真昼の夜明け
「まるで天の岩戸ですよね」
そう言って彼が見上げた先では、巨大な【円】が空を覆い隠していた。まるで底の見えない穴のようなそれは太陽を完全に隠していて、その影は街の景色の全てを夜のような闇に染めていた。
星のない夜の天蓋ようなそれは、真実この世のモノではない。空に浮かび移動する【穴】など、この世界に存在するはずがないのだ。
「天照大御神を隠した大岩のことだな。確かにそうとも見えるけれど、アレは全然ベツモノだぜ」
彼の声にそう応えたのは、長髪を茶色く染めた青年だった。色付きのメガネをカチューシャのようにして額を晒している。かなり遊び慣れている様子であるが、伊達な服の上になぜか黒一色の野暮ったいマントを羽織っている。さらには夜のような闇の中で、真っ黒な傘をさしていた。
そんな青年の方を見る彼もまた、ある意味不思議な格好をしていた。
汚れた半袖のワイシャツと、学校指定の黒のスラックス。どこかの高校生のようではあるが、その履く靴だけがまったく高校生らしくない。
それは一見すると、ただの年季の入った革製のブーツのように見える。しかしその表面に脈打つ赤い光が、それが異質なものであることを示していた。
そしてそのブーツが触れている地面に、まるで水たまりでもあるかのように小さな波紋が生まれている。
夜のように暗い昼の街の中、不思議な少年と青年が話している。道路に備えられた街灯が照らすのは彼らだけであり、他の人間の姿はない。
しかし彼らの様子はまるで、一仕事終えた友人どうしが今日の成果を話し合っているかのようだった。
「太陽を覆い隠して、それからなんやかんやで退かされるんです。アレはやっぱり天の岩戸ですよ」
「いや、アレはそんなものじゃないんだが……。それにまだ退かされてないだろ?」
青年の言葉に、彼は首を振る。
「いえ、もう終わりですよ」
彼が言葉を言い終える前に、遠くで光が生まれた。
空を覆う穴の中心あたり、それと地面の中間付近で生まれた光の輪が天地を貫く。そしてそれと直角方向にもう一度、光の輪が放たれた。光の輪の一つは彼らのすぐそばを衝撃波とともにまっすぐに走り抜けた。
すると地面を覆っていた影が割れ、そこからアスファルトの黒い色が見えた。
「ね、言ったでしょう?」
彼が笑いながら言い、青年は空を見上げる。
彼らの視線の先では空を覆っていた穴が、四つに割れながらその存在を散らしていく様子が見えた。
「マジかよ、すごいな。いったいどうやったんだ?」
「英雄願望のアイツですよ。自分はヒーローだなんて言ってるくらいだから、これくらいやってくれないと困ります」
そう言って彼は苦笑する。
「そんな理屈でいいのかよ。でもまあ、まだコッチも分かってないことだらけだからな。そういうのもありか」
「そうですよ。この世には『絶対』なんて絶対にないんですから」
二人は顔を見合わせてニヤリと笑いあった。
ふと、青年が視線を動かしてから、目を細めて言った。
「おい、ちょっと。アレは、あの子じゃないのかな?落ちてるみたいだけど大丈夫か?」
青年に言われて彼が上空を見上げると、たった今、光の輪が放たれた中心に人がいるのを見つけた。普通ならそれが人だと分かるわけがない距離ではあるが、そこにいる人間は彼らの知り合いくらいだろう。
「あ、すいません。俺、行ってきます」
彼はあわててそう言うと、膝を曲げて溜めを作った。すると彼が履いているブーツの赤い脈動が、その光を強くする。そして彼はそのまま地面を蹴った。次の瞬間、彼は近くの建物の上に現れた。そしてまた、赤い光とともに姿を消すと、ひとつ先の建物の上に立っていた。彼はまるでいつもそれを行ってきたかのような気安さで、魔法のような業を使いこなしていた。
赤い点滅を残しながら遠ざかる彼を見送って、青年は呟いた。
「自分の力に無自覚な奴は怖いね。お前も十分スゴ過ぎるよ。……まったく、ヒーローなら当たり前だって?その当たり前にたどり着ける奴が、どれだけいるかわかってるのかよ」
不意に、青年は視界が明るくなったことに気が付き、傘から顔を出して空を見る。
空を覆っていた穴はもはや大半が消失していて、残りが消え去るのも時間の問題のようだった。
青年は傘をたたんで、きれいにまとめる。彼が飛んで行った方向を見るが、もう何も見えなかった。それでも、彼らなら大丈夫だろうと青年は信じ切っている。
彼らは世界を救った英雄なのだ、約一名にはその自覚はないだろうが、これくらいで死ぬことはないだろう。
「さて、これから世界は大変なことになるだろうな。俺はとりあえず政府と警察と本部の方に、恩を売れるだけ売っておくか。後は頑張れよ、ヒーローの卵ども」
――――――
その事件から、世界は壊れ始めていった。
いや、もしかしたらそれ以前から、世界は壊れていたのかもしれない。しかし、最初に世界の全てが観測した異常の始まりが、その事件であったのは確かだ。
以来、世界の各地で様々な異常が観測されるようになった。
消える人、消える家、消える街。
いつの間にか増える友人、いつからかそこにある街。
森の奥には怪物が現れ、人々の影に怪異が住み着いた。
そしていつしか人々、はその異常さえも日常に組み込み始める。異常が起きるのは当たり前の世界になったなら、その対策もまた人々のものとなる。
国家単位で異常に対する組織が設立され、民間療法的な対策が世の中へと出回る。
時が経つにつれ、それらは明確化され、磨き上げられ、体系化されていった。
すでに世界は、かつての世界ではなくなっていた。地続きではあるけれど、過去と未来の間には、断崖絶壁のごとき壁が立ちふさがっている。
それでもまだ、世界は普通の世界であると主張をしていた。
老人は過去を懐かしみ、若者は未来を夢に見る。どんな世界になろうとも、少年少女は今を生きるのだった。