1 プロローグ
たぶんまた、のんびり不定期更新です。すみません。
『あんたの願いをひとつだけ叶えてやろう。だが、タダってわけにはいかないよ。代わりにあんたの一番大切なものをもらうからね』
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「やめろぉぉおおおおおおおお!」
夜の闇を切り裂く鋭い声が上がり、川べりで羽根を休めていた黒々しい鳥たちがバッサバッサと飛び立った。
同時に、その川にへばり付くように建てられた小さな宿の、これまた小さな部屋の片隅で男が跳ね起きた。
先ほどの叫びはこの男のものであるらしく、男は半身を起こした姿勢で荒い息をする。ぜぇぜぇという苦しげな声が暗い部屋に響き、見開かれた双眸が暗闇にぽっかりと浮かぶ様はちょっとしたホラーである。
男はしばらく肩で息をしていたが、ややあって「夢か」と口先でつぶやいた。その顔を額から頬、頬から顎へと幾筋もの汗が伝い、顎の先から布団へと落ちる。布団は見るからに湿っぽく、すでにあちこち染みだらけだ。そこに男の汗がじわりと新たな染みを作った。
ぽとり。
ぜぇ。
ぽとり。
ぜぇ。
もとの静寂を取り戻した夜の世界に、汗の滴るくぐもった音と男の息遣いだけが響く。
部屋にはこれといった家具もなく、男のいる寝台のほかには小さな衣装箪笥があるだけ。たった一つしかない小さな採光窓にかかった薄っぺらいカーテンは元の色がわからないほど汚れて黄ばみ、裾の辺りがひどくほつれている。剥がれた落ちた壁の塗装が床と壁の境目あたりに薄く積もり、部屋の隅には蜘蛛の巣が細く光る。
街外れの安宿は月からも見放されたのか、部屋にはごくごくわずかな星明かりがさしこむだけで、それも男のいるベッドまでは届かない。
そのせいで、男の顔立ちはよくわからなかった。
ただ、浮かび上がる双眸が鮮やかな金色であることだけは見てとれた。
「くそ、またかよ……」
男は前髪をくしゃりと掴み、夢を見た自分を責めるかのような悪態をついた。声に力なく疲れ切った様子 で放たれたそれは、意識的にというよりも口から零れ落ちたと言った方が正しいのかもしれなかった。
「一体、何だってんだよ……」
両目をぐっと強く閉じ指に絡めた髪をぐしゃぐしゃと揉んで、何かを必死に考え込むような仕草を見せる。
男はしばらくそうして自らの毛根を痛めつけていたが、結局答えにたどり着くことはできなかったとみえ、体の力を抜いてゴロンと再び横になった。
ぎしりと、寝台が古びた悲鳴を上げる。
男は仰向けに寝転んだまま天井を見つめた。
視線の先にある白い天井には、幾筋かの亀裂が走っている。その周りだけ塗料を厚塗りした跡があるところを見ると、何とか隠そうと努力をしたこともあったらしい。しかしすでに厚塗りの塗料すらもまだらに剥がれ、余計に亀裂を目立たせていた。
男がその亀裂を見ているのかそうでないのかはよくわからないが、金色の瞳はどこか一点に留まって動かない。ぼんやりと考え事をしているようにも見える。
少しして、トコトコと小さな音が聞こえてきた。おおかた屋根裏をネズミが走っているのだろう。トコトコ、トコトコ。一匹にしては足音が多すぎるから、何匹もいるようだ。これほどのボロ宿なら、ネズミの一家にとってはさぞかし快適な住処に違いない。
「あの女……」
男は足音にかき消されそうなほど小さな声でそう言ってからひとつ盛大なため息をついて、上掛けをくしゃくしゃに丸めて掻き抱いた。
「くそ……」
その姿勢のまましばらく眉根を寄せていたが、どうやら随分と疲れていたと見える。表情からは徐々に力が抜け、荒かった呼吸は次第にゆったりとしたものに変わっていった。
ごろん。
寝返りを打った男は、眠りに落ちる直前にもう一言だけつぶやいた。
「ママン」
――maman
この世界で母に対して用いられる、ごくごく一般的な呼称である。