<2>
「これでようやく、お母さんに会えるよ」
それが父の遺言だった。
父は二十九歳で、その日も今日みたいに満月の夜だった。父は海辺で手首を切り、腕を肩まで海水に浸けて死んでいた。僕がそれを発見したのは朝になってからのことだった。
幻想的な光景だった。海の不変の青みに、命の真紅が広がり、それを朝陽が鮮やかに照らしていた。それは本当に、美しい死だった。あれほど心を動かされた死は、母の死以来だった。
この島の人は、みんな二十九歳で死ぬ。なぜかと聞かれても分からない。ただそれが、朝起きて夜眠るのと同じように、僕たちにとって当たり前のことだった。正直、こうかしこまって説明するのが不思議なくらいだ。
だから、父の死もごく自然なものだった。隣の隣の家に住んでいる背の高い青年が、父が海岸で死んでいることを教えてくれた。
「本当にきれいだったぜ。早く見てこいよ」
彼は珍しく興奮していた。彼は朝早くに、村から二十分ほど歩いたところにある海岸まで散歩することを日課としていた。その海岸ではよく人が死ぬ。だから道中、誰かが死んでいるのをしばしば見かける。そんなとき彼は十分に散歩を満喫してから、帰りがてらその家庭に知らせてあげる。そのときの彼はいつも素っ気なかった。
「死んでましたよ」
こう一声かけるだけのときもあった。
しかし僕に知らせに来たときは明らかに様子が違った。彼は息が上がっていて、父の死を確認してから急いでここに来たことがうかがえた。彼はしきりに僕を急かし、海岸まで連れてきた。
それは確かに美しかった。美術館の絵画を鑑賞するように、僕たちはしばらく立ちすくんだままじっとしていた。
だらりと伸びた青白い腕。なだらかな曲線を描いた首筋。あてどなく開かれた瞳の先。
すべてが現実味を欠いていた。太陽が昇り、鳥がさえずりだしてからようやく、僕たちは生者の世界に戻ってきた。
父を、送り出す必要があった。ここでは葬式なんてものはない。家族の誰かが死んだら近くの海に流す。それだけだった。海で死ぬ人が多いのもそのためだった。
ゆっくりと、父に近づく。
体に触れる。
とても冷たい。
そのまま、押し出そうとする。
動かない。
死者となった父は、ひどく重かった。
さっきより強い力で押し出す。
父の体が、砂利に擦れながら動きだす。
そのまましばらく引きずると、父の体が海に浮かんだ。
浮いてからは、楽に運ぶことができた。
足が着かなくなる所まで、父を送った。
父の体が手から離れる。
苦労して運んださっきまでとは意外なくらい、あっという間に流されていった。
父が僕から離れていく。
きっとそれは、遠く遠くへ行くのだろう。
父が地平線に溶けるまで、僕はそれを見守った。