2 盗まれたのは
これはまだ魔女だとか魔法使いだとか呪術師だとかが――だいぶその数を減らしたとはいえ――たしかに存在していた頃の物語である。
だが、当時だろうが今だろうが、ここだろうがあそこだろうが、いつの世のどの場所にあっても変わらないものは変わらない。そんな普遍の理が、ここにもひとつ。
「人の噂なんてのは、とかくあてにならんものである」
巷で囁かれるその男の噂も理の例に漏れず、眉にツバつけて聞かねばならぬような内容を多分に含んだものだった。そうわかっていながらも多くの人がついつい耳を傾けてしまうのは、やはり人の性とでもいうべきものか。
男はとにかく神出鬼没で、はるか東の国にいるらしいという話を聞いた次の日には南のはずれの小国での目撃談があったり、はたまた北の大国に現れたらしいと言う話が漏れ聞こえてきたりで、ちっともその動向がつかめない。
またその容姿ひとつを取ってみても、諸説ある。
闇にとけ込みそうなほどの美しい黒髪であるという者も居れば、いやいや灼熱の太陽もかすむほどの赤い髪だという者もあり、月の光に輝く銀髪だという話もある。
それにその年齢もまた、よくわからんというのである。
壮年の男性だとかいう話もあれば瑞々しい若者だという話もあり、まだまだ少年の域を脱しない年齢らしいという噂も聞かれる。
そして誰も、男の本当の名を知らなかった。
つまるところ、謎だらけだったのである。
ただひとつだけ明らかなことがあるとすれば。
それは男の生業。
男は盗人だった。
こればかりは、実際に物が盗まれているのだからただの噂ではすまされない。
男はいつも、盗みの現場に色鮮やかな鳥の尾羽を一枚残していく。盗みの現場を目撃されることはなく、盗んだものとともに忽然と消え失せるその手腕は、手練れの警吏たちをも唸らせた。
そして男の犯行は、多くの国が厳しい刑を課している中で、まるでそれを嘲るように繰り返されていた。
盗まれるのはいつも派手なものばかり。
たとえば南の国で盗まれたのは、とある貴族の家に百年も伝わってきた宝剣であったし、東の国から奪われたのは王妃が愛してやまない宝石だった。さらに北の国では城の大広間を彩っていたステンドグラスが消えたというから驚きだ。北の国はこの時期なかなか冷え込むので、ステンドグラスの消滅により王様は玉座の位置を変える必要に迫られ、たいそうご立腹だという。
だがそれは逆に言えば、派手なものしか盗まないということでもあった。ともすれば人々から「贅沢に過ぎる」と批判されるような生活を送る大金持ちたちから、贅沢のほんの一部をかすめ取るのだ。そして盗まれた者がその被害に気づいて騒ぎ出す頃には、その街でいっとう貧しい者の家の軒先に、ずた袋に入った金貨が置かれているのが常であった。
そんなだから人々は、男の所業を面白可笑しく語りたがった。
明日の食い物をどうしようかと考えているところに『全国民に告ぐ。王妃の首飾りが奪われた。総力を挙げて盗人をひっ捕らえよ』などという触書きを張り出されれば、少々意地悪な気持ちで事の成り行きを見守りたくなったからとて不思議はない。
捕まってほしいような、捕まってほしくないような。
悪者のような、英雄のような。
そんな人々の思いもあって、男はいつも噂の的になる。
人々は名の知れぬ男をこう呼んだ。
『虹の盗人』
それは男の残して行く極彩色の羽のせいであったかもしれないし、男の容姿に関わる数多の噂のせいであったかもしれない。そしてまた、「虹の付け根には幸福の鍵がある」という言い伝えのせいでもあったのかもしれない。
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「ねぇ、あの盗人の噂をお聞きになって?」
とある小国の王城で今宵開かれたるは晩餐会であった。
すでに亡くなった先代の王の生誕六十五年を祝う盛大な催しに国中からたくさんの人々が集まり、美しく着飾ったご婦人方は噂話に花を咲かせる。綺麗なドレスに豪華な食事、美味しいお酒。常にない贅沢に、普段から滑りがちな口がいつも以上に軽さを増す。
そうして次々に語られる退屈な噂話の中に、やはり今夜もその男の話が紛れ込んだ。
「あの盗人がどうかして?」
「また逃げおおせたそうよ」
「あら、またなの?」
各国の警吏の名誉のために言っておくと、彼らだって決してぼんやりしているわけではない。中にはそういう人も紛れ込んでいるのは否定できないが、皆が皆無能というわけでもない。いわゆる「おとり」の手法をとったこともあったし、街全体に大量の張り込み警吏を配置したこともあった。
だが、警吏たちが苦労して見つけた盗人の隠れ家に踏み込むと、盗人はいつもすでに逃げた後。そして部屋の中にはいつも、美女がひとり残されていた。
女は無論拘束されて事情を聞かれるが、知っているのは男の姿形だけ。
男の名も、職業も。何ひとつ知らされることなく男は消えた、と女は語る。
そしてその女というのが、いつも違う女なのだ。
だから、「虹の盗人はどうやら大変な女好きであるらしい」というのもまた、よく語られることの一つであった。
「今度は隣の国ですってよ」
「あら、そうなの。近いわね」
「宿の主人の話によればね。盗人は前金でたんまりお金を払っていて、それを残したまま姿をくらましたそうよ。それにまた、女の人が残されていたんですって」
めいめい凝った意匠の扇で口元を隠しながら、四人の女性が寄り集まってささやき合う。
「それで? その女の人というのは? この辺りの人なの?」
「いいえ、旅人らしいわ。その宿で出会ったんですって。男の方から声をかけられていい仲になったとかで」
「あらあらあら」
あらあらと言いつつも、ぐいと身を寄せながらささやきは興奮度合いを増していく。
「今度はね、鷹のような黄色い目をした男だったと言ったそうよ」
「黄色? この間はたしか紫だって話じゃなかった?」
「ええ。毎度違うのよね」
盗人の隠れ家で捕えられた女たちは、皆男の容姿を詳細に説明した。
だがそのどれもが、まるで違っているのだ。
盗人の噂があてにならない理由はそこにもあった。
男の姿を間近で見ているはずの人間が、それぞれに異なることを口にするから。
ただ、どの女の話もある一点では一致していた。
『どんな宝石もかすむほどの美しい男だった』
「不思議よねぇ。髪の色はカツラで誤魔化せそうな気もするけれど……目の色を変えることなんてできるのかしらね?」
「魔女の里の長老なら、姿を変える魔法を使えると聞いたことがあるけれど……」
「でも、その魔女に依頼する対価はものすごく高いと聞いたことがあるわ。会うだけでも大変だとか」
「そうよね。毎回姿を変えるだなんて、無理よね」
扇をはたはたと振りながら、女性たちは何やら思案する。
「実はたくさんいるんじゃないかしら」
「え? 盗人が?」
「ええ。『虹の盗人』じゃなくて、本当は『虹の盗人たち』なんじゃないかって」
「『どんな宝石もかすむほど美しい』男がそんなにたくさん? ぜひお仲間になりたいわ」
「でも、盗人と噂になるのは美女ばかりなのよ?」
「あら、私の美貌はこの辺りではちょっとした評判だったのよ」
「それって二十年前の話でしょう」
「嫌なことを言うわね。いい歳なのはお互い様でしょうに」
フフフオホホと平和な笑い声を上げつつ、話はなおも続く。
「それでね、次はこの国が狙われているとか」
「あら、その噂、本当なの?」
「本当らしいの。彼をずっと追い続けている警吏がこの国でもう数週間も何かをかぎ回っているんですって」
「でも、以前同じような噂を耳にしたときは何も起こらなかったわ」
そう言ったご婦人の声は、どこか残念そうでもある。
「そうよね。また、ただの噂で終わるのかしらね」
「何と言っても、この小さな国にはこれといって盗まれるようなものもないし」
山の上の王城を取り囲むように町が発展した王国は、周辺の国々の間に遠慮がちにぽつんとあるような、本当に小さな小さな国だった。大きい国に呑み込まれずにすんでいるのは王族が山の神の加護を受けているからで、それがなければとうにどこかの国の一部になっていたに違いない。
そんな小さな国だから、王城と言っても石造りのこじんまりとしたもので、金銀財宝ざっくざくな気配はまるでない。
「私たちみたいな小金持ちは相手にしないのが、あの盗人のルールのようだし?」
「あら、残念そうね」
「だってそれだけの美貌、一度でいいから見てみたいじゃない?」
「盗まれる心配をしなくていいんだからよかったと思わなくちゃ」
「それもそうね」
ホホホホホホ……
どの辺りが笑いのツボだったのか、婦人たちの大きな笑い声が広間の高い天井に響く。
その大広間を抜けて石の長い長い廊下を進み、いくつもの扉をくぐった先に、人影があった。
城の使用人たちの大半が晩餐会のために駆り出されているためか、辺りにはほかに人の気配はない。
人影は少しも音を立てることなく、また迷うこともなく足早に廊下を進み、大きな木の扉の前で立ち止まった。
そして着衣のポケットから取り出した細い棒を鍵穴に差し入れる。
カチリ。
鍵が外れた小さな音以外に何ひとつ物音を立てることなく扉を開けてみせた人影は、ゆっくりとその先の部屋に足を踏み入れた。
これといって盗まれるようなものもない小さな国で、その日王城からあるものが盗み出された。
それは――
「……ばばぁと………………………ぶぶぅ……」
盗人がこれまで盗んできたものと比べれば、格段に地味なものであった。