こすと視界は完全な闇。

 ポケットからスマホを取出し、電源を入れると夕焼けの壁紙に二十三時四十五分というデジタルクロックが表示されている。

 あれっ、僕何してたんだっけ……?

 ようやく回り始めた脳内に最初に過ったのは自室に来る前の一コマ。

「うわぁ……。完全にやっちまった……」

 着替えたらすぐリビングに下りて来いという妹の言葉に雑ながらも答えたにもかかわらず、それを無視して寝てしまっていた。

 無理やり起こさない辺り馨なりの優しさを感じるが、明日一日文句を延々と言われることは避けられないだろう。

 溜め息を吐くと気が抜けたからか腹の虫が悲鳴を上げる。

 流石にこの時間では早寝の両親は間違いなく寝ているだろうし、明日も部活で朝が早い馨も就寝済みなはずだ。

「仕方ない、コンビニでも行くか」

 響は一旦部屋着のジャージに着替えようか迷ったが、歩いて十分で行けるコンビニとはいえジャージで徘徊するのはあまり印象が良くないんじゃないかと思ってしまう。

 机の上の鞄から財布だけポケットに突っ込み、制服のまま部屋を出る。

 深夜帯であるにもかかわらずこの季節は蒸し暑い。時々吹くじっとりとした風にも不快感を覚える。

 暗い夜道を照らすのは等間隔に配置された電柱の灯りと、一際明るい月光のみ。

 高校生がこの時間帯に出歩くのはあまりいい気はしないのだが、女子と違って男子は多少気兼ねなく出歩けるのだ(必ずしも安全というわけではない)。

 だが、今日は様子が違った。

 時間帯を考慮して人とすれ違わないのは仕方ないとしても、車一台通らないのは奇妙だ。

 それに普段なら五月蠅いほど聞こえる虫の鳴き声とたまに犬の遠吠えがしたりするのだが、今は響の靴音のみ。

 ここまで静か過ぎると霊的なものを信じていない響でも不気味さを感じずにはいられない。

 響は恐怖心を振り払うように早足でコンビニまでの道を進む。

 だが、やはりおかしい。

 コンビニは響の家を出て右に曲がり、その道をまっすぐ進み突き当たると広い大通りに出てすぐの横断歩道を渡った所にあるのだが、どれだけ進んでも大通りに出ない。

 それどころか周りの景色がほとんど変わらず、まるでループしているかのように感じる。この通りは住宅街で目立った建物がないので普段から景色の変化は感じなかったのだが、今は全く変わらないのだ。

「何だ、これ……」

 その時背後に強い気配のようなものを感じ、響は反射的に振り向くと。

「なんだ、蛍光灯が切れかかってるだけか」

 響から五十メートルほど離れた所にある電柱の蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返していたのだが、

「っ!! だ、誰だっ――――――!?」

 響の声がアスファルトに反響する。

 その電柱の傍には良く目を凝らさないと気づかなかったが、全身を黒い外套で覆った何者かが佇んでいた。フードのようなものを目深に被っているため顔までは見えない。

 だがそれの異様さはそれだけにとどまらない。

 黒い人影の輪郭は不鮮明。電灯に照らされている時は確かに姿がそこにあるのだが、消えた瞬間には完全に消えてなくなるのだ。もちろん目の錯覚などではなく、その証拠に電灯が消えている間は気配も感じない。

 数回その怪現象を繰り返し、次に電灯が点いた時にはその姿はもうなかった。

 もちろん道幅は車がぎりぎり離合出来るほどしかなく、脇道もない。ブロック塀を乗り越えて民家に逃げ込むことも出来なくはないが、この短時間で高さ二メートル近い塀を乗り越えるなんてことはスタントマンかそれに匹敵する身体能力が必要となるだろう。

 つまりそんなことが起こるとは考えにくい。

「いったい何処に……」


「オマエガ、オチヒビキ、カ?」


 無機質でスマホに搭載されたAIのような感情の抜け落ちた声。いや電子音と表現するほうが正しいかもしれない。

 その瞬間に響は全身が石になったかのように動けなくなり、背後にいるのが数秒前に消えた得体の知れない何かであると理解した。


「オマエガ、オチヒビキ、カ?」


 全く同じ問いかけ。

 響は答えない。この場合あまりの恐怖で答えられないという方が正しいかもしれない。

 数秒間の沈黙。その間も背後に気配はあるものの、生気のようなものは感じられない。

「死、ヌカ?」

 その言葉を聞いた途端響の肌を何だか嫌なものがなぞる気配がした。そして全身に電気が走ったように瞬間的に身体が跳ね、金縛りも置き去りにして駆け出していた。

 やばい、やばい、やばい、やばい。何だか分かんないけど、すごくヤバイ、気がする!!

 その時は振り返る余裕などなく、ひたすら両足を回転させることだけに全神経を注いでいた。

 それから数分間、風景がこれっぽっちも変わらない直線的な道を、時折足がもつれそうになりながらも全速力で走り続けた。

 口の中は乾き切り、喉を激痛が襲う。肺が悲鳴を上げ、脇腹は張り裂けそうなほどに鈍痛を伝えている。しかし止まるという選択肢はなかった。

「はぁ…………。はぁ…………。はぁ…………」

 響は疲労に耐えかねて電柱に凭れ掛かるようにして呼吸を整える。その間も来た道を見据えることは怠らずに。

 暗くてあまり見通しは良くないが、復路もないためぼんやりとなら確認することが出来る。幸いなことに奴の姿、足音もまだ聞こえない。

 もちろんこんな事で撒けたとも諦めたとも思えないが、相手の足の速さが分からない以上無闇矢鱈に走り続けてもこちらの分が悪くなるだけだ。

 だから今は次の襲撃に備えるために少しでも体力を回復しておかなくてはならない。

「いったい……、何だったんだ……」

 荒く息をしながら独りごち、そこでふと一つの打開手段を思い出す。

 手早くポケットからスマホを取出し画面を確認すると零時十三分という時刻表示があり、画面の左上には非情にも【圏外】の二文字があった。

 いつもの響なら不満を口にするものの、大して気にはしなかっただろう。

 しかし、今はその限りではない。

 当たり前だがここは屋外であり、この場に電波を遮断するものはないはずなのだ。

 もちろん基地局や携帯会社による電波障害という可能性もないとは言い切れないが、この状況との関係がないと結論付ける方が難しい。

「何でこうなったんだよ……」

 妹に、または警察に助けを求めるという選択を潰され響は頭を抱える。

 でも良く考えたら馨は一度寝たらなかなか起きないし、警察に繋がったとしてこの状況をなんて伝えたらいいんだ? 幽霊みたいな瞬間移動する得体の知れない何者かに追われているなんて言ったら悪戯扱いされるに決まってるし……。

 事態はかなり深刻だった。

 仮にこのまま逃げ続ければ捕まらないとしても、捕まらないだけでは何の解決にもなっていない。この奇妙な空間から抜け出さないといけないのだ。もしかしたら陽が出れば奴は消えてしまう吸血鬼のような特性があるのかもしれないが、日の出までは短く見積もってもまだ四時間近くはある。その間ずっと逃げ続けられる自信は残念ながら響にはない。

 しかしそこでまたしても予期せぬことが起きた。凭れ掛かっていた電柱の蛍光灯が数回点滅したのだ。ただそれだけのこと、なのだが


「見――――ツケタ――――――」


 またしても背後に、今度は耳元で囁きかけて来る電子音のような声。背筋を悪寒が駆け巡る。

 嘘だろ、まだ立ち止まって十数秒しか経ってないのに……。やっぱさっきのは瞬間移動だったのかよ……。

 そう内心で悪態をつきながら振り向きざまに飛び退ろうとする響だったが、時既に遅し。痛いとも熱いとも取れる激しい感覚が走る。

 すると半分夢うつつだった意識が完全に覚醒し、次第に息が浅くなり軽い目眩に襲われる。

 あれっ、あ、脚が……。

 響の意思に関係なく響の脚は激しく震え出し、すぐ立っていられなくなる。

 そのまま地面に倒れ込むと次第に身体を生暖かいものが浸してゆく。それに伴うように身体から体温が抜け落ちているかのように激しい悪寒に襲われる。しかし、一部分だけ激しい熱を発しているようだった。

 意識は薄れ始め、霞む視界の中で響は確かに見た。自分の腹部に突き立った禍々しい形状の短剣を。

 音は遠退き消え、意識が深い闇の底に沈む。

 だがその時、遠くで鳴り響く鐘の音を響は聞いた、気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ