01_05_クルル「お兄さんと約束したもん」
「幼少時に破られた約束って、大人になっても覚えているものですよ」
この時間帯だと、確か父は集落を回っていたはずだ。
加えて私の鼻と耳は、他の羽耳族よりも鋭く、危機察知能力は一番だったと思う。確認してみれば、父は集落のはずれまで赴き回診しているようだった。
他の家族も同様で、外に出ていることは臭いでハッキリと分かった。
私達は元々逃亡民族だった。だから家も移動できるように動物の皮を縫い合わせたテントが主体だったのだ。母が私を身籠ってからこの森に定住したので、最低でも八年は経過している。だから徐々にテントは居住性を高めるように柱も太くなっていったのだと思う。
私の家もまた改築を繰り返しおり、入口を潜り抜けると、内部はこれまた布で部屋を区切ってあった。母が使う機織り機(縦横と糸が分けられており、手動で糸を編み込んでいく物だ)を通り過ぎた。すぐ目の前には父の仕事道具が閉まってある倉庫があった。まぁ布を潜るだけなのだけど。
持ち出したのは、デルガスライムの死骸と月華草を混ぜて作った秘薬と、薬草を練った軟膏だ。実のところ、この秘薬の製造に私も関わっていた。鼻が良いので、薬草である月華草と、毒草である月影草を見分けられるからだった。と、心の中で私も手伝ったのだから、少しぐらい分けてもらっても良いはずだと、言い訳をすることにした。
珍しいと、自分でも思う。自分の悪事を正当化するような考えなど、今までしなかったはずだ。きっと、あの人と出会った瞬間から、既存の私が瓦解していったのだと思う。
他の住民達に気付かれないように、物陰に隠れるように工房へ走っていく。途中、気付かれて子供から石を投げられるが、薬を守るように背中や腕に当たるようにしていた。痛かった。けれども、あの人や彼女の方がもっと痛いと思うと、不思議と力が湧いてきたのだ。
子供達の追っ手を振り切って、工房の扉を乱暴に開け放つ。空いた隙間に身体を潜り込ませ、階段を駆け上がった。
間に合って!
そんな切なくなる気持ちだった。
「ナディア?」
二階に登ると身体が小さくなった彼女がいた。最初に見た大人さとは掛け離れた、童女の姿。黒い洋服も身体に合わせてサイズが小さくなっていた。
ただ変わらなかったのは、目を腫らし泣きながら、治療にあたる献身的な姿だった。手から小さな光を出し、あの人の傷口に当てて……延命させようとしていたのだ。
酷い顔のまま驚愕に眼を開く彼女に、私はぐっと唇を噛んで、名乗った。
「ナディア違う。クルル――治療する」
彼女とは反対側に回り込んで、改めて傷口を見た。負傷箇所は三ヶ所、どれも小さな穴だが、出血が酷い。明らかに危ない血脈を傷付けている。触って見ると反発する水袋のような感触で、中で血が変なところで溜まっているのが分かった。大怪我を負って父に治療される羽耳族を見たことがある。その時、中の血を喰らうスライムと、月華草を混ぜ合わせた秘薬を使っているのを覚えている。
正しい治療方法か分からない。今からでも専門家である父に頼み込めばと、何とかなるのではないかと思った。しかし、父は人間という生き物を恐れているはずだ。だからよく観察し、治療の魔法名が使えない獣人として調合技術を学んでいたのだ。臆病者な羽耳族らしいやり方だ。
対して母は寝床で私の頭を撫でながら語っていた。
『女はね、時に無謀な勝負だと知っていても、戦わなきゃいけないの。愛する人を守る時は、特にね』
あの時の私には理解できなかった。弱くて汚れた黒い私には無理だと。けれども、この言葉を思い出していた。今、やらなきゃこの人は死ぬ。彼女も救われない。
私は祈るように、秘薬の瓶を開けて、慎重に穴へ流し込む。そして直ぐに傷口が泡立ち始めた。ブクブクと血の泡を吐き出して、傷口を汚していく。私はさらに軟膏を取り出し、手に馴染ませ、塗りたくった。手が血と薬でベタベタになっても構わない。薄汚れ、裏切り者の黒だと罵られているのは慣れているから。助けられる人がいるならば、救える人がいるならば、と。
一通り塗り終える頃には、この人の呼吸が安定していた。賭けに勝ったのに気付いた私は、一息吐いた。すると、横で見ていた彼女――魔女が訝しげに私を見ている事に気付いた。
「どうして?」
「助けてって……それだけ」
「ッ……見ていたの?」
「見てた。この人を助けようとしてた……小さくなってるけど」
「魔力を使い過ぎたのよ。たぶん、あと十分もしないで、この身体も保てなくなるわね」
「死んじゃうの?」
生命を代償にしていたようで、私は泣きたくなった。せっかく救えると思ったのに。
だが、彼女は優しく微笑んだのだ。
「……貴女は本当にナディアとよく似ているわね。大丈夫よ、単に魔力不足。ちょっと命を削っちゃったけど。その甲斐はあったわ――」
――間に合った、から。
魔女は小さく呟いた。本当に嬉しそうに。この人が一命を取り留めたことに、喜んでくれた。こんな私でも誰かの役に立てたと、初めて思えたの瞬間だった。
「この人は?」
しかし幼き日の私は衝動に駆られて、人間を助けた後のことを考えていなかった。この人は誰なのだろうか? 奴隷商の依頼で派遣された冒険者なのもしれない。
「え、そこから聞いちゃうんだ? 予想外に肝が据わってる?」
普通、私のことから聞かない? そう問いかける魔女に私は首を傾げた。いや、普通に考えて魔女の工房に現れた、黒いローブを着た女性を見たら、あの人を救わない魔女フラウレアと結び付けられない方が、難しいと思うんだけど。
「よく分からないけど、普通の傷付き方じゃないよ? こんな深くて曲がりくねったの、見たことない」
「弾頭が歪んで内臓を――って銃すら無いんじゃ説明が難しいわね」
魔法と剣を駆逐した近代兵器と薀蓄を垂れていたが、当時の私に分かるわけもなくさらに首を捻った。
「ジュウ?」
「まぁ特殊な魔法名で傷を負った。普通の魔法名じゃ治せなかったってことよ」
「クルル、お手柄?」
「ふふ……そうね、お手柄よ」
人間を乗り越えるように魔女が、私の頭を撫でようとしてきた。私は耳を守るようにサッと身を引く。魔女はこれまた傷付いた顔をした。
「……ちょっと凹むわね」
「耳ダメ。家族と本当に好きな人以外、触らせない」
「羽耳族は本当に変わらないわねぇ……」
お母さんも「軽い女になっては駄目。良い女はね、ここぞという時に許すの。そうやって私もお父さんを口説き落としたのよ」が口癖だったなぁ……。
蕩けそうに微笑む母と、苦笑する父の顔を思い浮かべていると「……サクラ」「駄目な兄貴で、ごめんな」と呻き声をあげていた。悲痛な、音色だと思った。
隣で聞いていた魔女は溜息を吐いた。
「……馬鹿な人ね」
「夢、見てるの?」
「そう。きっと妹の夢ね」
「妹?」
「夢に出るほど愛していたのよ……復讐なんてサクラは望んでいないのに、本当に馬鹿な人よ」
「……サクラ、死んじゃった?」
フラウは唇をかんでいた。血が出そうなくらい強く。しかし、怒りを鎮め、極めて冷静に言葉にした。
「死んだわ。親友は、惨い死に方をしたわ。それこそ、この馬鹿が復讐しなかったら、私が先に復讐したと思えるほど」
フラウは、女性としての尊厳を土足で踏みにじる行為だと、苦々しく語る。今思い出しても、身が凍る思いだったし、私だったら舌を噛んで死んでやると思う。
「彼女はね、本当に馬鹿みたいに優しかったのよ。余命幾許も無いと知りながら、困ったら兄を頼れ、同時に兄が無茶しないように助けて欲しい――人の心配ばかりして、本当に馬鹿な兄妹。似た者同士よね」
「仲良し兄妹?」
「ちょっと度が過ぎて、貴女には見せられないわ」
いろいろと話をしてくれた。思い出話のように、極めて明るく。
病弱な妹だったから、兄は甲斐甲斐しく世話を焼き、救う為に金を荒稼ぎしていたという。それこそ悪人をひどく騙すようなかたちで。
ただ妹の方がヤバいと知った。妹は何というか、狂気染みている。無惨に犯された妹の話よりも、身の毛がよだつ思いだった。
「ヤンデレというか……実際に身体を病んでいた訳なのだけど、心が病的に病んでて、デレデレしていたというか」
「入院したから流石に下着は確保出来なくなったってね。見舞い後に髪の毛を拾って大事そうに……親友だけど流石に引いたわ」
「実際に彼女が出来たって聞いたら、病院を抜け出して丑三つ時に藁人形をゴッスンゴッスン、と。いや、ちょっとガチでヤバい感じだったから自分でジョークをはさまないと語れないわよ、あれは」
そして、まさか死んでからもライバルの一人になるとは思わなかったがけど。
「さて……もうそろそろ時間切れかしらね」
そういい終えると身体が光を帯びて小さくなった。そのまま光の玉となる。妖精のようだった。
「魔女じゃなくて妖精さん?」
「神話に出てくる程の魔女なのだけど、威厳も何もないわねぇ、これじゃ」
「よく分からない」
「二足歩行して言葉を発する生き物は皆、見た目を重視するのよ。まったく……これで目を覚ました時に何と言われるやら」
「妖精さんだと、この人ちゃんと話を聞いてくれない?」
「そうねぇ……嗚呼、言葉遣いを変えれば良いかしら?」
とても安直だった。
高名な魔女だと後年知ったが、結構短絡的らしい。
無論、言葉遣いに四苦八苦することになる。この後で会う牧師と語尾が被ったりするものだから、道中でさらに模索し、迷走いくことになる。まぁ個人的には『のじゃ姫』はありえないと思ったが。全てが終わった後では、笑い話ではあるのだけどね?
♪
もうすぐ目を覚ますと、魔女フラウレア――改めてフラウは宣言した。どうも秘薬の効果は強力だったらしい。しかし、私は目が覚めたとき、捕まるのではないかと不安になっていた。
「大丈夫よ。この馬鹿は邪道で外道な男だけど、助けてもらった恩を仇で返そうとはしないから」
「で、でも……」
「なら――私の加護で何とかしてあげるわよ?」
魔女の加護。そもそも加護とは何か? 呪いと祝福は本来同じ本質ではある。対して、加護は他者から信頼を受けて授けられる祝福に近い物らしい。やっぱりよく分からなかったけれど。
「あ、魔女の加護っていっても生贄するとかそんな物ではないわ。私の加護って強くなるとか、力を引き出すものとは違ってね……ただ同じ加護を持つ者同士で、悪意を持って傷付け合わなくなるって感じ。後は、お互いの想いが通じやすくなる。絆みたいなものかしら」
フラウ曰く、もしくはお守りみたいなものらしい。本当はもっと強力な加護を作って与えたいらしいが、時間も魔力も素材も道具もないとか。彼女自身、あの銀月の女神に負けたのを今でも根に持っているようだった。
既に魔法名と加護を付与しているため、私に渡すだけらしい。
「襲われない?」
「もし幼子に手を出したら、サクラとの約束に従ってちょん切るから安心していいわ」
誰もそんな心配はしていない。いや、大人になった私からしてみれば、早々に手を付けて置いて欲しかったところではあるが。
儀式は、簡単な物だった。祝詞を捧げるようにフラウは言葉を紡いでいく。
「我が友に証を捧げる。ささやかな小鳥の歌声に囲まれ祝福し、せせらぎの水飛沫は飽くなき悪意から遠ざけよ。古の縁を結び、ここに友好の証を授け給え」
フラウの周りから同じ光の粉が舞っていく。それを背中に私は浴びていた。腫上がるとかは無く、少し温かい物が背中に当たっているなぁ、ぐらい。
「地獄ってのは、樹の中なのか。随分とメルヘンなんだな……」
彼が目を覚ましたのに気付くや否や、私は瞬時に柱の影に隠れた。けれども会話の内容も知りたかったから、耳だけは出していた。黒い耳なら分かり辛いと思ったからだ。
けれどもフラウはいぢわるだ。私のことを隠してくれて良かったのに「礼を言ってやれ」なんて。怖かった私はどうすれば良いか分からなかった。
でも、あの人は……優しかった。
普通の人間なら獣人は捕らえて奴隷として売るか、同じ獣人であれば憎しみを込めるし、同じ羽耳族であれば蔑んでくる。それなのにあの人は、
「お、お兄さんはどうしてここにいるの? その黒髪と黒目……イジメられているの?」
「似たような物かな……でも、寂しくはないよ。キミに助けてもらったからね」
いらない私を、必要だと言外にいってくれた。その時、私はそう思えた。
そして彼は名乗ってくれた。その時の彼は屈託無く微笑んでくれていた。だから私も名乗った。
「私、クルル・フェザー!」
同じ髪と目の色をしているから、同じ穴の獣人だとすら思った。名前を聞いて、最初は異世界人だとは最初気付かなかったけど。
けれども彼の名前、本名を知っているのは、今でも私だけ。もちろん、優越感に浸っている。
本名を教えてくれるというのは、それほど信用し信頼してくれている証だもの。
♪♪
帰った私は、両親と兄と姉に初めて嘘を吐いた。遅くなった物だから、みんな心配していたのだ。私は「ちょっと森で迷っただけ。大丈夫だよ」と笑顔を作ったのだ。ぎこちなかったかもしれないが、大人はみんな嘘吐きなのを、幼いながらに私は知っていたから。真似をしたのだ。
起きて母が作った雑穀粥を食べた。ふと、あの人はちゃんとご飯を食べられるのかと、心配した。
家族が仕事に出かけたのを確認して、私は自前のカゴを手に取った。今日は遅くならないようにしようと心に決めて、森で栄養価が高い果実を選んで摘み取って行く。
工房に行くと、まだ彼は寝ていた。なんだろう……昨日と比べて安らかな寝顔だった。ちょっと微笑ましくなってくる。
「まだ寝ておるよ」
「……フラウちゃん、やっぱ変だよ。その言葉遣い」
「……やっぱり?」
「うん」
「……以前本で読んだ『のじゃ姫』タイプにしてみようかしら。一応、亡国の姫だし」
「ごめん、何のこと?」
「気にしないで。それでご飯を持ってきてくれたの?」
「口に合うか分からないけど、喜んでくれるかな?」
「こ、この……幼女キラーの称号は伊達ではないのねっ!」
幼女であった私には分からなかったが、幼女に好かれやすい称号を持っていた。今でもこの称号のせいで今の私は苦労させられている。
「しかし血を流し過ぎているし、ちょっと足りないかもしれないわね」
「蛇でも狩って来る?」
罠師として働くルルイ兄みたいに、土蛇は狩れない。でも普通の蛇ぐらいであれば、狩れる。ちなみに他の子では上手く血抜きもできないから、密かな私の自慢でもあった。
「幼子が石器ナイフをチラつかせながら、吐き出す台詞じゃない……羽耳族も変わったわね」
「たんぱく質、大事」
「……うんまぁ、そうなんだけど。って、ここは知恵の大樹だったわね」
この工房は、知恵の大樹の中に作られているらしい。しかし、この大樹に実る果実は食してはいけないと、父からいわれている。毒が、あるからと。
「毒なんてあるわけないじゃない。いや知恵と知識も、ある種の毒かしら。まぁ、私の加護を受けているクルルとこの馬鹿なら大丈夫。栄養価は保証するわ」
などと太鼓判を押されてしまった。
私は採りに行けないフラウの代わりに、大樹を登った。丸く赤く実ったそれは、磨いてみると輝いていた。まるで赤い宝石のようだった。嗅いで見ると、覚えの無い甘い香りが漂っていた。このぐらい甘いのならば、他の動物や魔物が食べに来そうなものだ。
しかし、この大樹はおろか、私たちの集落周辺に危険な獣も魔物も近寄らなかった。大人達は魔女の魔力が強大すぎて、怖くて近寄れないのかもしれないといっていた。
私は二つほどもぎ採って、工房に戻る。階段を上がっていくと、
「じゃが、巨乳は好きじゃろう?」
「乳で人を選んだ事はない。人はハートだ」
「人の見た目は九割で決まると豪語する、詐欺師が何を」
「……見た目だって大事だよ?」
なんか変な話をしていた。
ルルイ兄はあまり語らなかったけど、胸の大きいメスと番いになりたいように見えた。お母さんも結構大きかった。たぶん、父も巨乳に釣られたのだろう。うん、大きいお胸は正義だ。
「何の話?」
「おぉ、クルルか。よう来たのぉ、こっちへおいで」
首を傾げかけたが、フラウはどうも「今来た」と装って欲しいらしい。うんまぁ、いいのだけど……そこまで気張らなくてもいいんじゃないかなぁ。
とりあえず採って来た果実を見せた。
「美味しいよ?」
たぶん。
彼は私の言葉を聴き、果実を見てふむっと頷く。そして脇に置いてあった黒鞘に包まれた短剣を抜いた。
私は目を奪われた。
黒い刀身は僅かに沿っており、私が外套の下に納めてある石器ナイフよりも薄かったのだ。しかも黒き刀身は薄すぎて向こうが透けて見える。これまた宝石で作ったような、神様が打った宝剣のように見えたからだ。
「……このままだと味気ないかなぁ」
「何をしているの?」
その神秘な刃で彼は器用に果実を切っていく。
「ウサギさんだよ」
「可愛くてたべれない……」
本当のウサギさんはもっとモフモフしてるのではないかと。しかしご飯は残さず食べなさいと言われていたし、食べなきゃ駄目だよねぇとか考えていたら、頭を撫でられた。クルル一生の不覚ッ! しかし、だがしかし、何故だ……力が抜けてしまう。
そんな私に、優しく微笑む彼が何を考えているか分からなかった。
「ちょっとは人を疑うという事を覚えた方がいいな」
「お兄さんは悪い人なの?」
私は悪い人に撫でられたのか!?
「……悪い人だな。だから、ここに落とされた」
「悪い人だから、クルルに優しくしてくるの?」
悪い人だから、同じように悪い私に優しくしてくれるのだろうか。私はよく分からなくなっていく。
「クルル、みんなと違う。みんな白くて綺麗なのに、クルルだけ黒くて薄汚れた、裏切り者の色だって」
「……フラウ、どういうことだ?」
フラウは端的に私が悪い理由を述べてくれる。けれどもこの人は呆れるようにため息を吐いた。私を責めるのではなく、まるで歪な世界を責めているように。
「クルルは、何か悪いことをしたのかい?」
「黒いから……」
「黒いだけだよね? クルルは誰か傷付けたことはあるかい?」
「無いっ」
「だったら、クルルは悪く無いよ」
優しく、諭すように。
「いいかい、悪いのは昔話に出てくる獣人なんだ。クルルが悪いわけじゃ無い。人は見た目だけじゃ無いんだよ」
「黒いから、みんなクルルに石を投げる。大人もクルルを避けるのに?」
「石を投げられたら、避けるんだ。大人に無視されても、気にしてはいけない。見た目でいじめてくる奴は、その程度だ。自分は違うって、行動で示すんだ」
「行動で?」
深く頷いて、頭を撫でてくれた。彼の手は温かく、優しくて、涙が出そうになった。
「クルル、キミは怖い人間である俺を助けてくれたじゃないか」
「うん、死にそうだったから」
「見た目で怖がる奴は、臆病者だよ。けれど、キミは怖くても俺を助けた。なぜだい?」
それは、フラウが助けてと泣いていたから。私と同じように黒髪の人が死にそうで、酷いことをされていたのではないか、と。
たどたどしく語る私に、力強く教えてくれた。
「そっか。やっぱりクルルは、優しく強い心を持っているんだよ」
「優しくて強い心を?」
「普通、怖いのに助けられない。けれども、クルルは心配して、助けてくれた。果物も届けてくれた。優しくて強くなければ、こんなことは出来ないんだ……キミはキミのままで居て欲しい」
彼は先に赤い果実を齧った。芳醇な香りが鼻に届く。促されて私も「うさぎさんごめんなさい」と心の中で呟きながら口に含む。なんと、今までに無い甘さだった。酸っぱさもあったが、以前父が採って来たハチミツにも似たものだったのだ。
優しくされ、甘い物を舌に感じた喜びから顔が緩む。
「それにね、黒色は特別な意味もあるんだ」
「裏切り者じゃないの?」
首を横に振り、静かに。けれども彼の言葉が私の胸に深く刻み込まれていく。
「何者にも染まらない――全てを受け入れる優しい色でもあるんだよ」
まぁ、大人になった私から見れば、この色に誇りを持てるようになるのは少し時間が掛かったなぁ、と。
「――うんっ」
幼かった私は単に、認めてもらった事に嬉しかったのだろう。黒色は否定的な意味ではなく、優しい意味もあると知って。
何より、禁断の赤い果実の影響だったのか分からないけど――それが無くたって――目の前の人を好きになっていた。
フラウから聞いた話はとても、よく覚えていたし、何よりこの人は儚かった。掴んでいなければ、振り向いた瞬間、夕闇の向こうに消えているのではないかと、そう思えるほどに。
♪♪♪
彼の口から妹を愛する想いが語られた時、私は胸が締め付けられた。
寝言からも、ふざけてお道化て語る口からも、端々から妹を想う気持ちがこもっていた。
悔しかった。たぶん、この時初めて、嫉妬したのだと思う。
「良いことを教えてやる。俺はロリコンじゃない――シスコンだ。妹が赤子ならばオムツを替え、小学生になれば送り迎えを忘れず、中学生になって反抗期になった時期も優しく見守り、高校生となって恋愛相談を夜中に受けても真摯に紳士の如く対応し、大学生になって彼氏と三人で居酒屋に行き、社会人となって挨拶に来た彼氏を一発殴り、その結婚式では涙を堪える。これが真のシスコンだ、妹への真の愛情だ。舐めるなよ、義理の妹とは違うのだよ、義理とは!」
「正直に言うぞ。キモイ」
「変態さん……なんだ?」
構って欲しくて、また柱の裏へ隠れた。
「実妹が嫁ぐまで守り、愛情を注ぐのは当たり前だと思うけどな。そこに劣情はない」
「本当?」
顔と耳を覗かせた。少し自分でも卑怯かなって思う。彼は深く頷いて、
「無論。このシスコンに二言は無い」
断言した。だから私は母に倣って、畳みかける事にした。今を逃したら、彼は――遠くに行ってしまいそうだから。
私は彼の膝の上に跨った。外套がふわりと広がって、肌色が見えてしまう。はしたないかなって思い座り直そうと思ったのだけど、頭を撫でられた。
まさか耳の内側を触られるとは思わなかったが、彼ならば、と許すことにした。
女の子の耳を触っていいのは、家族か、夫だけなんだよ?
「妹とは結婚しないんだよね? じゃ、クルルはお嫁さんになれる?」
「もう一度、仰っていただけませんこと?」
「お嫁さんになれない?」
「……キミが大きくなったらね」
私はこの日に言質を取りました。良くやりました、幼い日の私。
少々憂鬱気な顔をする彼だったが、私は嬉しくて仕方なかった。幼くても羽耳族は早熟なのだ。しかも母は巨乳だ。私には未来がある。これならば、妹にも負けない。
「やった! 頑張って、お胸を育てる!」
「違う、そうじゃないんだ! キミはキミのままでいて!」
狼狽する彼に、フラウは「ロリ巨乳派・シスコン・女泣かせ・幼女キラー」と追い打ちをかけていく。私もその話を聞いて、釘を刺した。お母さん、モテるお父さんを守るために苦労したっていうし。
でも……私は考えが甘かったんだって分かった。
「見くびるなよ。兄として、妹には俺よりも良い男と結婚して欲しかっただけだ」
彼が、とても哀しい瞳をしていた。私を見ながら、ここではない遠くの誰かを、見ていたのだ。
「サクラのこと?」
私は呼んではいけない、その禁忌に等しい名を口にしてしまう。彼の瞳孔は開き、真っ黒に染まる。
怖かった。死んだ妹がいるから、私はいらないっていわれそうで。でも、ここで飛び出して逃げたら駄目だと思った。
生活していれば、いずれ人は死ぬ。死んだ人は戻ってこないし、いつまでも考えていたら足元を死者に絡め取られて、死の沼に引きずり込まれてしまう。
そうして若い羽耳族が魔物に喰われていくのは、よくあったから。
彼からもまた同じような臭い(・・)がしていた。だから、考えを改める。
死んだ妹は何もできないけど、生きているクルルは何か出来るかもしれない。
「……何故?」
「寝言で……ごめんなさい」
「いや、クルルは悪くないよ。悪いのは……守れなかったお兄ちゃんだ」
「守ろうとしたのに、悪いの?」
理解できなかった。守ろうとして死んでしまったのは哀しいことだ。けど、責められることではない。
「……キミは」
「クルルの仲間、みんな早く死んじゃう。追われて狩られて、帰ってこない。でも、守ろうとしたのに、怒られるのは……哀しいよ」
理解できたのは、彼が今でも自分の事を憎んでいるということだ。
「クルルっ、サクラの事をよく知らない。でも、お兄さんがサクラを沢山好きだって分かる。だって妹のこと話しているとき、哀しそうで、でも優しい声と眼をしてた。だから、サクラは怒ってないよっ」
「……そうだな、妹は怒っちゃいないな」
「だから、自分で自分のことを怒っちゃだめ。クルル、哀しくなる」
私は耐え切れず泣いてしまった。
どうか、優しい人を連れて行かないで、と。
「クルルは優しいね」
「優しく強くいて欲しいって、お兄さんが言ったから……怒った?」
「いいや、いつか自分自身を許せるように頑張る。ありがとう、クルル」
嘘は吐いていないのは、分かった。でも「いつか」が来ないかもしれない。だから、
「うんっ。お兄さんがお兄さんを怒らなくてすむように、クルルも頑張る」
私は昔も今も、頑張っている。
♪♪♪♪
彼は場を和まそうと、家族の話をしてくれといった。私は努めて明るく自分の家族の話をしていった。父と母、上の兄弟の事を徒然なるままに。
「サクラとの楽しい話を聞かせて?」
そうすると彼はほほ笑んだ。
「親父は何か怪しげな仕事をやってたなぁ……たまに帰って来なくておふくろを心配させては怒られてたっけ。妹も布団の中から、親父を正座させて叱ってたよ」
私よりも人数は少ないけど、どこもお母さんが強いらしい。私と違うのは、ヒエラルキーが高い位置にいるらしかった。
「桜は心臓が弱くてな……その代わり肝は据わってたな。心が強い妹だったよ。両親が死んでも変わらなかった」
うんまぁ……ゴッスン、だし。
「荒稼ぎしては妹を心配させてたんだがな……お世話になった先生の下で働くって報告したら『遂に就職したのですね!』とかすんごく喜んでた。フリーランスの時に買ったぬいぐるみは喜ばなかったけど、定職に就いてから買ってやったお菓子のおまけは大事にしてたよ。そのあたり、女の子の感性なのか俺には分からなかったが」
将来性のない男と、甲斐性のない男は駄目だって、お母さんいってたよ?
「医者から許可を貰ってな、日帰りの温泉旅行に行ったよ。温泉っていうのは大地から湧き出るお湯の事だ。身体に良いって言うんで、桜と行き先を決めたんだ。その時は凄く張り切っててなぁ……予約まで勝手に取ってたよ。流石にこの年だし、貸し切りでも混浴は駄目だって言ったのに聞かなくて。洗う時も入浴中でも、ずっと離れなくてな――仕事ばかりで構ってやれなかったのを、そこで気付いたよ」
気付いて、それ絶対危ない奴だから! 下手したら貞操危機だから!
「入院中、病院内で友達が出来たって……悪い虫が付いたんじゃないかと思って問い質したら『しつこい男は嫌われちゃいますよ?』だって……お、俺はお前の事を心配してだなといっても聞かないし。調べてもそれらしい奴は出てこないし……最後まで分からなかったよ」
それ……もしかしてフラウのことじゃないかな。いや、本人は黙ってたし、いわない方が良いと思って、口にはしなかったけど。
――楽しい時間だった。
でも、あの瞬間まで私達が追われる身だってことを忘れてた。
私が黒い羽耳族だって事を、忘れていた。
「――えっ?」
嘘だ、と思った。
遥か遠く、森の入口付近から、聞きたくない遠吠えが折り重なっていく。耐え切れなくなって、何かがバリンッと割れる音がした。
オオカミは珍しくない。けれども、森の中では滅多に見なかった。それが何十匹も吠えながら森に雪崩れ込んで行くのが分かる。
そんな冗談はないと、何度も耳を動かしては確認しても、雑音が消えない。
「どうした?」
「……オオカミっ」
幼い私は震える手で、彼の服を掴んだ。きっと食べられてしまう。
しかもフラウが言うには、人間も一緒だという。恐らく多数はオオカミに喰われ、少数の雌は奴隷として捕らえられる。みんな、死んでしまう。
怯えるだけの私に対して、彼は冷静だった。
結界が破られたこと、状況の確認、そして彼は私に、
「先にお家に帰るんだ。そして、この事を弟さんとお母さんに伝えて、一緒に逃げるんだ」
逃げろといった。
「でも! お兄さんがっ」
私は馬鹿だ。
私達は怪我なんてしてなければ、逃げ切れるかもしれない。森の事を熟知している。
でも、彼は人間だ。怪我をしている。森の事なんて分かる訳がない。暗に、自身が囮になると優しく微笑む彼に、胸が締め付けられた。
……この人は、死に場所を探しているのかもしれない。だから平然と自分の命を投げ捨てようとする。
何度も彼を説得する言葉を考えた。でも、この状況を打開できる方法が浮かばない。泣きたくなる私に、彼は頬に触れてくれた。
「大丈夫。俺には秘密兵器があるから捕まらないし、食い殺されてなんてやらない」
本当に? 死なない?
「また会おう」
「絶対、だよ?」
嘘吐きは許さないんだから。
私は触れてくれた彼の右手を取った。そして、私の耳に触れさせる。
そして、意を決して私も彼の耳に触れた。
『春過ぎて花散らし、秋近付き草木を枯らし、雪の中で凍えながら、また春を待つ。私達は比翼の羽耳、この耳に互いの声が聞こえる限り、約束は違えず。霊魂尽きぬ限り、死すらも私達を別つこと無し。この想いに偽り無し。愛しています――さん』
羽耳族で受け継がれている、婚姻の言葉だった。
早死にする種族だから口約束に近いし、相手は人間だ。
自分でも大胆だと思うが、早口だったから彼には伝わっていなかったかもしれない。
でも、非力な私に出来るのは、これが限界だった。
「おまじない――またお話を聞かせて」
「嗚呼――約束だ」
うん、その言葉だけで十分。
♪♪♪♪♪
あの時と同じように、後ろ髪を引かれる思いで工房を走り出た。
涙で視界が歪む。木の根っこで足を取られて、顔から地面に落ちた。
泣き叫びそうな声を、ぐっと喉で止めて涙を外套で拭う。泣いちゃだめ、約束したから。また会えるって。
私は近付くオオカミたちの距離を耳で測りながら、集落へ戻っていった。
「――お父さんッ!」
「クルル! 良かったお前は無事か!」
お父さんとお母さん。
ルルイ兄、ララ姉、ケリ姉が居た。
集落に居たみんなは生活に必要な物だけを袋に詰め込んで逃げる準備をしていた。
でも、ロロ兄は?
私は鼻と耳に神経を集中させた。
相変わらずオオカミ達は吠えあって私達に向かってくる。その中で何種類かの血の臭いが混じっていた。
一つは彼の血で、その方向にオオカミ達が集まっていく。
もう一つは羽耳族が噛み砕かれて、血を流しているのが分かった。その中に、、ロロ兄の臭いがあった。
足が、震えた。家族が喰われた事を知った。
「ロロ兄がっ!」
「分かっている。だが、私達はロロの分まで生きねばならんのだ! 分かってくれ、クルル……」
父に抱きしめられた。
母は嗚咽を堪えていた。
ルルイ兄は奥歯を噛んで怒りを堪えて、姉達は肩を抱き合って我慢していた。
私も我慢しなきゃいけない。そのように思えたのだ。
「――いくぞ」
父とルルイ兄が先頭となって私達は走った。
私が人間達も追ってきていると告げると、父は分かったと頷いてくれた。父は私の鼻と耳の良さを知っている。魔法名を持つ人間に挟み撃ちされるのを恐れ、罠を見分けられるルルイ兄と先頭に立ったのだ。
ルルイ兄は即座に人間が設置した罠を看破していく。でも、解体する時間が無かったから、兄と父の足跡をまた踏むように走った。
どれぐらい走っただろうか。
私達は深い森を抜けようと身体に鞭打って走り続けている。
ふと、血の臭いが濃くなったのに気付いた。
この臭いは、彼のものだった。
「――よぉ、俺の左手はうめぇか?」
彼の怒声と、乾いた破裂音が耳に届いた。
私は彼が危ない状況だと直感し、思わず名を呼んでしまった。
それがいけなかった。
「クルルッ!」
集中力を切らし、足跡とは違う地面を踏んでしまったのだ。
草で隠された罠を踏み抜き、四方から網目状に結ばれた縄が私の眼前に迫った。
もがくように前に出て、手を伸ばす母に縋ろうとする。
だが、罠の方が早かった。
網は私を囲うように包み込み、吊り上がったのだ。
硬く作られた縄は、私の持つ石器ナイフでは断ち切れそうもない。それは他の人が持つナイフも同様だ。
「クルルそこを動くな! 今、解体する!」
滅多に喋らないルルイ兄が焦燥を滲ませた顔を浮かべ、私に近づこうとする。けれども、父がその腕を取った。
父は無言で首を、横に振ったのだ。
その時、私は思考が止まった。
母は叫ぶが、父に頬を叩かれ、抱きしめられる。ケリ姉も一歩踏み出そうとするが、大粒の涙を流すララ姉に後ろから止められていた。
何で、どうして?
何で、そんな哀しそうな顔をするの?
何で、私を置いていくの?
何で、私はまだ生きているよ?
「おいて、いかないでっ……」
私の声は、誰にも届かない。
日が暮れ始めた時、ただ願ったのは、どうしてかな。
見捨てた家族の無事よりも、彼の無事を願ってしまっていた。
ただ違ったのは、きっともう私は駄目だということ。
私の声は、もう誰にも届かない。
誰も助けてくれないのならば、どうか、生まれ変われるのならば、優しい彼の傍にいれるようにしてください。
どうか、どうか――。
なんて――私の願いは神すら受け入れてくれないことを、後で知った。
約束、したのに。
私は罠の中で、冒険者達に囲まれる中で、静かに声も出さずに泣き続けた。
詐欺師「お兄さん、胃が痛い」
フラウ「刺されても文句はいえんのじゃ」
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