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激しく身をよじり、苦しげな喘ぎ声を吐き出し続けていた白花さんが、急に静かになった。
血が溜まった中庭の地面に、ぐったりと横たわっている。
「白花……さん……?」
軽く肩を揺する。反応はない。
「え……? 死んじゃったの……?」
「いやいや、そんなわけないっての」
堪えきれず涙が溢れかけていた僕に、辛酢からツッコミが入る。
「痛みを請け負うのは、きっかり一時間だ。前にも話しただろ?」
「……そうか、一時間……」
あれからもう一時間経った、という感覚ではない。
たった一時間しか経っていないんだ。そんな思いだった。
なにもできない悔しさを胸に白花さんを見守り続けた時間は、僕にはもっとずっと長く感じられた。
「ま、お疲れさん、と言っておくか。お前はべつに、なにかをしたってわけでもないけどな」
「…………」
反論する気力も起きない。
「んじゃ、お前は帰れ。自己満足なだけではあるが、役目はもう終わっただろ?」
嫌味を含んだ辛酢の言葉に、僕は控えめに疑問を返す。
「……白花さんは、どうなるんだ?」
「ん? ああ、今は眠っている状態だ。しばらくすれば起きる。起きたらすっかり、元気になってるってわけさ。
どれくらい眠っているかは、状況によってまちまちだから、オレにもわからんがな」
「それじゃあ、起きるまで白花さんはこのまま……?」
「まぁ、そうなるな。だが、誰にも見えないし、とくに問題はない」
「いや、問題あるだろ。もう夕方だし、夜になったらまだ肌寒いんだから」
「ふむ……。オレには肌寒いとかいう感覚は、よくわからないが」
黒天使ってのは、寒さを感じないのか。
フカフカそうな黒い翼があるからなのかな?
それ以前に、もしかしたら全身が羽毛にでも覆われてたりして?
と、そんなことを考えている場合じゃない。
「僕、カバンを取ってくるよ。白花さんのも。辛酢、戻ってくるまで白花さんを見守っていてくれ」
そう言い残し、僕は一旦、中庭を離れる。
そのまま裏門からでも正門からでも外に出て帰ってもいいとは思ったけど、教室に置きっぱなしの通学カバンは持ってくるべきだろう。
もちろん、白花さんのカバンも持ってくるのは、家まで送り届けるためだ。
「見守る必要もないだろうけどな。誰にも見えないんだから」
教室へと向かう僕の背中越しに、そんな辛酢の言葉が聞こえてきた。
黒天使ってのは、随分と薄情なんだな。
☆
一度教室まで赴き、カバンを持って戻ってきた僕は、白花さんの体を素早く背負った。
小柄な白花さんは、思った以上に体重が軽かった。それでも、お姫様抱っこは無理だった。
ふたつのカバンを持っていく必要もあるからだ。
それくらいなら辛酢に持たせてもよかった気はする。
ただなんとなく、僕が全部運んであげたい、という気持ちになっていた。
どちらにしても、辛酢が僕の言うことを聞いて、素直に運んでくれるとも思えない。
とはいえ、今の僕には辛酢を頼らなければならないことがあった。
不本意ながら、お願いしてみる。
「辛酢、白花さんの家まで、案内してほしい」
「お前、わざわざ運んでやるつもりなのか? どうせそのうち目覚めるんだから、放っておけばいいだろうに」
「いいから、案内しろ!」
強い口調で命令する。
相手は死神の使いである黒天使。機嫌を損ねられたら、僕自身、どうなってしまうかわかったもんじゃない。
そう思ってはいても、口から飛び出していく言葉を止められなかった。
「……ふん、わかったよ。まったく、お節介なやつだぜ」
辛酢は悪態をつきながらも、しっかり道案内をしてくれた。
「どうでもいいが、お前、家の中まで勝手に入るつもりか?」
「いや、親御さんに引き渡せばいいだけだよ。怪我とか血とか、普通の人には見えないんだろ?」
「血はともかく、怪我自体はもう治ってるがな。だが、クチナシに親はいないよ。独り暮らしだ」
「そ……そうなのか……」
僕は両親とも健在で、とくに不自由なく暮らしている。
なんとなく、罪悪感のような思いが芽生える。
辛酢との会話も途切れ、黙々と歩いているうちに、目的地までたどり着いた。
小さめのアパートの一室。そこが、白花さんの暮らしている場所だった。
「カギはカバンの奥にしまってある巾着袋の中だ」
「ん、わかった」
取り出したカギをカギ穴に差し込んで回すと、いとも簡単にドアは開いた。
このドアのカギなのだから、当たり前ではあるのだけど。
独り暮らしの女の子の部屋のドア……なんて考えると、こんなに易々と開いてしまっていいのかな、と思ってしまう。
「おいおい、なにおかしなこと考えてんだよ。言っておくが、家の中まで連れていくだけだからな?」
「わ……わかってるよ!」
辛酢に図星を指されて焦りつつも、僕は白花さんの家に上がり込む。
「お邪魔しま~す……」
ついつい小声になってしまうのは、やましい気持ちがあることの表れだろうか。
「そういえば、両親がいないのに、家賃とかってどうしてるんだ?」
「ん? ああ、金なら心配ない。遺産がたくさんあるらしいからな。
ま、もしそんなのがなかったとしても、オレやデスト様がどうにかするが」
どうにかって……どうするというのやら。
そのあたりは追求しないでおこう。相手は死神の使いと死神王だし。
「どうしようか? 玄関先に寝っ転がせておくわけにもいかないよね……」
「そうだな。まだ眠ってるし、寝室まで運んでやってくれ」
「えっ!?」
「……いやらしいことは考えるなよ?」
「なにを言っているのかね、辛酢くん!」
「お前こそ、なに言ってやがんだ。オレじゃ運んでやれないから、仕方なくってことだからな?
オレはクチナシやクチナシの持ち物に触ったりはできない身なんだよ」
「そう……なんだ」
さっき考えていたみたいに、辛酢にカバンを持ってもらうというのは、どっちにしても不可能だったのか。
「それ以外にも、死亡請負人としての役目に影響が出そうなものには、一切手出しができない。
そういう決まりになってるんだ」
「もし破ったらどうなるんだ?」
「デスト様によって罰を与えられるだろうな。どうなるかは、死神のみぞ知る、ってところか」
辛酢との会話を続けながら、僕は白花さんをおぶったまま寝室まで進んでいく。
アパートの内部は、さほど広くもない。
狭いキッチンと六畳くらいのリビングを抜けた先に、四畳半ほどの寝室が存在している程度の間取りだった。
「布団は基本的に敷きっぱなしだな。当然、定期的に天日干しはしているが」
黒天使から天日干しなんて言葉を聞くことになろうとは。
なんだかとっても、似合わない。
「おいっ、なにを笑ってやがる!?」
「いや、べつに……。とにかく、白花さんを布団に寝かせないと」
僕は背中から白花さんを下ろし、布団に横たわらせる。
制服のままではあるけど、僕が着替えさせるわけにもいかないし、それは仕方がないと考えるしかない。
「ところで、血がついたままだけど……」
「ああ、べつに気にしなくても大丈夫だ。半日もすれば消えるからな」
「そうなのか」
その話を聞いて思い出す。
白花さんが姫女苑さんを交通事故から救ったあの日、血のついた制服をバッグの中に隠していた。
あれはまだ血が消えていなかっただけだったのか。
他人には血が見えないはずなのに別の制服に着替えていたのは、感触が気持ち悪かったからだと考えられる。
もしくは、制服の一部が破けたりしていたのかもしれない。
代えの制服は、車にはねられるという状況を見越し、あらかじめ用意してあったのだろう。
布団に横たわる白花さんを、じっと見つめてみる。
まつ毛が、すごく長い……。
白花さんの寝顔って、結構可愛らしいな。
そう思いながら、薄手のかけ布団をかけてあげた瞬間、パチリと目が開く。
「あ……えっと、その……。お……おはよう、白花さん」
「な……、え……? あれ? 臼実くん……? なんで……!?」
困惑する白花さんに事情を説明する。
なお、「なんで……!?」と言われた直後、「イヤぁ~~~!」と叫ばれ、勘違いの強烈なビンタを一発いただいたことだけ、追記しておこう。
☆
そのうち消えるにしても、制服には血の色や感触がしっかり残っていた。
加えて、地面に倒れていたことで、土の汚れもついていた。
さすがに着替えたい、というわけで、白花さんの服装は部屋着に変わっている。
当然ながら僕は、白花さんが着替えているあいだ、寝室から外に出された。
同じく寝室から出ていた辛酢に、「のぞくなよ?」と念を押されたりしながら待っていると、「もういいよ」との声。
寝室内に戻ると、白花さんは上下薄手のスウェット姿になっていた。
部屋着だから、パジャマとはまた別ってことになる。それでも、なんだか新鮮で、ちょっとドキドキしてしまった。
ただ、辛酢がジト目を向けているみたいだったので、なるべく気にしないように努めた。
それはともかく、僕は今、プリンを食べている。
なぜ唐突に……と思われるかもしれないけど、白花さんが出してくれたのだから、遠慮せずにいただくのが筋ってものだ。
「一日一プリンってことで、コンビニとかに行って頻繁に買い込んでるの。辛酢もたくさん食べるし」
「黒天使が、プリン……だと!?」
「うむ。プリンは美味い! 甘いものなら、なんでも好きだがな!」
「辛い酢なんて名前なのに……」
「名前は関係ない!」
閑話休題。
プリンの時間が終わると、不意に真面目な顔に戻り、白花さんはこんなことを言い出した。
「私のことなんて、放っておけばいいのに」
家まで連れてきたこと自体は、感謝されたのだけど。
そうはいっても、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだろう。
でも、僕の気持ちだって少しは考えてもらいたいところだ。
「僕は知ってしまったんだから。現に、見えるわけだし。放っておくことなんて、できないよ」
「なにができるってわけでもないのにな」
「辛酢、うるさい!」
鬱陶しい黒天使だ。
「僕は僕のしたいようにするだけだよ。
確かになにもできない。自己満足でしかないかもしれない。
それでも、白花さんのために、なにかしたいんだ」
「臼実くん……」
白花さんが、僕をじっと見つめてくる。
僕も黙って、白花さんを見つめ返す。
今まで気づかなかったけど、ショートカットが似合っていてとてもチャーミングだ。
髪の毛は濃くて真っ黒なのに、モミアゲから伸びるている長い毛の束だけ茶髪なのが、なんとも不思議な魅力をかもし出している。
「モミアゲの毛って、エクステ?」
「ううん、地毛だよ。そこだけ茶色いのも生まれつき。先生からは、よく注意されちゃうけど」
「そうなんだ」
今度は白花さんの顔のパーツをつぶさに観察する。
大きな瞳、細めの眉、小さめの鼻、つやめく唇。どれを取っても、欠点は見つからない。
全体的なバランスもよく、随分と整った顔立ちのようだ。
静かで目立たない学園生活を送らず、もっと積極的に人と関わっていけば、モテモテになれそうな気もする。
また、よく見ればなぜか左目だけが微かに青いのも、神秘的な雰囲気を漂わせている。
オッドアイというやつだろうか。片方にだけカラーコンタクトをしている可能性もあるけど。
「左目って、カラーコンタクト?」
「え? ああ……青い瞳ね……。違うよ、これは……」
「死亡請負人の証だ」
辛酢がまるで奪うように答えを引き継ぐ。
「じゃあ、瞳が青くなくなったら、罪滅ぼしは終わったってことになるんだね」
「ま、まだまだ全然だがな。クチナシが生きているあいだに、役目が終わることなんてないだろうよ」
「そうなのか……」
もしかしたら、ちょうど七万四千回目の死亡の請け負いが近い可能性もあるのかも、といった淡い期待をしてしまったけど、あっさり打ち砕かれる。
役目さえ終われば、白花さんがあんな痛い目に遭うこともなくなると思ったのに……。
「やっぱり、死ぬほどの痛みを受け続けるなんて、白花さんがかわいそうだよ」
僕の気持ちは、素直に口からこぼれ落ちていた。
かわいそうだなんて、上から目線の言葉でしかないのかもしれない。
そうであっても、言わずにはいられなかった。
たとえ、どうにもならないとしても……。
「臼実くん、ありがとう。でももう、慣れたから」
白花さんは健気に微笑む。
その表情は、やはりどこか寂しげだった。
「ご先祖様の罪を償うのは、私に課せられた使命だから。納得……してるから」
そう言いながらも、納得しきれているわけではないのが、声の震えから充分に感じられた。
納得できるはずがない。
だからといって、使命を放棄する、なんてことも、できそうになかった。
だったら……!
「僕が、痛みを半分引き受ける!」
白花さんが、そして辛酢が、目を丸くする。
「おいおい、なに言ってんだよ。そんなこと、できるわけないだろ?」
「どうにかしろよ、辛酢!」
「だから、無理なんだって!」
「プリン一年分でどうだ!」
「…………いやいや、無理だから」
「今、間があった! 考え込んでた! ってことは、不可能ではないんじゃないか!?」
「不可能だっての! つい、大量のプリンに溺れる場面を想像してしまっただけだ!」
辛酢の言っていることが真実なのかはわからない。
だけどこの黒天使は、頑として僕の願いを拒絶する。
「お前、もう帰れ! 死亡の請け負いをした日は、クチナシは早めに就寝するんだ。邪魔をするな!」
「さっきまで寝てたのに……」
不満を口にするも、白花さんが眠そうに目をこすっているのは確かだった。
「ごめんね、臼実くん」
辛酢に口裏を合わせた、というわけでもなく、本当に眠そうな声。
ここは引き下がるしかないだろう。
「夕飯もまだ食べてないけど、このまま寝ちゃうの?」
「プリンは食べたから。あとで起きたら、適当に食べる。それじゃあ、おやすみ……」
これ以上は耐えられそうもなかったのか、一方的に言い終えると、白花さんはかけ布団を頭からすっぽりとかぶってしまった。
僕はゆっくりと立ち上がる。
素直に帰る以外、選択肢はなかった。
キッチンの前を通って玄関へと向かう際、炊飯器が保温状態になっていることに気づく。
開けてみると、炊いたご飯が残っていた。
余計なことかもしれないな、とは思いつつも、僕は置かれてあったラップを手に取り、おにぎりを作り始める。
冷蔵庫やらを勝手に開けるわけにもいかないし、塩をかけただけの簡素なおにぎりではあるけど。
ラップを使って握ったおにぎりを、それぞれラップにくるんだままの状態で皿の上に並べておいた。
起きたら食べてね。
書き置きを残してから、僕は白花さんの家をあとにした。
「まったく、お節介なやつだ」
と言った辛酢の声は、心なしか穏やかな調子だったように思えた。




