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俺の日常非日常  作者: 本樹にあ
◆琴音の過去編◆
88/91

第六十六話~本当に大切なもの~

 琴音の過去編の続きです!

 更新ペースが遅くてすみません!


 その日は少しばかり準備に手間取り、幼稚園の送迎バスが指定の場所まで到着する時間までに間に合わず、琴音ことねを乗せないままバスは幼稚園へと向かった。

 まぁ、それに関してはさして問題はない。少し忙しくてバスに間に合わないことなど今までにも何度かあったことで、こういう日は徒歩で幼稚園まで送り届ければそれでよかった。

 幸いにも、家から幼稚園までの距離はさして遠くない。だから多少遅刻にはなるけれど、幼稚園に行けないなんてことは断じてなかった。

 もちろん、遅刻しないに越したことはないけれど。

 それよりも母としては、琴音がせっかく元気を取り戻して、さあ頑張ろうって時に出鼻を挫く様な形になってしまったことに、とてつもない罪悪感で内心穏やかではなくなっていた。


「ごめんね琴音。急いで幼稚園に向かおう」


 母はその罪悪感に背中を押されるように、いつも以上にがむしゃらになって、バスを追い抜くぐらいの気持ちで幼稚園へと向かう。けれど幼稚園についたのは、結局クラスのみんなが室内に入って各々で雑談を繰り広げているあたりだった。


「すみません、相内(あいうち)先生。遅くなっちゃって」


 バスに間に合わない時は各組の担当の先生に連絡することが決まりとなっている。

 4歳の琴音は年中組にあたるので、年中組の担当である相内先生は、連絡から琴音たちが遅れて通園してくることと、すぐ幼稚園に来れることをあらかじめ聞いていた。


「いえいえ。朝は忙しいですもんね。私も学生だった頃はよく遅刻しては担任の先生に叱られていたものですよ。あはは」


 琴音が休んでいた理由を、風邪だと聞かされていた相内先生。

 けれど本当の理由を、琴音の欠席理由をモフがいなくなって気落ちしているからなのではないかと確信していた。あれだけ大切に世話していたウサギがいなくなってしまったのだ、気落ちしない方が無理があるというもの。

 そして事実、琴音が欠席していたのは相内先生の考えで正しい。

 相内先生がここで琴音が来るのをずっと待っていたのも、先生なりに琴音を励まそうと思ったがゆえの行動だった。

 琴音にとって、モフは宝物だっただろう。かけがえのない存在だっただろう。

 それが、唐突に消えてしまったのだ。ショックを受けない方がどうかしている。

 そんな琴音の気持ちを考えると、とても悲しかった。琴音が欠席している間、先生自身もモフを探し回った。でも、結果今現在も行方が知れないまま、何の力にもなれずに今に至っている。

 自分の結婚式のためにお世話を引き受けてくれた琴音への恩返しもかねて、モフを見つけてあげたかったけれど、どう頑張ったってそれは叶わなかった。

 だったらせめて、先生として、そして自分自身の想いを尊重して、琴音がモフがいなくなった悲しみに耐えて幼稚園に来てくれた時ぐらいは、精一杯励まして、楽しませてあげようと決めていた。


「琴音ちゃん、おはよう」


 琴音と同じ目線まで腰を下ろすと、笑顔であいさつの言葉を投げかけた。

 少しでもモフがいなくなってしまった悲しみを、薄れさせたい一心で。

 そして琴音も、琴音を気遣う相内先生の心が伝わったのか、


「せんせー、おはよう!」


 と、ぎこちない笑顔だったけど元気に返してくれた。


「おっ、良い返事だ~!」


 今もつらいはずなのに元気にふるまっている健気な琴音が無性に愛おしく思えて、先生はわしゃわしゃ~と琴音の頭をなでてやる。

 頭をなでると髪が崩れて嫌がる子とかもいるので普段は絶対にしないのに、今は無意識にそうしてあげたくなったことに先生自身も自分で驚く。


「わっ、せんせー? やめてよ~、あはは」


「やめないぞ~! ほれほれ~!!」


「あ、せんせ~、お花のエプロンだ~」


 琴音に言われて自分がつけているエプロンを改めて確認してみると、淡い薄紅色の生地にカラフルな蓮華草レンゲソウの花模様がちりばめられていた。

 エプロンに関しては、幼稚園のロッカールームにあるものを適当に拝借してきているため、先生本人もそんなに意識していなかったりするのだが、背が小さく常に視界にエプロンが映り込む子供にとっては、とても印象深いものだったようだ。


「わたし、このエプロンはせんせいって感じですき!」


「ホント? 嬉しいなぁ」


 私みたいな感じって何だろう……と心の中で考えたけれど、子供の感性を理解するのはやはり難しく、それでも嬉しいと思えたので先生はそれで良しとしておくことにした。


「それじゃ、琴音ちゃん、お預かりします」


「あ、はい。よろしくお願いするわね、相内先生」


 会話に一区切りついたすきを見計らって、先生は琴音の母に「もう帰っても大丈夫」だということを促す。

 琴音の母も先生に小さく会釈を済ませると、琴音に「じゃあね」と告げて帰宅路についた。

 先生と琴音はその背中をしばらく見送った後、他の園児が待つクラスへと向かっていく。


「あ、ごめん琴音ちゃん、先生ちょっと次の工作で使う画用紙を置いてきちゃったから、先にクラスに入っててくれる?」


「はーい」


 年中組のドアの前で、先生は職員用の部屋へと道具を取りに向かおうとその場を離れた。

 そんな先生に手を振った後、琴音はクラスのドアを開いて教室へと入った。


 ――その瞬間、琴音に注がれる十数名の視線。


 最初琴音は、遅れて幼稚園に来たために、がらりというドアの音に反応したみんなの視線が注がれたモノだと思った。

 けれどそれと同時に、クラスの雰囲気に妙な違和感も覚えていた。

 一言で言えば、どこか殺伐としている。

 威圧感……ともとれない謎の圧迫感が、一瞬にして琴音を包み込んだ。

 この雰囲気は、昔クラス一のお調子者であるマサキくんが、花瓶をひっくり返して、割ってしまった時の――“なにか問題が起こった時”のそれに近かった。

 そんな視線が、琴音を貫く。

 いったい何があったのか。それを理解するよりも先に、誰かが呟いた言葉によって無理やり知らされることになった。


「――あ、裏切りおんなだー!」


「……え?」


 誰かの一言が口火となり、クラス中が一気に湧いた。




 第六十六話

 ~本当に大切なもの~




 琴音が落ち込んでいた日は、琴音だけではなく、彼女の家族――竹田(たけだ)家全体も、まるで琴音の気持ちが伝達していたかのように暗くなっていた。

 食事時も、無理やり食べさせようとしなければ一切口につけず、大好きでいつも欠かさず見ていた教養番組にも無反応を貫き通し、常に真っ暗な部屋の中で布団に包まるだけの琴音。

 普段の無邪気な彼女からは想像もつかないくらいの豹変に、母も、兄である(しゅう)も、なんて声をかけていいのかわからない状態がしばらく続いていた。

 それでも何とか無理やり話題を見つけて話しかけたところで、帰ってくるのは聞こえていなかったんじゃないかと疑いたくなるぐらいの静寂。

 そんな日が数日続いたある日、それは意外な形で幕を閉じた。


『あしたはちゃんとようちえんくるよ』


 琴音と同じクラスの男の子、小野(おの) 和也(かずや)くんとの約束。

 ずっと伏し目がちだった琴音を、初めて気遣ってくれる子が和也くんその人だったのだ。

 モフが行方不明になったあともずっとモフの小屋の手入れを続けていた琴音を、見てくれていた和也くん。そして、手まで差し伸べてくれた。

 そんな彼との約束を交わした日の夜。

 さながら魔法でもかけられたかのように、沈みがちだった今朝までの琴音の姿は消え去り、完全とまではいかないまでもいつもの明るい琴音に戻りつつあった。

 食事時には会話も弾んだし、ここ数日間見ていなかった笑顔もちょくちょく見せてくれるようになっていた。

 そんな琴音の姿が、母と、秋にとって、とても嬉しくて。

 自然と、家全体が活気に満ちるようになっていた。

 ようやく、我が家らしさが戻った。そう母は感じた。


 その、翌日。事件は起こった。

 

「裏切りものが来たぞ~!」


 クラスの扉を開けるや否や、そんな言葉が琴音に飛び掛かってくる。

 

「はんざいしゃー」


「たいほされたんじゃないの~?」


 指を指されて、ケラケラと乾いた笑い声がクラスを覆った。


「なんのこと……?」


 意味が分からない。

 けれど自分がなにかを言われていることだけは理解できた。

 思い思いの罵詈雑言が、さながら豪雨のように戸惑う琴音に降り注ぐ。

 理解できない状況に少しでも答えを見つけようとみんなの顔を見渡すと、その中でも一際琴音を鋭く貫く視線があった。

 その視線を認識た琴音の背筋に、ぞわぞわと悪寒が走る。

 もう見たくなかった視線。あの時の、自分を見下ろすような、憎悪がこもったあの視線。


 ――りなちゃんの、視線。


 もう一度、いつものように仲良くしたい……そんな願いを、つんと突き放すようなその眼が、もう二度と敵わない願いだと告げられているようだった。

 ……いいや、そんなはずはない。りなちゃんとはあんなにずっと一緒に過ごしてきたじゃないか。

 あれだけ一緒にモフの世話をして、仲良くなって、毎日が楽しくて……なのに、こんな簡単に全部全部だめになっちゃうなんて、あるはずがない。

 だから、わたしが謝れば、きっと許してくれる。りなちゃんは優しいから、きっと元に戻ってくれる。元の……優しいりなちゃんに。


「……りなちゃん、ごめ――」


「まだ……しんでなかったんだ」


「え……!」


 ドクンと、心臓が脈を打つ。


「わたしからモフちゃんを奪ったくせに」


 違う、そんなつもりじゃなかった。


「信じてたのに……裏切った……」

 

 いやだ……違う。

 こんなの、りなちゃんじゃない。こんな声……りなちゃんじゃ……。


「ごめんりなちゃん……!! でもわたしそんなつもりじゃ……」


「うるさいうるさい!! ことちゃんなんか……もう友達じゃないから!!」


「うぅ……ぐすっ……」


 我慢できなくて、涙がこぼれた。


「ひどーい」

「ことちゃんさいてー」

「うらぎりものー」


 りなちゃんの言葉に賛同するように、周りの子も口々に呟く。

 クスクスと笑いが漏れて、ニタニタとした気色わるい視線が琴音をなでるたび、こらえきれない嗚咽がどんどん大きくなっていく。

 琴音ができる唯一の抵抗が、耳をふさいで声を聴かないようにすることだけだった。


挿絵(By みてみん)


 りなちゃんに嫌われて、モフがいなくなって、そして今ではクラス中にまで後ろ指を指される始末。

 琴音はこの場所が、普段見慣れていた、明るくてやんちゃな子たちが多くて常に騒がしかったクラスだなんて思えなかった。別の世界にでも着てしまったんじゃないかと思い込みたかった。でも、そんなこと、あるはずもないのは子の胸の苦しみがはっきりと訴えてきていた。

 もう、誰もいない。琴音の味方なんて、この場所に誰も――。


「――そんなに言うことないだろっ!」


 突然、目の前に何かが出てきた。……いや、違う。“誰かが現れた”。

 俯いていて誰なのかわからず、それを確認するように琴音はゆっくりと顔を上げる。

 するとそこには、かばうように琴音の前に立ち、両手を広げて立ちふさぐ、男の子の姿があった。そしてその後ろ姿を、琴音は確かに知っていた。

 その人物は、今日、琴音がこの幼稚園へと足を運ぶきっかけとなってくれた――唯一琴音に手を差し伸べてきてくれた男の子。そんな彼の姿を、知らないわけがなかったのだ。


「……かずや……くん……!!」


「あ、名前おぼえてくれたんだね、ことちゃん」


挿絵(By みてみん)


 後ろで小さく怯える琴音に顔を向けて、和也くんはこんな状況にもかかわらずニッコリと笑顔を浮かべてくれた。

 みんなが自分を責める中、クラス全員を敵に回してまで、彼は必死に琴音の味方をしてくれたのだ。

 そんな彼の姿は、琴音にとってまさに救世主だった。

 和也くんの優しさが嬉しくて、頼もしくて、目頭からはさっきまでとは違った涙があふれ出る。


「は? なんなの?」


 しかし、その嬉しさもつかの間。

 今まで琴音を攻めたてていた内の女子一人が、その間に割って入った和也くんに容赦なく刃先を向けた。


「裏切りものの味方するってことは……かずやくんも裏切りものってことだからね」


 ギラリと、鋭い目線が和也くんをとらえる。

 

「おい、かずや、やめとけよ!」

 

 比較的彼と仲の良い友達が焦る声色で和也くんを止めようとした。

 けれど、それでも和也くんはひかなかった。


「おれはよくわからないけどさ、ことちゃんがかわいそうだよ!」


「でも裏切ったし」


「そんなの関係ないだろ! イジメはダメだって、先生も言ってたし!」


「さきにやったのはことちゃんのほうでしょ?」


「それは……! おれはよくわからないけど! でもおかしいよ!」


「だったらごめんなさいしなさいよ! そしたら許してあげてもいいけど?」


 和也くんと、一人の女子との言い合いは徐々にヒートアップしていく。

 それにつられて、周りも「そうだそうだ!」「あやまれー!」と口々に叫んだ。


「で、でもことちゃんはわるくないから!! わるくないのにごめんなさいするのはおかしいよ!!」

 

「なんでことちゃんがわるくないって思うの?」


「だ、だってことちゃんは、休んでた時もずっとモフの当番のやつちゃんとやってたから!!」


 昨日も、一昨日も、その前の日だって、琴音は風邪で休んでるのにわざわざ幼稚園まで来て、一生懸命モフの小屋を掃除していた。

 モフがいなくなって、自分も大変なのに、餌だってちゃんと用意していた。

 それ以前に、みんながモフのお世話をやらなくなった時も、琴音が、りなちゃんと二人でみんなの分まで必死に頑張っていたのをカズくんは知っていたのだ。

 だから、あれだけ仲良しだったりなちゃんを傷つけたり、モフをりなちゃんから奪ったりするのは、あるはずないと。そうクラスのみんなに主張した。

 

「おれは見てなかったからわからないけど、もしなにかやっちゃったとしても、わざとじゃないっておもう! ことちゃんは絶対にそういうことしないよ!」


 皆に睨まれて、罵詈雑言を浴びせられたとき、あれだけ怖かったのに、和也くんはそれでもひるまないで琴音をかばってくれている。

 そんな現状が嬉しいと同時に、琴音は苦しくもあった。

 自分のせいで、関係のない和也くんが嫌な思いをしている。身代わりになってくれている。

 それがすごく申し訳なくて、だけどどこか安心している自分もいて、でもそれがかえって不安になる。自分の代わりに和也くんが責められているのにほっとするだなんて、私は悪い子なんじゃないかって考えてしまう。

 そんな複雑な気持ちが、琴音を支配していて……謝って許してくれるのなら、それでいつものみんなに戻ってくれるのなら、琴音はそれでいいと考えていた。

 だから。


「かずやくん、もうだいじょーぶ……わたしが、あやまるから……」


 和也くんの袖を小さく引っ張ると、琴音は涙をこらえながら無理やり笑顔を作って見せた。

 謝ってすむなら、それが一番いい。

 これ以上、和也くんにも迷惑かけたくない。

 その一心で、琴音はみんなに頭を下げる。


「ごめんなさい……もうしないから……ゆるして、りなちゃん……」


 これであの優しかったりなちゃんが帰ってくるなら、むしろ嬉しいくらいだった。

 それでも……。


「だったら、モフちゃんを返してよ」


 りなちゃんからは、そんな条件が返ってきた。


「え……? でも……モフちゃん……いない、から……」


 モフを返せるなら……もう一度会えるなら、琴音だってそうしたい。

 でも、行方が分からなくなってからもう数日が経過しており、琴音や相内先生が探しても見つからなかったのだ。

 そう簡単に見つかるわけがなかった。

 そんな中。


「ことちゃんが隠してるんでしょ? モフちゃん」


「え……?」


 クラスでは、モフがいないのは琴音が独り占めするためにどこかへ隠したのだというあられもないうわさが飛び交っていたのだ。

 もちろん、噂は噂。事実とは全く異なっている。

 けれど、その噂が間違いだと主張したところで、この場じゃむしろ逆効果。琴音が裏切り者にされるだけ。

 ゆえに、これは条件というよりも命令に近かった。

 仲直りしてほしいならモフを連れてこい。連れてこれないのなら、お前は裏切り者ってことだから仲直りはしない、という一方的かつ残酷で理不尽な命令。

 しかしそれは、裏を返せばモフを見つけてきたら仲直りをしてくれる、という事実でもあるのだ。

 琴音にはまだまだモフをあきらめるなどという選択肢はない。たとえ大人が「モフはもう見つからない」と何度言おうと、琴音はモフを探すのをあきらめる気はさらさらなかった。

 だから琴音にとってこの条件は、モフにも会えるし、りなちゃんとも仲直りできる、まさに願ったりかなったりな要望だった。

 モフが見つかる確率とか、可能性とか、そんな難しいことは4歳の琴音にはわからない。

 あるのはモフに会いたいという純粋な想いと、りなちゃんとまた仲良くなりたいという、強い願いだった。


「……わかった、モフちゃん連れて来るよ」


 そういって琴音は、がらりと扉を開いてクラスを飛び出した。


「ことちゃん!」

「琴音ちゃん!?」


 和也くんと、道具を持ってちょうど扉を開けようとしていた相内先生の驚く声が重なる。

 けれど琴音はそんなことに気を配っている余裕などなく、モフが出ていったであろう例の金網の穴から幼稚園の外へと飛び出した。


「和也くん! 琴音ちゃん何があったの!?」


 琴音を追ってクラスを飛び出した和也くんを抑制し、事情を把握しようとする相内先生。

 そんな先生に、和也くんは「モフを探しに行っちゃった!」と一言だけ告げると、琴音の後を追うように走って行く。


「み、みんなはここで大人しく待ってること! いいわね!?」


 手に持っていた荷物を乱雑に教室へと投げ入れると、相内先生はみんなにそう言い残し、慌ててモフの小屋の方へと走って行った二人の後を追う。

 しかしそこには二人の姿はすでになく、無人のモフの小屋だけが寂しく残されていた。

 モフがいなくなってからも、琴音が丁寧に清掃していた小屋。

 小屋の中にある、モフの飲み水が入ったボトルに水が補充されているのをみて、相内先生は、その時初めてこの小屋が誰かによって手入れされていることを知る。

 誰が手入れしてくれたのだろうなんて、考える必要なんてなかった。


「琴音ちゃんが……ずっとお世話してくれてたんだ……」


 モフがいなくなってもずっと。

 モフがいつ帰ってきてもいいように。

 幼稚園を休んでも、わざわざここまで足を運んで、せっせと世話をし続けてくれたんだ。


(それに引き換え……私は何をしただろう?)


 相内先生は、琴音を慰めようとした。

 琴音に元気になってもらおうとした。

 それは、琴音がモフを大切にしていることを知っていて、……知っていたからこそ、琴音がどれだけ傷ついているのかが分かったからだ。

 だから先生も先生なりに、一生懸命モフを探した。

 あてなんてなかったけれど、自分でやれるだけのことはしたつもりだ。

 でも見つからなかった。

 見つからなくて。見つからなかったから……、“仕方なく琴音を励ます方にシフト”したんだ。


「……何してんだよ、私」


 無意識のうちに、モフはもう見つからないんじゃないかと(なか)ばあきらめかけていた。幼稚園で飼育していたウサギが一羽行方不明になっただけ。そう割り切れてしまえる自分も確かにいた。そしてそれは、彼女が大人で、逃げ出したペットの捜索がいかに困難か知っていたからに他ならない。

 でも、琴音は違った。あきらめなかった。

 いったいなぜ?

 琴音が子供だから?

 モフがもう見つからない可能性の方が高いなんて、微塵も思っていないから?


 ……それもあるかもしれないけど、でも根本的な理由はそうじゃない。


 相内先生と琴音の、根本的な違い。

 それは、整ったこのモフの小屋を見れば一目瞭然だった。


「琴音ちゃんは、“モフのために”頑張ってたんだ……」


 琴音ちゃんのために。

 琴音ちゃんを慰めたい。

 琴音ちゃんを元気づけたい。 


 相内先生の行動理由は、思えば琴音のため“だけ”だった。そこに、モフを心配する感情なんて、(つゆ)程も含まれちゃいなかったのだ。

 だから、小屋が手入れされていたことにも今まで気づけなかった。

 だから、「琴音ちゃんを励まそう」なんて考えてしまった。

 自分の園児に元気になってもらいたいと考えるのは、先生としては当たり前のことだろう。

 けれど、そうじゃない。

 もしも、いなくなったモフがウサギではなく、自分の園児だったら?

 ……きっと、そのせいで琴音が落ち込んでいたとしても、励まそうなんて余裕のある発想は出てこなかったに違いない。

 琴音にかまけるよりもまず、躍起になって行方不明になった園児を探す方に力を注いでいたはずだ。

 人の命がかかっているんだから、当たり前といえば当たり前だった。

 それなのになぜ、私はそんな当たり前をしようとしなかったのだろう?

 相手がウサギだから?

 ウサギと人の命を比べて、人の命の方が重いなんていったい誰が決めた? ウサギなら見捨てても平気だなんて、いったいどこで教わった?

 そもそも今回モフを飼うことになったのだって、『命の大切さ』を学ぶためだったはずなのに……。


「全然……一生懸命じゃなかった……!!」


 思えば、連絡網でモフが行方不明になったことは知らせたものの、貼り紙を作って回覧板に挿入したり、街中に張って回ったりなどをした覚えはなかった。

 ただ居なくなったことだけを電話して、ただ毎日数時間程度その辺を見て回っただけ。

 暗くなれば家に帰ってコンビニで買った夜食を食べ、明日に向けて何の気負いもなく床についていた。

 どれもこれも、いなくなった相手が“ウサギ”という小動物だったから。


「琴音ちゃんにとっては、大切な友達だったに違いないのに……」


 私が気楽に寝ている間、琴音ちゃんは寝付けなかったに違いない。

 モフのことが心配で、不安で、寂しくて、怖い思いをしながら朝が来るのをずっと待ってたに違いない。

 普段大人しくて、グループの輪の中に入ることが苦手だった琴音ちゃんが、モフと関わるようになって、りなちゃんという友達もできた。

 普段はもじもじしててこちら側から話しかけないとなかなか意見できなかった琴音ちゃんが、モフと関わるようになって、初めて自分から話しかけてきてくれるようになった。

 思い出せ。琴音ちゃんが自分から話しかけてきてくれた時の内容を。

 全部が全部、モフのための言葉だったじゃないか。

 会話するのが苦手だろうが何だろうが、モフのためだけに、琴音ちゃんは自分からその苦手にぶつかっていった。頑張った。それくらい、琴音ちゃんにとってモフの存在は大きかった。

 なのにあろうことか、私は落ち込んだ琴音ちゃんを見て、励まそうなどと思い、行動した。いつもの明るい琴音ちゃんでいてほしくて、頭をなでた。

 なんで気づかなかったんだろう。

 いつもの琴音ちゃんに戻ってほしいと願う癖に、その“いつも”にはモフが必要不可欠だってことは欠落していた。

 私は励ましていたんじゃない。琴音ちゃんに、モフのことを忘れさせようとしていただけに過ぎなかったのだ。

 琴音ちゃんに友達を、そして変わる切っ掛けすら与えてくれたモフを、私は見捨てようとした。

 そんなの、先生失格じゃないか!


「……よしッ!」


 今までの琴音の気持ちに本当の意味で気づき、そしてモフの命の重さを真に理解した先生の目には、涙がにじんでいた。

 けれど、その足はもう新たな一歩を踏み出していた。

 まっすぐに、前へと向いていた。

 自分が受け持った園児のために。琴音のために。モフのために。

 モフだって、園児の一人だ。この幼稚園の、仲間なんだ。

 その園児がいなくなって、その子と友達だった琴音も苦しんでいる。泣いている。

 先生にとって、二つの宝物が壊れようとしている。

 それを見捨てられるほど、先生は落ちぶれちゃいなかった。


「琴音ちゃん、どこいったの!?」


 もう幼稚園の門から出るようなもどかしいマネはしない。先生は思いっきりフェンスを飛び越えた。

 きょろきょろとあたりを見回すも、この辺りは民家も多く、小道が複雑に入り組んだ形になっている。

 だから、今この場で全体を見回したところで、視界に入るのは見慣れた家屋やブロックのみ。ただでさえ小柄の子供二人だ、見つけるのは難しいだろう。

 そうとわかれば、もうこの場にとどまっている意味はない。

 かといって、我武者羅(がむしゃら)に探索しても見つけることはできないかもしれない。……モフがそうだったように。

 しかし、今回はモフとは違う。

 いなくなった琴音達の目的は分かっているのだ。


(和也くんが言ってた……琴音ちゃんはモフを探すために飛び出したんだ)


 考えろ。

 もしも自分が琴音の立場だったらどういう行動をとるだろう?

 いなくなった動物を探すには、何が一番手っ取り早いのか。


 ――答えは、実に単純だった。 






 第六十六話 完

 まだまだ続くんじゃ。

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