エルコラーノの密室
この作品は一応ミステリーを意識して書いておりますが、特にジャンルを気にせず読んでいただければ幸いです。
第1章「名探偵の牢獄」
パトカーで家まで送ってやると警察は言い出したが、これ以上お世話になるのは嫌だったので私鉄の千扇川駅で降ろしてもらった。ここだけの話、警察には生理的嫌悪感を抱いていたのだ。正直、頭が良いのか悪いのかよく分からない。
千扇川駅からはバスを利用する。美辻野はこのバス路線の終点にあった。この街は有名な企業の社長をやっている俺の親が計画的に作り上げたニュータウンだ。今のところ辺境の地である美辻野と都心を結ぶ交通はこのバスしかないが、地方都市である彩宮しから地下鉄を延ばす計画もあったため、さほど不自由さは感じない。何よりも、山間の何もない所を整備して一つの街を作り上げたことが魅力的だった。俺は機会があれば美辻野に暮らしてみたいとさえ思った。
美辻野は都心からは幾分離れた山間にある。社会科の先生の言うところの、いわゆる扇状地だ。盆地なので夏は暑く、冬は寒い。しかし全室冷暖房完備のニュータウン美辻野なら関係ない。ビバ文明の利器、さすが親父。
俺は数年前から高校生名探偵として名が通っている。空港のオーナーが偽の搭乗ゲートを用意し、迷い込んだ標的の人物を殺害した五年前の彩宮空港殺人事件に俺は偶然でくわし、見事犯人のねらいを見抜いて解決へ至った。それからというもの、俺は度々事件に遭遇し、数々の事件を解決してきた。今日もたった今とある事件を解決したばかりである。
探偵とはヒーローだ。警察は国家機関であるのに対し、探偵はウルトラマンやスーパーマンなどといたヒーローと同義だ。アンパンマンがばいきんまんに負けることがないように、探偵は事件を必ず解決する。これは絶対だ。だから、俺の身の回りに起こる事件の数々は、幾分非現実的なのかも知れない。でもそれが現実なのだからしょうがなかった。俺は俺の役目を全うするまでだ。これが人間の生きる意味だ。現実という物語で自分の役を演じること。
俺はバスの一番前、左側の席に座って本を読みながら移りゆく車窓を眺めていた。駅前広場を出ると突然住宅街になり、それも長続きはせずいつの間にか田舎の畔道になっている。時々駐車場のやけに広い、新築のコンビニが見られることから、この先にニュータウンがあることは確認できた。
美辻野は半年前に入居を始めたばかりの新しい街だ。山間部の俺の親父が買い取った広大な土地に、大規模な住宅街を築いた。街の中央にはホープハイツみつじのという地上六三階建ての超高層マンションがあり、その一階から五階まではショッピングモールになっていた。
数々のチェーン店が軒を連ね、それだけで一つの共同体を形成していた。衣服から食料までほとんど何でも手に入る。イタリア南部の町並みを意識した装飾になっており、赤煉瓦などが多用されている。親父とナポリに家族旅行に行った際、インスピレーションを受けて設計したという。ハイツはドイツ語なのに、イタリアとは一体どういう魂胆だろう。ネーミングセンスが悪いのではなく、日本人の意識が問題なのだ。とりあえず異国情緒のある名前を付けておけば印象はよいだろう、ということだ。ゆゆしきことである。
しばらくバスは山道を進むと、やがて木々の間から開けた土地が眼下に現れた。下り坂になり、住宅街と思しき町並みを右手に眺めながらバスは美辻野の街に到着した。車窓が一気に明るくなる。大小様々の、パステルカラーの住宅が目の前に現れた。一棟一棟の間は普通の住宅街よりも余分にスペースが取ってあり、緑の木々が日光を浴びて輝いていた。美辻野は針葉樹林に囲まれた街であるにもかかわらず、不自然に広葉樹が並んでいる。
美辻野入口バス停を過ぎたバスは木漏れ日の中を進み、やがてホープハイツみつじのにある地下バス折返所にたどり着いた。パステル調のオレンジ色に包まれた空間だった。高速エスカレーターで地上階まで上がり、そこから動く歩道を利用して美辻野の北の方へ移動する。俺以外に現時点で通路にいるのは四、五人程度で、まだ人口密度の低い街だと言うことを痛感した。
美辻野市民会館二階のパルホールで行われる美辻野ミステリー研究会の名誉会長として、俺は毎週土曜日にこの街へ足を運んでいた。ミーティングは夕方五時から行われ、毎週延々と夜九時くらいまで続く。先週は森博嗣派と京極夏彦派に別れて大論争が繰り広げられたため、議題は平行線を保ったまま時間だけが過ぎていき、結局料金が二倍になる深夜バスに乗って帰るはめになった。家に着いたのは午前一時頃だった。
五時まではまだ若干の余裕があるので、俺は市民会館への道のりを引き返し、少しショッピングモールで暇を潰すことにした。
突き当たりに大型の書店があった。棚には新聞や週刊誌などが陳列され、やけに派手な見出しが躍っていた。都内でも欠陥住宅相次いで発覚などと書かれている。俺は基本的にニュースや新聞などは読まない。必要な情報は警察から入ってくるし、今のところ時事問題の絡んだ事件は起こっていない。心配しなくても、探偵なら俺以外でも幾らでもいる。時事問題の絡んだ事件はそういう探偵や警察に任せておけばいい。
ふと、その時背後に殺気を感じた。
俺は急いで振り向くが、遅かったようだ。
口元に変な布が当てられる。叫ぼうとしたが、こんな時に限って声は出なかった。ゆっくりと意識がなくなっていき、視界が白濁していった。
そのまま床に倒れ込み、力が失われていくのを感じた。寝るときの微睡みによく似た感覚だった。目の前のナポリの町並みが渦巻く。周囲が白くなったと思ったら今度は真っ暗になり、俺は意識を失った。
ピアノのメロディーが流れてきた。聞いたことのある曲だが、名前が思い出せない。作曲者はたしかモーツアルトだったと思う。明るく、軽快なメロディーだ。暗闇の中、そのメロディーは突然途切れた。それからしばらくして、誰かの声が聞こえた。
「目が覚めたかな、探偵さん」
まだ真っ暗なままの意識に、アニメの声優のような声が響いた。
「名探偵、佐藤深志! 数年前、彩宮空港殺人事件で鮮烈なデビューを飾る。以後、様々な難事件を解決し、つい昨日も犯人を見事に追い詰めた。大胆不敵なトリック解明を得意とし、どんなに巧妙なトリックでも見破ってしまうその腕は天下一品。史上最年少事件解決数達成にして、美辻野ミステリー研究会名誉会長。こんなところかな、あんたのプロフィールは」
微かに光が水晶体に飛び込んできた。目の前にいる、白っぽい人影。ピントが全く合わない。一旦目を閉じ、再び開いた。状況はさきほどと同じだった。
身体を動かそうとした。右手に全神経を集中させ、持ち上げようとする。効果はない。筋肉は収縮運動を始めているにもかかわらず、身体が全く付いてこないようだ。一体何事だろう。前身が何かに引っかかっているようだった。こんな感覚を味わうのは、探偵人生始まって以来の出来事だった。
「どう、もう目が覚めたでしょう、佐藤くん。まず簡単に自己紹介から行きましょうかね。私の名前は和泉梓。アズサって呼んでくれればいい。これから長い付き合いになると思うから。よろしく」
意識が混乱している。なにやら怪電波キャッチしてしまったようだ。和泉梓、聞いたことのない名前だ。ミステリー研究会の会員は全て把握しているからその人でもなさそうだし、俺のファンならそう名乗るはずだ。なにやらおかしい。ここはひとまず、周囲の状況確認から入りたい。しかし、目の前は相変わらず曇り硝子の向こうの世界のようにぼやけていた。
「いい加減、そろそろ何か言ったら? それとも、まだショックが抜け切れていないの?」
その人影が女性のものだと把握できた。これで耳に入ってくる音声が怪電波などではなく、現実の音声であることがわかる。
「ちょっと、そろそろ起きてよ!」
次の瞬間、左の頬に痛みが走った。急に視界が明瞭になる。最初からこうされていれば良かったのかも知れない、頬を叩かれたことに不思議と怒りは感じなかった。
目の前には制服姿の少女が屹立していた。僕は思わず、彼女を見入ってしまっていた。
「ねえ、君本当に名探偵なの? 普通、誘拐されたらもっと騒ぐか質問してくるんじゃない?」
「え、誘拐? 何の話?」
全く、縁起でもないことを言い出す少女だ。どうして社会は物騒な話が好きなんだろう。もっとも、物騒な話がなければ活躍できない自分が言うのも何かと問題はあるが。
「昨日の午後四時一三分、和泉梓は名探偵佐藤深志を拉致監禁し、本日に至るという次第よ」
「誘拐だなんて、そんな馬鹿な。探偵の俺を誘拐して一体何になると言うんだよ」
「自分の置かれた状況をよく見てみなさいよ! 全く、これじゃあ拍子抜けしちゃう……」
そう言われた俺は自分の身体を眺めてみた。なるほど、両手両足はロープで結ばれ、はめられた首輪から延びた鎖は目の前の少女が握っている。これは立派な監禁だ。彼女の言うとおり、先日意識を失った際に誘拐されたらしい。即効性の睡眠薬でも嗅がされたんだろう、クロロホルムか何かだ。きっと。
「わかった。なるほど俺は確かに誘拐された、うん。でもさっき長い生活になるかも知れないって言ってたけど、それってどういう事?」
「そこには……複雑な事情があるの。あんたには教えられない。だって、犯人が事件の真相をいとも簡単に告げちゃったら、あんたの仕事もなくなっちゃうでしょ? せいぜい考えなさい」
「何なんだよ……よくわからないな」
「あんたこそよく分からないから。もっと俺をここから出せとか叫ぶと思ってたのに……そうしたらただの変態だったじゃない」
「おい、変態って何だよ」
「あんたぼうっと私のこと凝視してたじゃない! 厭らしい目線で!」
確かに、言われてみれば見とれていた気がする。
「変態で悪かったな! もう好きに監禁しろ! 殺すんだったら殺せ!」
俺はやけになって叫んだ。しかし、俺が殺せというと、急にアズサは静かになった。
「それがそういう訳にもいかないの。あんたは人質だからね……えーっと、これ以上は極秘。あまり聞かないで」
「ちょっと待った、目的はなんだ! せめてそれだけでも」
「そこはその立派な頭脳で推理してみたら? 探偵さん」
そんな捨て台詞を吐きながら、アズサはその場から立ち去ってしまった。扉を閉めるとき、「ああ、名探偵って言うんだからもっといい人なのかと思ってた」という小言が俺の耳に入った。
室内には溲瓶以外なにもなかった。窓もないことから、この部屋が最近流行のウォークインクローゼットだということがわかる。そう言えば、頭上には服を下げるための棒が懸かっていた。ペンキの匂いがまだ微かに残っている。ここはおそらく美辻野のどこかであろう。
俺は自分の腕時計を確認した。アズサが弄っていなければ、現在時刻は午後四時一二分、日曜日である。なんとあれから二四時間近く眠っていたらしい。相当強力な睡眠薬を使ったのだろう。
それにしても、男がいたいけな少女を誘拐するのなら話はわかるが、いたいけな少女が男を誘拐するとは何事だろう。しかも本人はなんとなく消極的らしい。期待はずれだったのだろうか、とにかくわけがわからない。
その時、俺の腹部からまるで地揺るがすような音が聞こえてきた。
……腹が減ってきた。どうやら我慢の限界である。まあ、二四時間も眠っていたのだから無理はない。推理したくても、腹が減っては戦ができぬ、である。
「おーいアズサ、何か食う物ないか?」
しばらく沈黙があった。俺は再び声を掛けてみる。反応はない。ひょっとして、もう家の外へ出てしまったのだろうか。そうなったら俺は殺される前に餓死してしまう。そんなの、格好悪すぎる。なんとしてでも、食糧は手に入れなければ。
「アズサ、アズサ! メシ、メシ!」
次の瞬間、アズサは豪快に扉を開いた。その表情を見る限り、怒り心頭に発している。片手には湯気の立ったどん兵衛がある。これほどまでにどん兵衛が美味しそうに見えた瞬間はない。
「そんな下品に何度も言わなくたって、最低限の食事を出さなきゃ死んじゃうことくらいわかってる! 五月蠅い! 勝手に食ってろ!」
そう言ったアズサは少々つゆを床に零しながら、急いでどん兵衛を床に置いて立ち去ろうとした。
「待った、この格好じゃ食えないだろ」
俺は自分の腕を精一杯振り、両手両脚が不自由だということをアピールした。
「せめてこのロープを解いてくれ、勝手に逃げたりはしない。それに、これがあったら溲瓶があっても用を足せないじゃないか。……それとも、アズサが手に持ったどん兵衛を口まで運んでくれるのならいいけど」
アズサは無言でどん兵衛を手にした。箸を左手に持ち、カップを右手に持ち上げる。まさか本当にやってくれるのだろうか。そんな期待を抱いた俺が馬鹿だった。
次の瞬間、アズサは怒鳴り声を上げながら熱々の油揚げ(二倍に増量、当社比)を俺の顔めがけて放り投げてきた。
第2章「エルコラーノの追憶」
油揚げで火傷した顔の一部分を抑えながら、俺はどん兵衛の最後の残り汁を啜っていた。アズサはド変態、大馬鹿、狂人、唐変木、妄想狂、いっそ死ねなどの罵詈雑言を投げかけた後、俺の両手両脚のロープだけは解いて去っていった。どちらにせよ首輪に鎖が壁に繋がっているので、さほど自由に行動はできない。しかし、今の俺には必要最低限の動きができればそれで十分だった。あと、できれば火傷の薬も欲しいところ。
それにしても、アズサは美人だった。これで性格がもう少し穏やかなら良かったのに。もっとも、今のところ俺を殺す気はなさそうだから、ひとまず安心である。さっきは結構無理して言ったのだ。
最初は溲瓶だけかと思ったが、よくよく見てみれば部屋の中には様々な物が隠されていた。例えばこの古びたノートである。どうやら新聞のスクラップらしい。中をパラパラと眺めてみる限り、少なくとも二社以上の新聞記事を寄せ集めているらしい。
新聞記事を眺めてみた。これだけでも暇つぶしになる。あと何日、いや、あと何ヶ月ここにいなければならないのかわからない。今日のところはいいが、さすがにこれが何日も続くと苦痛である。食糧を頂くには、例のアズサ嬢のご機嫌を伺わなければならなかった。なんだか面倒な事態に巻き込まれてしまったようである。
ノートには美辻野の建設計画が持ち上がった際の新聞記事がスクラップされていた。当時、元々美辻野に住んでいた住民を強制退去させての街づくりだったらしい。もちろん、企業からそれなりに金はでているが。
新聞記事を読むのも飽きたので、俺は再び寝ることにした。目を瞑り、アズサの顔を思い浮かべながら微睡みの中へ入っていた。
翌日、起きてみたら時計は午後三時を示していた。最近、睡眠時間が軽く十時間を越えている。これはある意味不健康なのではないだろうか。まあ、毎日四時間程度しか眠っていなかったので、日頃の疲れが一気にでてしまったのかもしれない。寝ると言っても、床に直接寝るのであまり疲れは取れなかった。せめて布団くらいは用意して欲しい。
「もう起きた?」
気がつけばドアは開いていて、パーカーにジーンズという格好のアズサが室内に入ってきた。表情には少し笑顔を浮かべていて、少し機嫌を直したらしい。
「今から鍋をする」
唐突に彼女は言い放った。闇鍋の類だろうか?
「何か変なこと考えてない? 普通の鍋だよ、鴨鍋」
「こんな季節にまた何で鍋を? ひょっとして既に殺した人を鴨肉だと偽って食べさせちゃうとか?」
「そんなわけないでしょ! ここの下にあるスーパーで買ってきた正真正銘の鴨。まあ、たまには二人で食事するのもいいでしょ。多分長い付き合いになるだろうし、そうであればやっぱり仲良くしておいた方がいいからね……多分」
「すると、とりあえず昨日のことは謝ってくれるんだね」
アズサは何も言わずそのままドアの向こうへと去っていった。
冗談かと思っていたら、アズサは本当に卓上コンロと鍋を持ってきた。小皿と割り箸を俺に渡し、それから丁寧に鍋の灰汁を取り出した。鍋からはもう湯気が立っていて、柔らかそうなネギが浮かんでいた。
「アズサさ、昨日から気になっていることがあるんだけど、ここってもしかしてホープハイツみつじのの一室か?」
「……確かにそうだけど、どうしてこの部屋には窓もないのにわかったの?」
「まず、ここが新築だということ。ペンキの匂いがまだ残っている点から、まだ部屋としてさほど使われていないことがわかる。それに、俺が襲われたのはホープハイツみつじののショッピングモールだ。そこから女子高生が一人で運べる場所といったら、美辻野の中に限られるだろう。君に大人の協力者はいなさそうだし、公共機関を使って意識のない俺を運ぶのは不可能だ。最後の極めつけで、ここの床が黒雲母花崗岩でできていること。これは親父の特に好きな岩石でね、本当に好きな黒雲母花崗岩を使ったのは美辻野ニュータウンの中でも特にリッチなマンションであるここだけなんだ」
「そうか、ここを作ったの佐藤くんのお父さんだからね。でも、岩石の種類から場所を特定するなんて、さすがね……やっぱり名探偵だけのことはあるか……」
アズサは語尾を下げながらなぜか残念そうに言った。その間にも鍋の中に入れた肉は程よい色に変わっていたので、俺はさっさと鴨肉を摘んでは自分の小皿に運んだ。眼鏡が曇って視界が真っ白になる。
「ん? アズサ、そこにある香辛料は何だ?」
俺はアズサの手元にある茶色の瓶を指さす。中は赤っぽい液体が詰まっていて、ラベルにはピザを掲げる陽気なおっさんが描かれていた。真っ白な衣服に赤と緑の背景。いかにもイタリア人っぽい。
「これはね、イタリアの香辛料。ほら、ここのショッピングモールってイタリアを気取っているじゃない。イタリア料理の専門店もあるからそこでこれを買ってみたんだけど、パスタ、ピザはもちろんイタリア料理じゃなくてもかければたちまち美味しくなる魔法の調味料だから、試してみれば?」
「いつから悪徳商法の売人になったんだよ、まさか一本五万円とか言い出すんじゃないだろうな。それに鴨鍋にイタリアの調味料かけてどうするんだ」
そう言って、俺はポン酢をかけて鴨肉を頂いた。鴨肉は普段口にしている物より柔らかく、なかなか良い味を出していた。
「調味料は万国共通。これは一本六八〇円よ。それに、うどんにカレーをかける日本人の方がよっぽど変じゃない」
「鴨鍋にイタリアのスパイスをかけているお前は日本人だ」
口に入れたネギがまだ生だった。いまさら出す訳にもいかず、ポン酢とともに喉の奥に追いやる。
「ああもう、何だか腹立つ……私も食べようっと」
そう言ってアズサは箸でせっせと鍋に浮いていた食材をランダムに皿へと運び、例の香辛料をこれでもかといわんばかりに振りかけた。そのまま鴨肉を口に運び、自分の胸を叩きながら悶絶した。暑さのためか、それともやはりかけすぎたのだろうか。案の定、ラベルのおっさんの足下には激辛と書かれている。拘束されて一日になるが、アズサを見ていると飽きない。
「そう言えばさ、名探偵なんだから海外旅行は行ったことあるでしょ? イタリアは行ったことある?」
「まあ、あるけど。イタリアは確か、三年前」
そうヴェネチアに行った際、十年に一度の大洪水に見舞われて大変な目に遭い、ローマで変な浮浪者に絡まれて色々ハプニングがあった旅行だった。
「家族旅行?」
「名義上はね。だけど現地に着いてから親父とお袋は現地のブランド物を買いに行っちゃってほとんど観光はしなくて、俺が個人的にいろんな所を回ったから家族旅行とは言えないかもしれない。みんなでいる時間はせいぜいホテルで寝るときくらい。夕食も朝食もバラバラなんだ」
「ふうん、そうなんだ。良い家系なんだから余程親の教育が行き届いているのかと思ったら、全然そんなことないのね。どおりで変態になるわけだ」
「家系に善し悪しはないよ。エンゲル係数が高ければ子供のために金は使えないし、低ければ子供のために時間を使えないだけだ。家族は俺に無関心だし、俺は家族に無関心。俺はたまたま、エンゲル係数の低い家庭に生まれただけ。変態は万人に宿る」
「私はもっと家族は大切にした方が良いと思うけどな……その、向こうだって愛情持っているんだから、無関心じゃあいけないと思うけど……」
「いいんだよ、本当に無関心なんだから」
俺は無言で鍋をつついた。べたついてもはや原型を留めていない餅がネギに絡みついて離れない。仕方がないので、餅ごと小皿に運んだ。
「うーん、駄目駄目。こんな話はやめようっと。ねえ、イタリアのどこが印象的だった?」
「観光地では……エルコラーノかな?」
「えるこらーの?」
「ポンペイは知ってる? ナポリの近く」
「ああ、それなら聞いたことある。確か近くの火山が爆発して一夜にして灰に埋まってしまった都市でしょ? あれで何人もの人が死んじゃったんだよね」
気がつけばやけに馴れ馴れしく喋っている。どうやら、僕を誘拐したことを忘れているらしい。まったく、ゆゆしき事である。
「西暦七九年、ヴェスヴィオ火山の大爆発によって埋没した古代ヨーロッパの生活様式を残す遺跡だ。エルコラーノもポンペイ同様ヴェスヴィオ火山の噴火によって埋没した都市なんだけど、規模がポンペイより小さいから、日本人にはあまり知られていない。けれどもエルコラーノもなかなか優れた遺跡でね、庶民の生活スタイルが伺えるという点ではエルコラーノの方が上だと俺は思っている。なかなか印象深い場所だよ」
俺はその光景を思い出した。現代イタリアの町並みを歩いていくと、いきなり開けた土地が目に飛び込んでくる。遙か遠くまで広がる断崖絶壁があり、エルコラーノの町並みが眼下に広がっていた。当時、エルコラーノはまだ発掘中の段階だった。俺が立っていた場所自体が火山灰の積もった土地で、この下にも町並みが隠されているのかも知れなかった。
「あの光景は脳裏に焼き付いて離れなかった。イタリア旅行で最も印象深かったのはエルコラーノだね、やっぱり。断崖絶壁の上から古代の町並みを俯瞰すると、まるで昔にタイムスリップしたかのような気分になるんだ。ここで何人もの人が命を落としたかと思うと、戦慄するよ」
「そんな力説されてもね……気軽に聞いただけなのに」
その時、聞き覚えのあるピアノのメロディーが流れてきた。昨日と同じ曲だ。思い出した、あれは確かモーツアルトのピアノソナタだ。恐らく隣室の住民がピアノの練習でもしているのだろう。
「まあ、とりあえずあんたがそんなに悪い人じゃないことは分かった。今日の所は、それだけでも収穫か」
「おいおい、悪い奴だったら探偵なんてできないだろ?」
「そうね……でもちょっと可哀想……」
「なに?」
「ううん、なんでもないの。じゃあ、これからちょっと用があるから、大人しくしていてね」
そう言って、アズサは卓上コンロとともに部屋を去っていった。
第3章「名探偵の犯罪」
月日は驚くほど早く経っていって、既に監禁されてから三日も経過していた。相変わらず外の天気はわからない。いい加減釈放してくれても良さそうなのに、全く出してくれる気配はなかった。それどころか、アズサは最初の頃よりも親密に俺と接するようになった。
まったく、一体何がしたいのだろうか。もしも金目当ての誘拐であれば、俺に正体を明かしたりはしないだろう。普通なら覆面をして変声機で声を変えるはずである。指紋も残したりはしない。
しかしアズサはどうだろう。あろう事か自分の名前まで明かしてしまっているし、同じ鍋の鴨を食った仲である。敵意はない、長い生活になるだろうからよろしくと行っていたが、それらの真意とは一体何だろう。あろう事か、俺の家族に対する無関心さに喝まで入れてくれた。確かに、この前親父とした会話と言えば、会社のパソコンがハッキングされていたんだが何か知らないかと言う質問に対し、しらねぇよと言っただけである。それが一週間前のことで、それ以来親父とは一言も会話を交わしていない。会社のパソコンがハッキングされようが、俺には全く関係のないことだ。そもそも俺にはハッキングする知識がない。そう言えば親父の会社って何って名前だっけ?
毎日、午後四時頃になるとモーツアルトのピアノソナタが流れてきた。きっとどこかの有閑マダムがピアノのお稽古でもしているのだろう。曲の途中で止まったり、唐突に猫踏んじゃったが流れ出すこともあった。
ドアが唐突に開いた。アズサが無言で部屋の中に入ってきた。サングラスと帽子、それに男物のジャージという謎の服装だった。彼女はどういう訳か俯いていて、その表情は伺えない。
「アズサ、そろそろ風呂に入りたいんだけど、ほら、三日三晩も同じ服でいると服がベトついてしょうがない……アズサ? おいどうしたんだよ、まさか俺を殺す気か?」
「そう……じゃない」
蚊が独り言を口にするくらいの音量で彼女は呟いた。上手く聞き取れない。
「俺にできることなら協力してもいいけど……何か悩み事があれば相談に乗るよ。重大な理由があるのなら俺をここに監禁しているのを咎めたりはしないし、むかつくなら油揚げ何枚でも投げてくれ。こう見えても名探偵なんだから、心の悩みが解決するよう最大限の努力はするよ。良かったら全部話して欲しいんだけど」
アズサは屹立したままだった。右手になにやら怪しいアタッシュケースを持っていて、よく見ると彼女の身体は震えていた。
俺はこの部屋から出られない。よってアズサあ隣の部屋で一体なにをしているのか、見当もつかない。毎朝九時、午後一時、夜七時になれば食事を出しにやってくるだけである。
そう言えば今日の昼は朝九時、朝食と共に出てきた気がする。本人曰く、今日は遠出するからとのことだった。俺は仕方なく、午後一時まで冷たくなった弁当を我慢しただけだった。
「アズサ、今朝から今まで一体何をしていたんだ? そもそも、どうして俺なんかを拘束しているんだ? 頼む、少しでも良いから情報が欲しい……」
アズサは一向に話そうとしない。その時、サングラスの向こうから得体の知れない液体が垂れてきた。どうやら泣いているらしい。よほど深刻なことがあったのだろうか。俺は今すぐにでも彼女の素顔を隠しているサングラスを外したくなったが、この鎖が邪魔でこれ以上前には進めなかった。
俺はしばらく黙っていた。なるべくアズサの話しやすい状況を作った。しかし、五分経過しても彼女は話してくれなかった。もう数日間も監禁されている俺にとって五分間はさほど長くは感じなかったが、アズサにとってはかなり長い時間だった。涙が流れ出してから止まるまでに、丁度良い時間だった。
「わかった。アズサ、無理に真相を教えてくれなくたっていい。明るみに出ない方が良い謎だって世の中には存在することくらいわかっている。だけど、俺に何か出来ることがあったら言って欲しい。俺もただここに監禁されているだけというのは嫌だ。それではただの犯罪になってしまう。何でも良いから、手伝うよ」
「……本当?」
アズサの声は震えていた。今にも崩れてしまいそうなその身体を、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
「ああ。もちろん、秘密は守る。仮に俺を釈放してくれたとしても、アズサのことは何も言わない。警察にはしばらく一人旅に出ていたと言えば良いだけだ。だから……俺がここにいる存在意義が欲しい」
どうして俺がアズサの力になろうとしたのだろうか。監禁したのは確かに犯罪かもしれないが、彼女はそれよりももっと大きな犯罪に包まれているような気がしたから、どうしても彼女を悪者扱いできなかったのかもしれない。名探偵の勘というべきだろうか。もっとも、勘で事件を解決しようとするならそれはそれで探偵失格だが。
「わかった。一つ頼みがあるの。佐藤くんが名探偵であることを信じて」
そう言ってアズサはゆっくりとサングラスに手を伸ばし、左手でそれを外した。どうしようもなく狂おしい表情が露わになった。そして少し赤く充血した瞳が、冷酷に俺を見下ろした。
「完全犯罪を、考えて欲しいの」
アズサに言われた指令は、絶対にばれないトリックを考えることだった。
アズサが部屋から去っていってから、俺はしばらく何か良い案がないか考えていた。まさか探偵の俺が殺人の仕方を考えるとは思いもしなかった。本来、解けない謎はないという信念を持って生活している俺にとって、解けない謎を作る野は至難の業だった。だってそうだろう、自ら矛盾を生み出すようなものだ。俺はしばらく考えてから、一つの結論に達した。何だ『俺だけしか解けない謎』を作ればいいじゃないか。
完全犯罪。それは警察を思考停止させること。それが第一だ。
事件の捜査なんて面倒くさいことはしていられない。それが恐らく警察の本心であろうと俺は踏んでいる。だから、一度それが事件なんかじゃないことに気づいて捜査をやめれば、そこで犯罪者側の勝ちなのだ。逆に言えば、探偵に必要な条件とはどんなに決定的な事項でも深く追及すれば何かわかるかもしれないから疑ってかかれ、ということだ。
ここはミステリーの真骨頂とも言うべき、密室トリックを使ってみるべきだろうか。
密室にすることの利点は二つある。一つは不可能犯罪で警察や探偵の目を惑わせること。もう一つはそれを自殺だと見せかけて、そこで警察の思考を停止させること。密室殺人は一見、一家心中のようにも見えることを上手く利用する方法だ。
俺は天井を仰ぎながら、しばらくいいトリックがないか考えてみた。黒雲母花崗岩の床がひんやりとして冷たい。しかしその冷たさは、俺の脳にインスピレーションを与えてくれなかった。
解けない謎はない。しかし、こうして自分で自由にトリックを考えろと言われてみると、なるほど確かに難しいものだった。なぞなぞが解けても、それを考えるのは案外難しかったりする。まるで百人一首の下の句から上の句を考えるような作業だった。一見簡単そうなのに。
過去の前例を使ってみようと、自分が今まで解決してきた数々の事件を振り返ってみたが、どれもこれも馬鹿げたトリックで使い物にならない。俺は今までこんなにくだらない事件を解決していい気になっていただなんて。そう思うと段々憂鬱になってきた。名探偵とは名ばかりで、本当はただ単にくだらない事件群に遭遇しているだけの話かもしれない。そうならきっと、俺は単なる疫病神だろう。
何だか一気にやる気がなくなった。俺は近くに転がっていたスクラップノートを手にし、パラパラと中をめくってみた。相変わらず新聞には仰々しい文字が躍っていて、パワーエス産業の欠陥住宅が相次いで発覚などと書かれていた。他の見出しには住民、ノイローゼで自殺かとも書かれている。気にはなったが、細かい文字を読む気にはならなかった。すぐにスクラップノートは飽きてしまった。俺はそのノートを放り投げ、近くにあった物を物色した。どうやらアズサはこの部屋を物置代わりにしているらしく、不要になった物やその他の生活雑貨が散らばっていた。そう考えると、俺はアズサにとって単なるお荷物らしい。ゆゆしき事である。
次の瞬間、俺は意外な物を発見してしまった。
アズサが持っていたアタッシュケースである。彼女はこれを置いたまま立ち去ってしまったのだろう。どうするべきだろうか、少々罪悪感には苛まれたが、やはりここは中身を確認しておきたいところである。
しかしいざ開いてみたら、なにやら異様な物が大量に入っていて、俺は思わず声を漏らした。
「なんだ、これ」
縦約九センチ、横約一六センチに切り取られた、幾枚もの新聞紙。束になってそれこそ無数に詰まっていた。なんだか不気味になって、俺は思わず手にしていた新聞紙の束を落としてしまった。これは一体何だろう。
アタッシュケースに詰め込まれた、四角く切り取られた新聞紙の束。それを持つアズサの震える身体。スクラップノートに集められた事件の数々。そしてアズサが、俺を誘拐した理由。
何だか嫌な予感がした。
時計を見たらもう夜十時だった。俺はここに来て以来、早めに寝て遅めに起きる習慣を身につけている。そろそろ寝る時間だ。気になることは山ほどあるが、睡眠時間を削る気にはならない。
俺は黒雲母花崗岩の上に大の字になり、不自由な身体を目一杯伸ばしながら大きな欠伸をした。こんな生活を繰り返していたら間違いなく運動不足になると思って、笑い事で気を紛らわせようとした。本当は気が気でしょうがなかった。
とりあえず、俺は密室トリックを考えることに決めた。実を言うと、自宅の一室を使い、部屋の外から鍵を掛けることができないか、何度か試してみたことがある。いずれも失敗したが、何か他に道具があれば出来るかも知れない。鍵の構造を思い出しつつ、明日から引き続き試行錯誤していくことにしよう。俺はそう、堅く心に誓った。
寝る際、無意識にアズサの笑顔を想像してしまう自分に気がついた。
用意する物は七輪、練炭、なるべく燃えやすい糸、ガムテープ、そして形状記憶合金。これは曲げたり変形させたりしても熱を加えれば元の形に戻るという優れもので、高校の理科室から盗んでくればいい。
むやみに人を殺す必要はない。殺したい奴を睡眠薬か何かで眠らせておき、部屋の中に放り投げておけば十分だ。それから、室内の隙間という隙間をガムテープで塞ぐ。このときはゴム手袋を使用するか、指にボンドを塗って指紋を消しておくと良い。
七輪をドアのすぐ側に置いておく。形状記憶合金を七輪の近くに固定する。七輪の中央から少し離れた場所の方がいいかもしれない。なるべくなら、全てが終わった後に形状記憶合金が七輪の中へ入ってしまうような場所に置いておく。このトリックではどうしても形状記憶合金は七輪に残ってしまうから、臭い物には蓋を精神を忘れずに。
一つ忘れていた。スライドするタイプの鍵がある部屋を使うのが一番良い。回転させるタイプでもできないことはなさそうだが、鍵を掛ける際極端に力を加える必要のある鍵は避けた方が良い。ちょっと条件が難しいかも知れないけど、そこは勘弁してくれ。
それから、スライド式の鍵に紐を結んでおく。その反対側は変形させた形状記憶合金に結ぶんだ。もうわかったね。そう、熱で形状記憶合金が元の形に戻る力を利用して、部屋の鍵を掛けるんだ。
最後に練炭に火を付け、すばやくドアを閉める。間違っても部屋の外からガムテープで隙間を塞ぐなんて馬鹿なことはしないように……外部犯だとばれてしまうからね。ドアの隙間くらい、ガスが漏れても仕方ないだろう。
後は室内が一酸化炭素中毒になり、静かに息を引き取ってくれるのを待つだけ。上手く鍵が閉まらなかったら、もう一度形状記憶合金を冷やしてリトライすればいい。ただし、あまり時間は掛けられない。なるべく事前に練習し、コツを掴んでおくと良い。
紐は燃えてしまうし、残る証拠と言えば一欠片の形状記憶合金だけだ。うまくいけば、七輪の金具だと勘違いさせることもできる。いずれにせよ、この状況を見て自殺以外の結論を出す警察は十中八九いないだろう。これぞ完全犯罪だ。こんなもんでいいかな、アズサ。
第4章「エルコラーノの狂気」
以下が昨日、俺がアズサに語った完全犯罪の一案だ。あまり自信はなかったが、一応実現可能そうなトリックにはなったと思う。
今日もアズサは朝食の時点で昼食も持ってきて、夕食までには変えるとメッセージを残して去っていった。二度目なので、もう慣れてしまった。
今日になってから気になる出来事が幾つか起こった。まず、食事がいきなり格段に豪華になったこと。朝食には鮭の塩焼きが出てきたが、いざ食べてみると驚くべき事にこれが鮭児と呼ばれる高級品なのである。特定の季節に北海道などで獲れるが、ここではほとんど幻に近い料理だった。一体幾らするのかはわからないが、とにかく驚いた。一体どういうことだろうか。それに、塩焼きということはアズサの手料理である。今までのインスタントな生活とは訳が違った。
もう一つは今まで毎日午後四時になると流れていたピアノ演奏が無くなってしまったこと。昨日まで毎日欠かすことなくモーツアルトのピアノソナタが演奏されていたのに、どうして急にやめてしまったのだろうか。まあ、おそらくは旅行などといった個人的な都合に違いないが、なんだか全ての出来事がこれから起こる災いを暗示しているようで、あまり良い気分ではなかった。
夕方六時頃、アズサは帰宅した。両手には布団を担ぎ、額には汗が滲んでいる。いたいけな少女一人が布団を運ぶのはさぞかし重量道だったろう。
「どうしたんだよ、布団なんて持って来ちゃって……いや、今までぞんざいな扱いだったのに、どうして急にこんな好待遇になったの?」
「今までも拉致監禁にしてはそれなりに好待遇だったつもりだけど、まあ気分かな」
布団を等加速度直線運動で鉛直方向に落下させ、他の荷物を取りに行くため再び部屋の外に出てはすぐに戻ってきた。なにやら怪しい段ボール箱である。これだけ物を持ってきてもまだ人が三人くらい寝られるスペースがあるこのウォークインクローゼットに驚きが隠せなかった。
制服姿のアズサはやはり誘拐当初の覇気がなくなっていた。俺の知らないところで色々苦労しているのだろう。できれば彼女を助けてやりたいのに、この鎖がそれを許さない。
服装はいわゆるセーラー服というやつだ。コスプレではなく、正真正銘彼女の通っている高校のものだろう。そう言えば、彼女はちゃんと学校に通っているのだろうか。ひょっとしたらひきこもりなのかもしれない。
彼女は荷物を運び終わると、今度は食料品の整理に取りかかった。片手にネギを持ち、もう片方の手でスーパーの袋を漁っている。
「何しているんだ?」
「いや、やっぱりこれから生活長くなりそうだから……必要最低限の生活用品」
彼女はそこまで言うと、突然俺の方を見て意外な台詞を口走った。アズサの表情は疲れ切っていた。
「それよりさ、お風呂入りたい?」
やはり好待遇になっている。やはり俺に対する罪悪感が募ってきたのだろうか。駄目だ駄目だ、こんな空気ではとても間が持たない。
「風呂? もしかして一緒に入ってくれるの?」
「そんなわけないでしょ変態!」
アズサは衝動的に手にしていたネギで思いっきり俺の頭を殴った。痛くはなかったが、ネギの折れた箇所からこぼれ落ちた飛沫が目に染みた。風船のように頬を膨らませているアズサはしばらく俺の顔をまじまじと睨みつけていたが、やがてまったくしょうがないんだからと良いながらくくくっと笑い出した。名探偵の俺を誘拐する奴は、やっぱりこうでなくちゃ。
「どうしたんだよ、遂に発狂しちゃったか?」
「違うの……あははっ、なんでもないの。くくくっ」
今まで鬱憤していたものが全て抜け落ちていくように彼女は大笑いしていた。一見情緒不安定のようだが、俺にはアズサが今にも壊れてしまいそうで、俺は決して表情には出さなかったが、少し哀しかった。たった一言、相談してくれればいいのに。もうすでに俺を拉致監禁するという犯罪を犯しているので、今更後戻りできないだろうと思っているに違いない。
とても簡単な解決方法があるのに。
拉致監禁も、それが恋人同士であれば全く問題ないのだ。
お互いに愛し合うこと、それが今俺が考えられる唯一にして最高の解決策だった。
もうとっくに気がついていた。俺が彼女を求めていることも、彼女が俺を求めていることも。しかし、俺の案外硬派な性格が、話を切り出すタイミングを逃していた。俺が彼女を救ってあげられないのは、結局俺がこんな性格だからだ。それがもどかしくて、どうしてもアズサを茶化すことしか思い浮かばない。アズサの表情を見る度に、精神が活動を停止させてしまう自分がいた。
「そうそう。もう長い間ここに閉じこめたままだったから、何か一つでも願いを聞いてあげようと思ってね。ほら、この前風呂に入りたいって駄々こねてたじゃない。だから、せめて今日くらいは入れてやろうと思ったから。もちろん、逃げ出さないよう細心の注意は払っているつもりだけど、くれぐれも逃げ出さないようにね。もっとも、服は私が預かるから逃げだそうとしても無駄だろうけど」
「やれやれ、今度は服を人質に取るのか。まあいいや、とりあえず入らせてくれ」
俺がそう言うと、アズサは自分のポケットから鍵を取り出し、俺の首輪をはずした。首の周りは汗がベトついていて、不快感抜群だった。
「ついてきて、風呂場を案内するから」
アズサは無意識的に俺の手を取り、それに気がつくと急に顔を赤らめて俺を睨みながらそれを引っ込めた。それからアズサは俺の服を引っ張り、風呂場へと連行していった。
廊下を歩き、暖簾のような布をくぐって脱衣所へ辿り着いた。さすがはホープハイツみつじの、脱衣所の広々とした雰囲気が実に良かった。陶器の白さが際立った、清潔感溢れる脱衣所である。
アズサがカーテンの裏に隠れている隙に俺はさっさと服を脱ぎ、ザバーと豪快な音を立てて浴槽に飛び込んだ。眼鏡が曇ったので急いで取り外した。待ちに待っていた風呂だったが、浴槽が広すぎるせいかなんとなく味気なかった。自宅の風呂はもうちょっと狭くて、こぢんまりとした風呂に慣れているとどうしても落ち着けないのだ。
アズサは風呂の入口である曇り硝子のドアに背を持たれて座っていた。風呂場から彼女の影が望めるが、なぜかとても小さい背中に見えた。風呂を少しかき回すとたちまち湯気は発生した。彼女の白い背中は白い靄に包まれたまま消えてしまいそうだった。
「そう言えばさ、アズサって学校に行ってないの?」
前々から聞きたかった質問だった。もっとも、今一番聞きたいことは別にあったが、唐突にそれを切り出す勇気はなかった。
「うん。今は行っていない。学校どころか、親もいないし彼氏もいないよ。佐藤くんは彼女いる?」
「こんな変態に彼女がいるわけないだろ」と俺は苦笑混じりで行った。アズサは案の定くくくっと笑った。それから、大きいため息を吐いた。
「両親はこの間自殺しちゃった。ちょっと込み入った事情があって説明すると長くなるから省くけど、どうしようもなかったのかもしれない。少なくても、子供の私に出来ることは何一つ無かった。うん、両親が死んでしまうのは宿命だったのかもしれない。そんなわけだから、佐藤くんの家族がお互い無関心だと言うことを聞いて、少しやるせなく思ったの。ああ、世の中って理不尽だなって」
俺は無言になってしまった。本来であれば、彼女に彼氏がいないことを知って喜ぶべきなのかもしれないが、不思議と楽観的にはなれなかった。普段の俺ならいとも簡単に舞い上がっているはずなのに。何だかしまいには自分のこともよく分からなくなってきた。
俺は風呂の中でじっと下半身を見つめる。こんなに脆弱な身体で今まで良く名探偵を気取ってきたものだ。名探偵とは言え、高校に行けばただ周囲より少しだけ頭がいいだけの存在なのだ。運動が不得意で、球技大会や体育の時間はいつもクラスのメンバーに迷惑を掛けていた。俺は持ち前の明るさでその場を切り抜けていたが、いつも空回りして結局何でもなかったのかも知れない。俺が輝けるのは、事件の現場だけだ。
「佐藤くん、どうしたの?」
さっきから黙り込んでいる俺に違和感を感じたのだろうか、アズサが曇り硝子の向こうで少し頭を上げながら尋ねてきた。そうだ、今は事件の真っ最中なんだ。アズサという謎の少女に誘拐され、監禁されている真っ最中である。ここで輝かないでどこで輝くのだ。
「悪い、ちょっと考え事をさせてくれ……ほら、風呂場で考えるのが名探偵である俺のやり方なんだ」
アズサにはそう適当に嘘を吐いておいた。彼女は何の疑いもなく、うんと頷いた。
俺はバラバラになった事件の破片を寄せ集め、それらを繋いでいく作業をする。アズサが真実を告げてくれれば一番楽なのだが、どうもそう簡単にはいかなかった。ここは自分の力で事件の真相を把握する。そして、全てを解き明かした後に、アズサに愛の告白をして例の作戦を実行に移せばいい。元から事件はなかったんだ、ただ俺が愛人であるアズサの家に潜り込み、数日間寝泊まりしていただけなんだ。だからアズサは悪くない。俺がそう言えば、何の問題があるだろうか。警察や世間の目なんて、幾らでも欺くことが出来る。
風呂の中で手を動かすと、細かい気泡がゆるゆると水面近くまで上がってきて、やがて消えて無くなってしまった。
……待てよ。
あのアタッシュケースに入っていた新聞紙の数々は、ひょっとしたら札束を模したものだろうか。だとすれば、アズサが俺に完全犯罪を要求してきた謎とも繋がってくる。俺は風呂の中本気で考え込んでいた。湯気は時が経つにつれてその姿を失い、やがては見えなくなるまでお湯の温度が下がってしまった。そして全ての構造が明らかになったとき、この事件は当初の俺の予想を遙かに越えるからくりになっていたことに気がついた。
「佐藤くん、ひょっとして……」
「ああ、どうやら俺はとんでもないことを言ってしまったみたいだ……」
ぽちゃんという水の響きが、哀しい推理ショーの幕開けとなった。
第5章「名探偵の推理」
アズサはウォークインクローゼットの中に持ってきた布団を敷き、制服姿のままそこに寝転がった。俺は壁際に座り、壁に背を持たれながらアズサを眺めている。再び首輪をはめられてしまった。
「今日はここで寝させて。別に甘えているわけじゃないけど、今までずっと独りぼっちだったからたまには良いかなと思って」
「どうしちゃったんだよ、いきなりそんなことを言い出して……数日前なんか油揚げ投げてたのに」
俺も薄情者だ。知っていてわざとこんな質問をするのは、よほど性格がひねくれている証拠だろう。
「気にしないで。それと、間違っても夜中に私を襲わないでよ。指一本でも触れたら、その瞬間命はないと思って」
「はいはい」と俺は言った。俺を威圧しようとしているらしいが、声のトーンが低いので本気ではなさそうだった。かといってむやみやたらに襲ったりするほど、俺はデリカシーのない男ではない。今は、近くにアズサがてくれるだけで十分だった。
「ところで、さっき佐藤くんはとんでもないことを言ってしまったぁと言っていたけど、あれは一体どういう意味なの? 名探偵の言うことだからきっと何か意味があると思うんだけど……」
「ああ、その言葉の真意については話すと長くなるんだけど、もし良かったら話を全部聞く?」
「話って、何の話?」
「もちろん、一連の事件の真相だよ。君がなぜ俺を監禁したのか。それと、アズサの身の回りには一体何が起こっているのかということ」
「面白そうね、聞いてみたい。多分退屈しのぎにはなるから」
「おいおい、名探偵の推理を退屈しのぎと言ってもらっちゃ困るよ。超一流のシンガーソングライターがたった一人だけのために作曲して生ライブをするみたいなものなんだから」
俺は冗談を言って気を紛らわせる例の作戦に出た。どうやら緊張すると俺はこれしか思いつかないらしい。ゆゆしき事である。
「確かにそうかもね、それじゃあ聞かせてもらおうかな、変態さん」
少々文末が気になったが、俺は構わず話を切り出すことにした。アズサが一ナノメートルほどの微笑みを見せてくれた。
「時間軸を基準に考えていくことにしよう。まず第一の手がかりになるのはこのスクラップノートだ」
俺は室内に転がっていた例のスクラップノートを手にした。アズサは一瞬反応したが、特に不思議がる様子はなかった。
「いや、最初は気づかなかったけど、事件の真相ほとんどはここに書かれていたんだよ。スクラップノートの前半部にはここ、ホープハイツみつじのを建設する際の状況やもめ事などがスクラップされている。しかしノートの後半にさしかかると、急に物騒な話題が出てくるんだ」
俺はノートを自分の前に持ってきて、その内容を朗読した。
「見出しは『パワーエス産業の欠陥住宅が相次いで発覚』。おとといに引き続き、昨日もパワーエス産業の欠陥住宅が一棟明らかになった。欠陥住宅と断定されたのは彩宮市呉橋三丁目にあるマンションで、規定よりも鉄筋の重量が少ないことが判明した。震度三程度の地震で倒壊の虞もあり、住民はパワーエス産業の指定する他のマンションに緊急避難した。対応は比較的速やかに行われたが、相次ぐ欠陥住宅の発覚で住民はパワーエス産業に対し怒りを隠せない模様である。これに対しパワーエス産業広報担当山田氏は、住民に対しては説明会を行い、これから順次対応を検討していくつもりだ、と話していた。云々」
俺は早口で記事を読み上げると、パラパラとノートをめくり、該当するページを引き当てた。
「ちなみに、俺がアズサに襲われる直前、ショッピングモールの本屋にあった新聞、雑誌などにも『都内でも欠陥住宅相次いで発覚』という見出しが出ていた。それと、このスクラップ帳からもう一つ。見出しは『住民、ノイローゼで自殺か』。まあ内容を読むのは面倒臭いから概要だけ説明すると、四十代の夫婦が自宅を欠陥住宅だと指摘され、ノイローゼになって自殺したというものだ。これももちろんパワーエス産業の仕業でね、まあ酷いもんだよ、作ったマンションがほとんど欠陥だったんだから。業界最大手だったのも、極限までコストを切り詰めて次々と安い建築物を作っていたからだ。家は一生の買い物だからね、それが欠陥だったと知ったときのショックは大きい。中には、ローンが残ったままどん底まで落とされて、自殺してしまった夫妻もいたということだよ」
アズサは無言で頷いていた。どうやら黙秘権を発動させているらしい。
「そう、ここが一番最後まで引っかかっていた箇所なんだけど、ついさっきその謎が解けた。アズサ、君の両親は自殺したと言ったね? それなら話は簡単だ。欠陥住宅を購入し、ノイローゼになって自殺してしまったのは君の両親なんだよ!」
アズサは無言だった。さっきから布団に俯せになっているのでその表情は伺えない。俺が大丈夫か、と尋ねたら、大丈夫、続けてというそっけない返事があった。その声色は普通だったので、俺は推理の発表を続ける。
「それからもう一つだ。このパワーエス産業という会社、どこかで聞いたことのある会社だとは思っていた。それと同時に、俺は親父の会社の名前を思い出せずにいた……これも簡単なこと、俺の親父の会社は今話題のパワーエス産業だったというわけさ。これはただたんに俺が忘れていたと言うことだけの話だ。まあ、前も言ったけど我が家は互いに驚くほど無関心だったからね、無理はないと思う」
「信じられない。いや、あんたの頭脳が信じられないってこと。どうして親の仕事知らないの?」
「アズサの家庭はわからないけど、親の仕事を知らない子供なら今の世の中結構いる。仮に知っていたとしても、その役職名や具体的な仕事の内容まではさすがにわからないだろう? 中には知っている子供もいるかもしれないけど、親だって子供が何年何組の何番で何クラブ、何委員会に属しているかを知っている人は少ないはず。アズサには信じられないかも知れないけど、忘れていたんだからしょうがない。まあいいや、話を続けよう。パワーエス産業は親父の会社だ。親父の会社と言えば、ここホープハイツみつじのを建設したのも俺の親父なんだ」
「そう、当たり前じゃないの」
「俺が聞きたいのは、どうしてアズサがそれを知っているのか、ということだ」
「…………!」
「もうとぼけたって無駄だよ」
アズサは驚いたようで急に起き上がり、俺の顔を不思議そうに眺めた。それを見た俺はわざとらしく床を指さした。
「ほら、ここの床が黒雲母花崗岩で出来ていると言ったときのことだ。俺の親父は黒雲母花崗岩が好きだからね、と俺がとくに何の説明も加えずに言ったとき、アズサは、ここを作ったの佐藤くんのお父さんだからね。でも、岩石の種類から場所を特定するなんてさすがね、と言ったんだ。
どうして俺の親がホープハイツみつじのを建設した何てことをしっているんだ? 例えば俺が御手洗とか小鳥遊とか、珍しい苗字なら、親父の名前かもしれないと気付くこともできるだろう。けれども俺の名前は佐藤深志だし、親父の名前も佐藤哲也だ。どこにでもいる、平凡な苗字なんだよ。これはわざわざ調べなきゃわからないだろう。もしくは、俺が親父の息子だと言うことを知って犯行に及んだのか、どちらかだ。この場合、きっと後者だろうね」
「あのときにはもう気がついて、私をはめようとしたの?」
「薄々感じていただけだけどね。とにかく、俺を誘拐した動機は俺の親父にあったというわけだ。事件に至までのあらすじを簡単におさらいすると、パワーエス産業のマンションが不良品であることが判明した。それによって、アズサの両親は自殺してしまった。アズサは天涯孤独のみになり、両親を殺した恨みを晴らすべく復讐を決意したんだ。そして簡単に殺してしまうのではなく、まずは身の回りの幸福を奪っていくことから始めようとした。親父の身の回り……それで、俺を誘拐しようとしたんだ」
「お見事。今のところ、間違っている推理は無いと思う」
アズサはそう言いながらも、なぜか冷淡な表情を浮かべていた。どうやら落ち着きを取り戻したようである。俺は構わず推理の大詰めに入ることにした。
「そんでもって、次に出てくるのが監禁されてから三日目の出来事だ。その日は朝食の準備とともに昼食が出てきて、結局アズサが返ってきたのは夕食前だった。高校は両親の死を理由にしばらく休んでいるはずだし、一体アズサは朝から夕方まで何をしていたのか。それを解くヒントが、あのアタッシュケースにあった」
俺は例のアタッシュケースを指さした。
「問題はこの中身だ。札束状に切り取られた新聞紙が無数に入っている。これは一体何を意味するのか」
調子に乗ってきた俺は眼鏡をくいっと持ち上げ、最後のフィナーレを飾る心の準備をした。
「恐らくこういうことだ。俺の親父には身代金目的の誘拐だと偽って連絡を入れ、監禁してから三日目に所定の場所に金を揃えておくよう指示した。数千万円以上は要求したはず。けれども、いざとなって親父が用意した物はこのアタッシュケースだったんだ。ダミーの紙幣。ダミーどころか、一回開ければわかるようなくだらない子供遊びだよ。アズサはそれをろくに確認もせず、家に持ち帰ってきて愕然としたんだ。なんだ、これはってね。
息子を誘拐しても全く動じない親。これは殺すしかないとアズサは考えた。そこで絶対にばれずに俺の親父を殺す方法を、よりによって息子の俺に聞いてきたんだよ。ポイントは俺がアズサに言ったトリックなんだけど、アズサ詳しく覚えているか?」
「練炭をドアの近くに据え置き、形状記憶合金をセットする。紐の端を形状記憶合金に結び、もう一端をスライド式の鍵に結んで……」
「そこだ。スライド式の鍵なんて、普通滅多にない。この時点で実現は難しいトリックだったんだよ、これは。通常ミステリー小説でこのようなトリックが使われる場合、犯人は前もってこのような鍵の構造になっている屋敷に、探偵を招待する形を取って居るんだ。だからこそ実現可能になるんだけど、この場合は違う。アズサが襲いに行くんだけど、そこがスライド式の鍵になっているとは限らない。このトリックが実現したのは、偏にトリックを使った場所が俺の自宅だったからなんだよ。そう、俺は自宅の鍵のタイプを考えながら完全犯罪のトリックを練ったんだ。つまり、アズサは俺の自宅で、俺のトリックを使って、俺の両親を殺したんだ!」
両親を殺されようが、別にアズサに怒りは覚えなかった。金ならいくらでもあるはずなのに、身代金に新聞紙を出してきた親である。子供のことなんて考えちゃいないんだ。欠陥住宅ばかり作る、サイテーの親なんだ。だから俺はむしろ、両親を殺してくれた親に感謝していた。
「だから俺は大変なことを言ってしまったと言ったんだよ。だって、俺がトリックを言ったから、俺の両親は殺されたようなものだからね。まあいい、これが今回、俺とアズサにまつわる事件の全てだ」
決まった、とばかりにガッツポーズを取っていた俺に、アズサは冷酷な微笑みを浮かべていた。
「それで、終わりなの?」
第6章「エルコラーノの密室」
次にアズサが取った行動は奇怪なものだった。その辺に転がっている段ボールの中から鎖を取り出し、その先端に付いた輪をあろう事か自分の首にはめた。よくよく見てみるとその鎖は段ボールの中から延びているのではなく、俺の鎖が取り付けてある天井のすぐ側に括り付けられていた。一体どういう真似だろう。
「あはっ、これで平等ね」
自らを拘束したアズサは一言だけ笑顔でそう言うと、再び冷淡な表情に戻ってしまった。
「確かに出来事は佐藤くんの推理でまちがいない。でも、私のことがまったくわかっていない」
「え?」
「佐藤くんは甘い。私がこんなことをしたのには、もうちょっと入り組んだ動機があるの。まず、元々私は佐藤くんを殺すつもりだった。今も殺すつもりなのは変わらない。けれども、どうして長い付き合いになるからと言って、色々佐藤君の面倒を見たのか、本当にわかっているの?」
「アズサ……やっと真相を語ってくれる気になったんだね……」
「うん。もう、何もかも遅いから……」
アズサは意味深な言葉を発した。彼女は乱れた前髪を整え、身長に言葉を選びながら、俺も解けなかった事件の真相を語り始める。
「佐藤くんを誘拐して、最初は達成感でいっぱいだった。佐藤くんの寝顔を見ながら、これで復讐の第一歩は果たせたと思ったの。きっと起きたら驚くなあと思って。だけどいざ佐藤くんが起きてみたら、予想外の反応に出た。この時から私の計画は狂っていたのかも知れない。でも話していく内に、そこまであんたが悪い奴だとは感じなくなってきた。
家族の話を聞いた。イタリアに家族旅行なんて、素敵な家族だなと思った。私の家族なんかお金もなく、やっと買ったマンションも欠陥で、しまいには死んでしまったんだもの。多額のローンを残してね。だけれども、佐藤くんの家庭がお互い無関心であることを聞いて、なんだか少し哀しくなったの。ほら、うちはお金はないけど、私のことはちゃんと面倒も見てくれたし、それなりに会話もあった。だからそこで、少しだけ優越感に浸ったの。我が家にはお金はないけど愛はあったってね。けれども、その優越感は長続きしなかった」
「俺の両親を脅迫したけど、息子のことにはまるで無関心だったってわけだね」
「そうよ! 私は変声機で自分の声を変え、佐藤くんの自宅に電話を入れた。息子を帰して欲しければ、二千万円用意してアタッシュケースに入れ、指定した場所に置いておけってね。定められた時間に来なかった場合、すぐに息子を殺すとまで言った! なのに……それなのに、渡されたアタッシュケースはあんな巫山戯たものだったのよ! 子供を殺すとまで言ったのに、あまりにも無神経じゃない?」
「しょうがないんだ。昔から子供のことより金にしか興味ない、サイテーの親父だったんだから」
「他人のことなんだけど、とても腹が立ったの。そしてその怒りの矛先をあんたに向けようと思って、予告通りあんたを殺そうとした。だけど、いざ家に帰ってみると……あんたは柄にもないことを言い出して、何故か私に優しくしてくれた。私のことを本気で考えていてくれているみたいだった。少なくとも、その誠意は十二分に伝わった。
私は思った、何で今日に限ってこんなにやさしくしてくれるんだろうって。誘拐したのは私なのに、佐藤くんはそれを棚に上げて、私がどうするべきかを必死で考えてくれた。どうしてそんなに優しくしてくれるのよ! お陰であなたを殺す計画はパーになっちゃったじゃない。しかも、この手であなたを殺せなくなった……私はその時から、佐藤くんが好きになっていたんだから。だから、だから……その時なにも答えられなかったの。この人は殺せないと思った瞬間、なんだか急に申し訳なくなっちゃって……どうして私は好きな男をかんきんしちゃっているんだろうって。本当に運命は皮肉なものね、まさか私があんたを好きになってしまうとは、夢にも思わなかった。ちなみに、それから起こったことは全部佐藤くんの推理通りよ」
自分から言おうとしていたのに、結局告白の台詞は彼女が先に言ってしまった。
「俺もいつの間にかアズサのことが好きになっていた。今まで本心を伝えられなかったことを、本当に残念に思う。ただ、もう一度やり直せると思うんだ。俺たちの恋愛に邪魔な、俺の両親は俺が考えて君が実行に移した完全犯罪によって一生ばれることはないだろうし、君が俺を監禁していたことだって、ただ単に愛し合っていただけだと言えば良いんだよ。一連の事件で二人はどん底まで落ちたけど、逆にこれをチャンスだと思ってもう一度やりなおしてみようよ、ね?」
「もう、遅いの。だから言ったでしょ、佐藤くんは甘いって」
「何が遅いんだよ。まだ間に合うだろ?」
俺は必死に彼女の肩を揺さぶった。けれども、彼女はまるで電池の切れたからくり人形のようにぐったりしていた。もう彼女に、残された力はないのかも知れない。
「佐藤くん、探偵が一番しちゃいけないことって覚えている?」
「ああ」
事件を解くためのポイント、それは思考停止しないことだ。
「佐藤くんは私を救う事ばかり考えて、現実を見ずに思考停止しちゃっている。まず、私がその情報を知ったのは、佐藤哲也のパソコンをハッキングしたときだった」
親父は聞いてきた。なあ、深志。会社のパソコンがハッキングされているんだが、なにか知らないか。俺は答えた。しらねえよ、と。
「そして世間よりも早く、私はそのとんでもない情報を知ってしまったの。ねぇ、わからないでしょ? ……佐藤くんはここに連れてこられてからずっと午後四時になるとモーツアルトのピアノソナタを聞いていたと思う。それが、今日になって急に途絶えたのはどうして?」
「それは、たまたま病気か旅行かでピアノを弾けなくなったんじゃ……」
「あんた、それでも探偵? そもそも、どうして隣室のピアノが聞こえてくるのよ! ここはパワーエス産業が誇る超一流のマンションよ、どうして防音設備がしっかりしていないの?」
…………。
唖然とした。そうだった、アズサの言うとおり、俺は完全に思考停止した状態にいた。
「元々私がこの物件を知ったのは、パワーエス産業の紹介なの。ほら、マンションが欠陥だとばれて、パワーエス産業はたまたま空いていた美辻野のこの部屋を四ヶ月という期限付きで貸してくれた。たった四ヶ月よ! それでもまだ住むところがあるだけましだと思って、私は一人で入居した。そのころにはもう両親は首を吊って死んじゃったからね。あのパワーエス産業は、私のささやかな家庭から元々なかった金を奪い、しまいには唯一の自慢だった愛をも奪った! その見返りとして用意されたのがこの部屋よ。一見豪華そうだけど、私はこの壁を叩いてみて、すぐにここも欠陥だとわかった。案の定、パワーエス産業のパソコンをハッキングしてみると、異様に鉄筋の少ない見積書が出てきたの。ここも欠陥だと知れ渡るのは時間の問題。私はいっそうのこと、両親みたいにここで首を吊りたくなった。パワーエス産業に呪いをかけてね。だけど、どうせ死ぬのなら、もうちょっと生きているうちになにかがしたくて、まずはパワーエス産業の社長から愛を奪ってやろうとしたの。けれども佐藤家には元々愛なんてなかった! むしろ愛を奪われたのは私の方で、復讐計画は滅茶苦茶になってしまった。何もかもあんたがいたせいよ! どうして、私がこんな変態で、馬鹿で、唐変木で、どうしようもない男に恋しなくちゃ行けないのよ! よりによってこんな時に!」
アズサは嗚咽しながら話していた。頬は赤らみ、瞼からは涙が零れていた。俺はアズサの元に近寄り、そっと彼女を抱いた。近くにいたけど、彼女はとても遠い存在だった。そして全てを話した今、彼女は僕のすぐ近くで、むせび泣きを続けている。彼女は暖かく、とても小さかった。
「いち早くここが欠陥だと気付いた私は、更にハッキングを繰り返してその構造を把握した。すると、震度三の地震が起こっただけで全てが倒壊してしまうことが分かった。とくに、六階より上の各室にいる時に震災が起こった場合、生き残る確率はゼロ。そう言う構造になっていたのよ、このホープハイツみつじのはね! まったく、なにが『希望の家』よ、単なる殺人道具じゃない」
蓋然性、プロバビリティーの殺人。あたかも事故が起こったかのように演出する、究極のトリック。日本は地震大国だから、いつ震度三の地震があっても不思議ではない。そう、この住宅自体がいつ作動するかわからない、巨大なギロチンだったのだ。
「あのスクラップノートはこのホープハイツみつじのを中心に、パワーエス産業の悪事を切り貼りしたノートなの。朝食に鮭児が出てきたのも、急にピアノソナタが演奏されなくなったのもたった一つの理由。それは、昨日の夜の時点で既にこのマンションには立ち退き命令が政府から出ているから! 現時点で、このマンションにいる人は誰もいない。
それもホープハイツみつじのだけの話ではなかった、なんとこの美辻野ニュータウンにある全ての家が、鉄筋の極端に少ない欠陥住宅だったのよ! ここ美辻野は一夜にして見事なゴーストタウンと化した。だから、今この山奥にある美辻野にいるのは、私と佐藤くんの二人だけ。もうバスも走っていない。大丈夫、食糧はこうして下のショッピングモールからたくさん盗んできた。あとは、佐藤くんさえいてくれれば、それでいい」
次の瞬間、アズサは自分のポケットから二つの金属を取り出し、それを手の届かない部屋の遙か奥の方へ放り投げた。それがこの首輪を外すための鍵だと言うことに気付くのに、さほど時間はかからなかった。俺は何も言えず、ただ涙を流すアズサを眺めることしかできなかった。
「あんたなんか、あたしがこの家から出ている時に地震にあって死んじゃえば良いんだと最初は思っていた。だけど、私が生き残ってもしょうがないと言うことに気がついた。そして、私は佐藤君を愛してしまった……。だから、一緒に死んで欲しいの。これが最後のお願い。どうしようもなく陰気で、ネガティブで、頭の悪い女の、最後のけじめ」
アズサは俺にぴったりと抱きついてきた。二人の距離は完全になくなった。俺はアズサにキスをした。とても長いキスをしていた。長くたって良いんだ、ここでの時間は無限である。世間の言う時間なんて関係ない。しばらく抱き合った後、俺は身につけていた腕時計を外し、鍵と同様に放り投げた。こんなもの、俺たちにはいらない。
俺は二千年ほど前のエルコラーノの町並みを思い浮かべた。陽気な太陽の下、地中海の暖かな潮風に誘われて、俺とアズサは何事も心配することなくただ楽しげに散歩している。街は活気に満ちていて、アズサが愛用する香辛料のボトルに描かれたようなおっさんが気軽に挨拶してくれる。暖かい空気に、心まで満たされていった。遠くにヴェスヴィオ火山が望めたが、そんなことどうだってよかった。今の時間は無限なんだから。地震がいつ来たって関係ない。
もしも今すぐ地震があったら、美辻野の街はエルコラーノのように土と化してしまうだろう。遙か時を越えて、俺たちの遺体は来世になって発掘されるのだろうか。その時は、この忌々しい美辻野の街で最後まで戦った二人の英雄として、墓地に埋葬してもらおう。
俺は再びアズサを抱いた。
※ ※ ※
美辻野に送電が止まったのだろうか、辺りは急に暗くなってしまった。何もない真っ暗な街の、何もない真っ暗なマンション。一つの密室に閉じこめられた名探偵と、自らの運命に翻弄され結局元の場所に戻ってきた少女。真っ暗でお互いの表情が伺えなくても、互いに心は通じ合った。いつまでも、二人の距離はゼロのままだから。