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ある日の放課後、クチナシが僕に声をかけてきた。
「ねぇ……これから、その……うちに来ない……?」
まだ教室内にはちらほらとクラスメイトが残っている。そのためか、小声でささやくような感じだった。
それを聞いた僕の心は、飛び上がりそうなほど躍る。
うわっ! クチナシが僕を家に招いてくれるなんて!
こんなの初めてのことだ。
すでに二回ほどお邪魔したことはあるけど、そのどちらも落ち着いて時間を過ごせたわけではなかったし。
僕たちはべつに恋人同士ではない。
だから、なんというか、色気のある展開に……というのはありえないと思うけど。
そうであっても、ついつい期待してしまう。
ひとり暮らしの家の中にふたりきり。
これは、なにがあってもおかしくない!
「ちょ……ちょっと、なんか変なこと想像してない? そういうのじゃないからね?」
無意識に表情に出てしまっていたのだろう、クチナシから釘を刺されてしまった。
むぅ……。残念だ。
とはいえ、家に呼んでくれたという事実に変わりはない。
ふたつ返事で了承……しようとしたところで思い出す。
しまった。今日は図書館に行かないといけないんだった。
僕が借りた本ではない。お母さんが借りた本を返しに行くよう、頼まれていたのだ。
そんなの自分で行け、と言いたいところではあるけど、そうもいかない。
仕事が忙しいくて行けないからこそ、僕にお鉢が回ってきたのだから。
両親は共働きで同じ職場の同僚でもある。勤務先はソフトウェア開発会社で、納期間近ともなると場合によっては休みもなくなってしまう。
今もそんな様相で、お母さんいわく修羅場なのだとか。しばらくは休めるはずもなく、借りた本を返しに行っている時間が取れない。
市立図書館から借りてきた本だし、やむにやまれぬ事情だってある。
少しくらい期限が過ぎても、理由を説明すれば大丈夫そうだとは思うけど。
お母さんは真面目な性分だから、期限までにちゃんと返したいと考えているらしい。
それに、期限を大幅に過ぎてあまりにもひどいと判断されたら、今後、本を貸し出してもらえなくなる可能性もゼロではない。
自分では行けなくても、返却だけなら誰かに頼むことも可能だ。
ちょうどいい使いっ走りとして、僕に白羽の矢が立った。
返却期限は今日。実を言えば、数日前に頼まれていたのに、面倒で後回しにしてしまっていた。
期限が守れなかったら、それは僕の責任となる。きちっとしていないのが嫌いなお母さんに、こっぴどく叱られてしまうだろう。
「僕、今日は用事があるんだよね、ごめん。明日じゃダメかな?
祝日で休みだから、そのほうがずっと一緒にいられると思うけど」
「えっと、今日じゃないと意味がないというか……」
今日じゃないと意味がない。
ヒントにはなっていると思うけど。
どういう理由で家に呼ぼうとしているのか、その言葉からは答えが見えてこなかった。
しかも、クチナシはそれっきり、口ごもってしまう。
「ん~、じゃあさ、用事が終わったら行くよ。それでいいでしょ?」
「え? う~ん……。わ、わかった」
僕の提案を、クチナシは不満そうではあったものの、一応受け入れてくれた。
気になるところではあるけど、わかったと言っているのだから問題はないだろう。
「それじゃあ、急いで行ってくるよ。またあとでね!」
「うん……」
まだ納得できていなさそうなクチナシを残し、僕は素早く教室を出た。
☆
高校へは、僕は徒歩で通っている。
市立図書館は同じ市内にあるとはいえ、方向も逆だし、駅で言えばふたつ隣ということになる。
学校帰りにそのまま直行するわけにもいかない。
僕は一旦家まで帰り、お母さんが借りた本を手提げバッグに入れると、自転車に乗って図書館へと向かった。
自転車に乗って行動するのも、随分と久しぶりだった。
学校は徒歩通学だし、休みの日に出かけることもほとんどない。たまにコンビニまで足を運ぶことはあるけど、家の近くにあるから歩いていくのが普通だ。
こうして自転車で風を切って走るのも、なかなか気分のいいものだな。
たまには健康的にサイクリングでもするべきだろうか。
そんなことを考えながら住宅街を抜け、田畑が広がる地帯を横切り、やがて大通りへと差しかかる。
ふた駅ほど隣となる、僕の住んでいる市の中心街。それなりに人通りも多く、そこそこ賑わっている。
自転車でも結構な時間がかかってしまう。だからといって、電車で向かうのも微妙な距離だった。僕の家が駅から遠い場所にあるためだ。
クチナシの家みたいに、駅から徒歩数分程度であれば、電車で来てもよかったとは思うけど。
なお、目指す市立図書館もまた、駅からは遠い位置にある。
交通手段として僕が自転車を選んだのも、ごく自然な判断だったと言えるだろう。
僕は人のあいだをすり抜けつつ、速度を緩めながら市街地を走り抜けていく。
と、そこで見慣れた制服の後ろ姿を発見した。
うちの学校の女子生徒がふたり……というだけではない。
片方は、頭の左右に縦ロールが揺れている。
姫女苑さんだ。
とすると、隣に並んでいるのは、当然ながら春紫苑さんということになる。
ふたりとも、お金持ちのお嬢様だけど、一方で普通の高校生でもある。
たまにはこうして市街地まで繰り出して、どこかで遊んだりショッピングに興じたりすることだってあるのだろう。
そういう場合でも、親友のふたりはやっぱり一緒に行動しているようだ。
それにしても……。
縦ロールを睨みつける僕の胸には、怒りの念が湧き上がり始める。
意地悪な発言をぶつけたり、クチナシの持ち物を隠したり、といった嫌がらせは、あれからずっと続いている。
僕が文句を言ったからなのか、窓ガラス事件以降、あまり無茶なことはしないようになったけど。
それでも、姫女苑さんがクチナシを目の仇にしているのは、まったく変わっていない。
すでに二度、姫女苑さんの命をクチナシが助けてあげたというのに……。
もちろん、本人はそれを知らない。伝えたところで、信じてもらえるとも思えない。
だけど僕は知っている。だから、どうしても憤りを感じてしまう。
一緒にいる春紫苑さんも春紫苑さんだ。
姫女苑さんがクチナシに対する嫌がらせをしていることには、しっかりと気づいている。それなのに、見て見ぬふりを貫き通しているなんて。
親友だったら止めるべきだと思うのは、僕がクチナシ側に寄った立ち位置にいるからだろうか?
ふたりの姿はすぐに見えなくなった。僕は今、自転車に乗っているのだから、それも当たり前だ。
このタイミングで、僕はある推論にたどり着く。
もしかしたら、姫女苑さんがまた死ぬ予定になっていて、クチナシが身代わりになるんじゃ……。
顔が青ざめる。
クチナシの様子がなにかおかしかったのも、そのせいだったとか?
すぐに回れ右して、姫女苑さんたちを追いかけるべきなのかもしれない。
一旦はそう考えた僕だったけど、いやいや、そんなはずはない、とすぐにそれを振り払う。
クチナシは今日、僕を家に呼んでくれた。ということは、家で僕の到着を待ってくれているはずだ。
自分の家にいたら、クチナシは姫女苑さんの身代わりにはなれない。
だいいち、こんな短期間に何度も死にかけるなんて、どう考えてもありえない。
このところ、姫女苑さんや春紫苑さんの身代わりになったのが何回かあったけど、マンションでは見知らぬ子供を助けたし、知人だけに限られるってわけでもないはずだ。
僕は気持ちを切り替え、予定どおり市立図書館を目指した。
市街地から離れると、ガスタンクの姿が目に飛び込んでくる。
ここはガス会社関連の施設らしい。広い敷地の中に、ガスタンクや他の建物がいくつも立ち並んでいる。
敷地の周囲はコンクリートの高い壁に囲まれているけど、もし爆発なんかしたら大変だろうな、と通るたびに考えてしまう。
ま、安全性が確保されているからこそ、市街地からさほど遠くないこんな場所に存在できているのだ。心配なんて無用だろう。
☆
図書館に着き、無事に本を返却した僕は、再び自転車にまたがる。
「さてと、クチナシの家に行くか」
それにしても、自分から進んで家に呼んでくれるなんて、なにをしてくれるつもりなのかな?
色気のあるような展開は、さくっと否定されてしまったけど。
だとしたら、どういう理由で呼ばれたのだろう?
あっ! 手料理をご馳走してくれるとかじゃないか?
もしそうなら、お母さんは今日も遅いだろうし、またコンビニ弁当を食べるしかないかな、と思っていたから非常に助かる。
というのもあるけど、女の子の手料理が食べられるとしたら素直に嬉しい。
他の可能性も考えてはみたけど、いまいちしっくりこない。
きっと手料理だ。そうに違いない。というか、そうであってほしい!
僕は期待に胸を膨らませながら、軽快に自転車を走らせた。