第五話 思い出は夜の中 3
暗闇の中、不意に上から降ってくるものを避けられるはずもなく、キスイは全身ずぶ濡れになってしまった。
わずかに遅れて、キスイのすぐ横に木製の盃が音を立てて落ちてきた。
木から直接削り出したままのようなそれは、直径1mはある大きなもので、直撃したらたんこぶでは済まないだろう。
「あぶなっ!酒くさっ!なんだよ一体?」
キスイに降りかかったのは酒のようだ。しかも彼の父親や叔父達が家で飲んでいるのより、もっと臭う。ものすごく甘臭い。例えるならば、甘酒が腐ったような感じの匂いだ。
「おお?すまんのお。ワシとしたことがウッカリしたわい」
キスイのはるか頭上から、低くて大きな声が響いてくる。
「見慣れぬ小僧だの。この場所に来れたということは神器の候補者か。ならちょうどいい禊になったろうて、許してくれよ」
「ジンギの候補者?何だよそれ。俺は友達を探しているんだよ。なあ、オッサン。酒まみれにされたことは別にいいからさ、俺以外に子供が誰か来なかったか知らない?見てない?」
「子供かどうかは知らんが、すでに小僧のほかに二人の人間が来ておるようだの」
「それだ!そこに連れてって欲しいんだけど」
声の主は低く笑った。
「うむ。もちろんだとも。おい!誰ぞおるか?候補者がこちらまで迷うて来ておる、案内して差し上げろ」
大きな声が遠くに向けられたのに、壁に響く様子は全然ない。キスイはすでにそんなことは気にならなくなっていた。
それどころか、この場所へ来る途中に感じた奇妙な感覚、『間違っていない』という気分が、なぜだか強くなってきている。
まるでこの先に、彼が待ち望んでいた何かがあるような気さえしていた。
キスイが手持無沙汰で待っている間、大きな声の主は落とした杯を拾わずに、直接酒を飲んでいるようだった。
使っているのは壺か樽か、床に降ろすたびに重い音がする。
いくらも経たないうちに、小さな光がゆらゆらと近づいてきた。それは持ち運びできる燭台で、むき身のままの蝋燭の火が揺れている。
足音を立てずに近づいて来た者は、一見すると普通の人間に見えた。
白装束に烏帽子を被っている男のようだが、キスイには見慣れぬ部分があった。
それは、顔を隠すように下げられた、見たことのない文字が書かれた紙だ。
「スサどの。またそのように大酒を食らって。……して、如何なされた」
男は、大きな声の主を見上げて聞いた。
大きな声の主はスサと呼ばれているらしい。
「候補に上がる者がここまで来ておるのだ。早う連れて行ってやれ」
「ほう、こちらからいらっしゃるとは珍しいですね。わかりました。すぐにそう致しましょう」
「いや、あの俺はその、友達を探しに来たんだけど」
キスイの言葉に、顔を隠している男は首を振った。
「候補者どの。残念がら、審査が終わるまではここから出ることは叶いませぬ。代わりにと言ってはなんですが、使いのものに探させておきましょう。候補者どのは審査に集中していただけますよう、お願い申し上げます」
「あ、はい。スサさん、ありがとうごさいました」
キスイは頭を下げながら考える。
自分は候補者ではないのだけれど、どうやら話が通じていないらしい。彼らの中では、キスイは候補者で決定されているようだ。
スサはああ言っていたが、もしかしたら二人はまだ迷っているかもしれない。
顔を隠した男の人が探してくれると言っているし、見つかるまでは大人しく従っているほうがいいだろう。なぜならここは、キスイの知っている世界ではないようだから。
たぶんここは、大人たちにさんざん脅しに使われた【異界】という場所なのだろう。
自分たちにとっての常識の通用しない、それぞれ異なる常識を持った世界。
ここで放り出されては、帰る方法が見つからなくなってしまう。
もし二人がまだ迷っているのなら、自分が助けなくてはならない。
なぜならキスイが二人を連れだしたのだし、何より彼は、【男】として教育されてきたのだから。
キスイは決意を固めて頭を上げる。
そして顔を隠した男についていこうとすると、背中に声をかけられた。
「ところで小僧」
半身になって振り返ると、はるか上から、いぶかるような視線を感じた。
「おぬし、なぜ目を閉じたままなのだ?」
俺はちゃんと目を開いているけど。キスイはそう答えるのがどこか的外れな気がして、結局、なにも答えられなかった。
「いや、いい。早ういけ」
スサの声に背中を押され、キスイは先で揺れている蝋燭の光を追った。
――――――
「ええと、すいません。話についていけなくなったんですけど」
キスイの話を中断したのは、そんなサキの声だった。
テーブルの上には高級そうな茶器が並べられ、ティーカップからはハーブティーの香りと湯気がたちのぼっている。
キスイは自分の前のカップから一口飲んで、のどを潤した。
「そう言われても、ほかに話しようがないんだけどな。俺が体験したままを語っているんだが」
そう言いながら他の二人に視線を向けると、イヅルが椅子に座りなおした。
「じゃあとりあえずまとめてみようか。まず、僕らはだいたい十年くらい前の夏休みに一度会っているんだ。場所はちょっと遠い田舎にある、志島家の分家のお屋敷。僕はそこへ毎年、演舞の披露会のためにいっていたんだ」
イヅルの言葉をミレイが引き継ぐ。
「その時、私はその演舞の客として呼ばれていた。年の近い演じ手がいると聞いていたし、親同士での思惑もあったのだろう。昔からの付き人と行って、しばらくそこの家へ宿泊していたのだ」
ミレイに視線を向けられ、キスイが引き継ぐ。
「俺はそこの近くにある親戚がやってる道場に、毎年泊り込みで特訓に行ってたんだ。あいにく、年の近いやつがいなくてさ、訓練のために走り回っているときにいっちゃんを見つけたんだ」
なるほど、とサキがうなずく。
「それで二人で花火をやろうとして、そこをミレイさんが見つけたということなんですね?」
「そうだ。話はまだ長いし、先を続けるぞ」
キスイはカップの中のハーブティーを飲み干すと、小さく息はいてから、また語り始めた。
――――――
酒で濡れた服の変わりに渡されたのは、白い単衣だけだった。寒くはないけれど、慣れない風通しのよさにキスイは戸惑う。
着替えをもらった部屋は、一部屋だけの小さな建物。磨かれた木が組まれていて、金気が一切見当たらない。いぐさの香りが充満している部屋だった。
障子で仕切られた窓から外をみれば、湖沼の上に建てられているのがわかる。
手すりからのぞく水面には、睡蓮がいくつも浮いているのが見える。そして、その水中が薄ぼんやりと光を放っていて、幻想的な風景を演出していた。
着替えが終わるとさらに別なところに案内された。
板張りの渡り廊下が、いくつもの部屋を繋いでいる。たくさんの部屋が集まって、一つの建物となっているようだった。
薄明かり、水の臭い、木の床の軋み。幻想的でありながら、いつまでも続いていくような、変わり映えのしない風景。
キスイは現実離れした空気に、まるで夢でも見ているような気分になっていた。
それどころか、いままでいた現実こそが夢だったとさえ思えてくる。
「さあ、着きましたよ」
はっとして足を止めると、目の前には顔をかくした男の背中があった。
男が手のひらで指し示したのは、張り替えたばかりのようにキレイな障子戸。
とても大きな部屋なのだろう、その障子がずらりと数えきれないくらいならんでいる。
部屋というか、どっかのお寺の総本山の本堂と言った方が正しい気もする大きさだ。
「あ、ありがとうございました」
キスイが頭を下げると、顔を隠した男は逆に恐縮したようだった。
「いえいえ、とんでもありません。これは我々の仕事なのです。次代の管理者様をお迎えすることが、今の我々の使命です。ですから候補者様もどうか」
男はそこで言葉を区切り、深々と頭を下げた。
「二度と、迷わないようにお願いします」
警告なのか、心配なのかわからない口調でそれだけ言って、男は来た道を戻っていった。
顔を隠した男は、振り返ることなく歩いていく。
その後ろ姿は確実に進んでいるはずなのだが、なぜだか遠ざかっているようには見えなかった。
キスイは男から視線を外し、障子戸をにらんで考える。
このまま此処を歩き回るのは危ないかもしれない。たぶん、一人なら絶対に迷うだろう。
迷ったら、さっきの人に迷惑かけることにもなるだろう。
一人では戻れない。戻れないなら、進むだけか。
キスイは大きく息を吐き、そして吸い込む。
うん、オッケー。
覚悟を決めると、障子戸を大きく引き開けた。